キネマカラー

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1911年のキネマカラー作品(元のフィルムから再構成したもの)

キネマカラー(Kinemacolor)はイギリスの発明家ジョージ・アルバート・スミスGeorge Albert Smith)によって1906年に発明されたカラー映画の技術である。初めて成功したカラー映画の技術であり、1908年から1914年まで商業映画に用いられた。記録時・上映時に赤・緑の2色の回転するフィルターを用いる。

開発途上は三原色のフィルターを用いていたが、3色だとフィルムの使用量がモノクロの3倍という不経済さがあった。さらに当時のフィルムは感度が低く、カラー1コマに三原色の3コマを用いると露出時間が3分の1となり、その上フィルターを用いて減光していたために、技術上の難易度が高かった。そこで三原色は断念し、赤と青のフィルターに黄色を混ぜ、赤橙と緑の2色の方式として完成した[1]

日本では、1912年特許権を持つチャールズ・アーバンから福宝堂が東洋での権利を4万円で取得して、1913年10月9日に日本政府から特許が認められた。10月12日からアーバン社製作のキネマカラー作品の上映を東洋商会が開始。次いで11月3日から日本初のキネマカラー作品「日光の風景」が上映された。1914年には東洋商会と旧福宝堂の面々によってキネマカラー中心の映画会社である天然色活動写真が設立され、4月3日に劇映画としては日本初のカラー作品「義経千本桜」(吉野二郎監督)をキネマカラーで制作した[2]

カラーの1コマは赤と緑の2コマからなり、1秒は32コマで上映時間は半分。2色からなる色の不鮮明さ、倍速上映によるフィルムの損耗、色ズレ、眼の疲労などの欠点があった[3][4]。特に大きいのはフィルムの消費量であった。1914年に勃発した第一次世界大戦の影響で生フィルムが暴騰し、天然色活動写真社はモノクロ映画の2倍のフィルムを消費するキネマカラー方式の製作を中止を余儀なくされた[2]

その後、発色がより鮮明なテクニカラーなどの技術が開発されている。

出典[編集]

  1. ^ 杉本五郎『映画をあつめて これが伝説の杉本五郎だ』平凡社、1990年、p.291
  2. ^ a b 田中純一郎『日本映画発達史1 活動写真時代』中央公論社、1980年、pp.213-218
  3. ^ キネマカラー コトバンク
  4. ^ 高槻真樹『戦前日本SF映画創世記』河出書房新社、2014年、p.98