キューバの野球
この項では、キューバの野球の発祥とその後の発達について記述する。
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[編集] 歴史
[編集] 草創期(1864~1898年)
野球は、1860年代にアメリカ合衆国でルールを学んだキューバ出身者や、キューバを訪れたアメリカ人の水夫達によってキューバに伝えられたのが始まりと言われている。1864年に、当時アラバマ州モービルで学んでいたネミシオ・ギロ、エルネスト・ギロの兄弟が、野球用具とともにキューバに野球を伝えたとされ、野球はすぐキューバ全土に広がった。ギロ兄弟は1868年に野球チーム「ハバナ・ベースボール・クラブ」を創設し、マタンサスに寄港したアメリカ人水夫達のチームと試合をした。しかし同じ年にスペインからの独立闘争が始まると、キューバを統治していたスペインの当局が1869年に野球を禁じる命令を出す。これは当時急速に普及した野球が、スペインの闘牛に対する自由と平等のシンボルとして捉えられていた面があったからである。
1870年代にはアメリカ合衆国でプロ野球選手となるキューバ出身者が現れた。スティーブ・ベリャンは1863年から1868年までフォーダム大学で学んだ後に1869年にニューヨークのセミプロのクラブチームであったトロイ・ヘイメイカーズに参加し、ニューヨークのプロ野球チームでプレーした後、1874年に帰国し、その後結成されるキューバリーグで監督兼任選手となった。
1878年には3チームによる「リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル」が組織され、同年12月29日にリーグ最初の試合が行われた。参加チームは当初アマチュアのチームだったが、19世紀のうちにプロ化が進んだ。
[編集] 国際化(1898~1933年頃)
米西戦争をきっかけとして、20世紀に入るとキューバとアメリカ合衆国本土とのプロ選手の交流が盛んになり、キューバリーグは1900年頃からアメリカ合衆国の黒人プレーヤーを受け入れるようになり、夏季はアメリカ本土、冬季はキューバに渡ってプレーするニグロリーグの選手も多く現れた。この頃はメジャーリーグのチームとの交流戦も行われており、キューバリーグのチームの実力はメジャーリーグのチームのそれにも引けをとらなかったという。この頃活躍したクリストバル・トリエンテやホセ・メンデスなどの著名な選手は、後年初期のニグロリーグの選手達とともにアメリカ野球殿堂入りを果たした。
同じ頃アメリカのメジャーリーグベースボールはアフリカ系アメリカ人など非白人のプレイヤーの参加を制限しており、白人のキューバ出身者はメジャーリーグへ参加することが出来た。1923年にメジャーリーグで最多勝のタイトルを獲得したドルフ・ルケなどが代表的な選手である。
[編集] 第二次世界大戦~キューバ革命
第二次世界大戦中はアメリカとキューバの間の渡航が規制されていたが、その間キューバリーグではマヌエル・ガルシア、アレハンドロ・クレスポなどの選手を輩出し、戦後はアメリカでプレーしていた選手達が帰国してキューバリーグに参加し、大いに盛り上げた。
一方でアメリカはメジャーリーグへ優秀なキューバ出身選手を送り込むことを狙いとして、1947年にキューバリーグと協定を結び、冬季のマイナーリーグの交流などを行うようになった。1950年代になると、ミニー・ミノーソ、カミロ・パスカルなどメジャーリーグでも著名な活躍をするキューバ出身選手が現れるようになった。
[編集] キューバ革命以降
1959年に起こったフィデル・カストロによるキューバ革命以降、アメリカとの関係が急激に悪化。メジャーリーグとキューバ野球の交流も1999年3月28日にエスタディオ・ラティーノアメリカーノでボルチモア・オリオールズ対キューバ代表のエキシビションシリーズ第1戦が開催されるまで途絶えた。1961年3月にカストロのプロ禁止命令を受け、プロ野球リーグ「リーガ・クバナ・デ・ベイスボル」が解散。その後の1962年1月にアマチュアの野球リーグとして「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」が設立された。
国内リーグの日程を国際大会参加に支障がないように組み、インターコンチネンタルカップやワールドカップでも最高のメンバーで代表チームを編成している。夏季オリンピックで野球が正式種目となった1992年以降の5大会で3度の金メダル(バルセロナオリンピック、アトランタオリンピック、アテネオリンピック)と2度の銀メダル(シドニーオリンピック、北京オリンピック)を獲得。また2006年に行われた第1回WBCでも準優勝しているようにプロ選手が参加しているチーム相手にもその強さを見せ付けている。2009年の第2回WBCでは対日本戦で二度の完封負けを喫し、1951年以来、58年ぶりに主要な国際大会での決勝進出を逃した。2013年の第3回WBCでも対オランダ戦で二度の敗戦を喫し、2大会連続で準決勝進出を逃した。
国内リーグの選手は国家公務員としてプレーをして、給与という形で収入を得る(ステート・アマ)。基本的に他国プロリーグとの契約は禁止されている。オマール・リナレスとペドロ・ラソは長年にわたる功労が評価され、例外的に他国プロ野球リーグでのプレーが許可された。1991年のレネ・アロチャのアメリカへの亡命以降はメジャーリーグでプレーしようと亡命する選手が増えている。