ムワイ・キバキ
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ムワイ・エミリオ・スタンリー・キバキ(Mwai Emilio Stanley[1]Kibaki, 1931年11月15日 - )は、ケニア共和国第3代大統領(任期 :2002年 - )。国家統一党 (Party of National Unity) 党首。中央州ニエリ県出身。元副大統領 (1978年 - 1988年) で閣僚も経験している[2]。洗礼名はイタリアの宣教師に因んだものだが略される場合も多い。
1963年の独立以来初めてケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) から政権を奪取した、同国における歴史的人物。
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[編集] 生い立ち
ニエリ県オタヤ地区のガトゥヤイニ村で農民のキバキ・ギシンジとテレジア・ワンジクの間に生まれる。義兄のポール・ムルルシの援助で教育を受け、マング高校で優秀な成績を修めた。キバキは高校卒業後に軍人になりたかったが、植民地総督のウォルター・クーツの決定により GEMA(キクユ族、エンブ族、メル族)共同体の出身者は植民地軍から排除された。
カンパラのマケレレ大学で経済学、歴史学、政治学を学び、1955年優秀な成績で卒業して奨学金を受けロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) へ留学[3]、修士学位取得後一時マケレレ大学で経済を教える。
[編集] 政治家
1960年 KANU 結成に参加、憲法起草に関わった。1963年ナイロビのドンホーム選挙区から国会議員に立候補し当選、以来国会議員である[4]。
1963年に財務政務次官兼経済計画委員会議長、1965年に商工大臣[3]となる。1969年からは財務・経済計画大臣となる。1974年に郷里のオタヤ選挙区に地盤を移した。同年キバキは『タイム』誌の未来の100人の指導者の一人に数えられた。
1978年ダニエル・アラップ・モイがジョモ・ケニヤッタの後任の大統領となると副大統領に選ばれた。そのまま財務大臣を続けたが1982年に内務大臣に転任、1988年に副大統領から外され、厚生大臣に転任した。
1991年12月キバキは複数政党制を禁じた憲法の第2A条の撤廃の数日後にKANU を離れ、民主党 (DP) を結成した。1992年の大統領選挙では3位、1997年の大統領選挙では2位であった。
[編集] 経歴
[編集] 2007年大統領選挙
2007年12月27日大統領選挙が行われ、12月30日選挙委員会はキバキの勝利を報告。対立候補のオレンジ民主運動のライラ・オディンガ は、選挙の不正を主張。他部族が大統領の出身部族であるキクユ族に対する攻撃を行い、暴動が起きた。これに対し警察官が発砲するなどして双方に死者が出た。各地で民族対立が激化し総死者は1500人以上に上るとみられている。
2008年2月28日、国連前事務総長コフィ・アナンらによる数度の仲介によりオディンガを首相とする連立政権に合意した[5]。
[編集] 家族
[編集] 脚註
- ^ David Beresford, Fred Attewill, Veteran who has struggled to live up to expectations The Guardian, December 31 2007
- ^ Mwai KibakiContemporary Africa Database ::: People
- ^ a b ケニア政府公式プロフィール(英語)
- ^ Kibaki, Mwai Emilio Mzalendo
- ^ 「ケニア与野党協議、「連立政権で合意」とアナン氏」AFPBB News, 2008年2月28日
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