キュノスケファライの戦い (紀元前197年)

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キュノスケファライの戦い
戦争第二次マケドニア戦争
年月日紀元前197年
場所キュノスケファライ
結果:ローマの勝利
交戦勢力
共和政ローマ Vergiasun.svgマケドニア王国
指揮官
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス Vergiasun.svgピリッポス5世
戦力
32400 25500
損害
戦死700 戦死8000
捕虜5000

キュノスケファライの戦い(英:Battle of Cynoscephalae)は第二次マケドニア戦争において紀元前197年テッサリアキュノスケファライにてティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス率いるローマ軍と、ピリッポス5世率いるマケドニア軍との間で起こった会戦である。

背景[編集]

紀元前198年に30歳にもならない若さでローマの執政官となったティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスは紀元前200年より続いていたマケドニアとの戦争へと司令官として赴いた。彼の先任者のプブリウス・スルピキウス・ガルバおよびプブリウス・ヴィリウス・タプルスの戦いが消極的であったことから自らはそうなるまいと決意し、兄弟のリュクスを艦隊司令官にして共同作戦を取らせ、且つ第二次ポエニ戦争においてヒスパニア大スキピオの下でハスドルバルを破った部隊から3000人の精鋭を選び、遠征軍に組み込んだ[1]

エピロス入りしたフラミニヌスは早速アプソス川近くの隘路に拠っていたピリッポス5世率いるマケドニア軍を破った。敗れたマケドニア軍はテッサリアへと逃げ、追ってきた敵に何も残さないように都市の住民を山地に立ち退かせた後、火を放った。一方フラミニヌスは兵士に対して、自国や保護を託された国の国土を通る場合のように行動せよと命じ、これを守らせた。このため、テッサリアの都市の多くはローマ軍に城門を開いて同盟を結び、アカイア人はマケドニア側からローマ側に寝返った[2]

その後、ピリッポスから講和の打診がフラミニヌスの許へ来たが、フラミニヌスが示したギリシア人の自治を認め、駐屯軍を撤退させよという条件をピリッポスが拒否したため、実現されなかった[3]。その後、フラミニヌスはボイオティアへと軍を進め、ボイオティアを味方につけた。続いてピリッポスはローマ本国へと講和を求める使者を送り、フラミニヌスも代理人を送って抗弁させたためまたしても、ピリッポスの目論みは失敗した[4]。この結果を知るやフラミニヌスは決戦の準備をし、26000人の軍をテッサリアに進め、後に、アイトリアからの歩兵6000人、騎兵400騎が合流し、計32400人となった。対するピリッポスの兵力は25500人、うち2000人が騎兵だった。そして、両軍はスコトゥサ近くで対陣した。

会戦[編集]

翌日、夜から降っていた雨が止んだ後、辺りは濃霧に覆われ、視界が奪われた。そのため、双方は偵察として部隊を分遣し、それらの間でキュノスケファライにて遭遇戦が起こった。双方共に援軍を繰り出して戦っていたが、やがて霧が晴れて視界が回復したので前面衝突の運びとなった[5]

右翼に陣取っていたピリッポスは自軍が占拠していた高地よりファランクスの全軍を繰り出し、ファランクスサリッサの槍衾はたちまちローマ軍を蹴散らした。他方、マケドニア軍の左翼の地形は起伏が激しいたために、その戦列は崩れ、断続していた。これを見たフラミニヌスは窮地に陥っている左翼を助けずに主力を右翼に集中させ、突撃させた。うまくファランクスを形成できていなかった左翼のマケドニア兵は俊敏な行動に適さない重い甲冑をつけて個々でローマ兵と戦わざるを得なくなった[6]。ファランクスの強さはその密集隊形にこそあるため、一個の集団として戦っている時に強く、逆にファランクスを形成できない場合はその重装備ゆえに強さは損じられる。そして、此度のマケドニア軍左翼はそのような状況で戦ったのである。

ローマ軍右翼はマケドニア軍左翼を敗走させた後、一部はその追撃に移り、他はがら空きになった敵の側面を攻撃した。敵に側面より包囲された残りのマケドニア軍は大混乱に陥り、敗走または降伏した。この戦いでマケドニア軍は8000人の戦死者と5000人の捕虜を出した。これに対し、ローマの戦死者はわずか700人であった。

その後[編集]

この後、ピリッポスはフラミニヌスに降伏し、第二次マケドニア戦争におけるマケドニアの敗戦が決定した。アイトリア人は不満を訴えたものの、フラミニヌスは(イリリアとギリシアの緩衝地帯としての役割から)ピリッポスに王位を維持させた。その代わり、マケドニアの軍勢の全ギリシアからの撤退、1000タラントンの賠償金の支払い、10隻を残した全艦隊の引き渡し、王子デメトリオスを人質としてローマに送らせる、という条件をピリッポスに呑ませた[7]。こうしてマケドニアを破ったフラミニヌスはギリシアの各地で解放者として熱烈な歓迎を受けた。この敗戦の後、ピリッポスは親ローマ路線へと舵を取り、彼の生前マケドニアはローマに楯突くことはなかった。キュノスケファライの戦いは紀元前168年ピュドナの戦いと共にファランクスへのローマのレギオンの優位性を示したとされている。

[編集]

  1. ^ プルタルコス, 「フラミニヌス伝」, 3
  2. ^ ibid, 5
  3. ^ ibid, 5
  4. ^ ibid, 7
  5. ^ ibid, 8
  6. ^ ibid, 8
  7. ^ ibid, 9

参考文献[編集]