ガエタノ・ヴェストリス

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ガエタノ・ヴェストリス
ゲインズバラによるガエタノ・ヴェストリスの肖像(1781年)

ガエタノ・ヴェストリスGaetano Apolline Baldassarre Vestris1729年4月18日 - 1808年9月23日)は、イタリア出身でパリ・オペラ座を中心にヨーロッパの各地で活動したバレエダンサー振付家バレエ指導者である[1][2][3]。18世紀から19世紀にかけて著名なバレエダンサーや俳優を輩出したヴェストリス家の一員であり、息子のオーギュスト・ヴェストリスと並んで「舞踊の神」(le dieu de la danse)と呼ばれるほどの人気と実力を誇ったダンサーであった[4]

生涯[編集]

フィレンツェに生まれる。ヴェストリス家はバレエダンサーや俳優を多く出した家系であり、ガエタノもバレエの道に進んだ[4][5]。イタリアやドイツの歌劇場でバレエを学んだ後、パリに出てルイ・デュプレ(en:Louis Dupré (dancer))に師事し、イタリアの各都市で舞台に立っていた。バレエダンサーとして既に活躍していた姉テレーザ(de:Therese Vestris、1726年 - 1808年1月18日)[6][7]の働きかけによって、弟アンジョーロ(en:Angiolo Vestris 、1730年11月19日 - 1809年6月10日)と一緒にパリ・オペラ座へ加入し、1748年に舞台デビューを果たした[8]。その後1751年にプルミエ・ダンスールに昇格した[3]

ガエタノはリュリラモーの作品で舞台に立ち、テレーザ、アンジョーロとともに宮廷の主催する舞台に出演することもあった。1754年に当時オペラ座の首席振付家を務めていたジャン=バルテルミー・ラニ(fr:Jean-Barthélemy Lany)と諍いを起こし、テレーザのためにラニに決闘を挑んだ[3]。この決闘は行われなかったが、結果としてガエタノは短期間投獄されることになった[3]。釈放された後は、テレーザ、アンジョーロとともにベルリンへ行き、その後トリノに移って短期間その地でバレエマスターを務めた[3]

1755年、再びパリ・オペラ座の舞台に立つことになり、1782年まで在籍した[3]。オペラ座在籍中に、70作以上のバレエやオペラで主要な役柄を踊っている[3]。1761年に一時休暇を取ってシュトゥットガルトの劇場に行き、『ヘラクレスの死』(La Mort d'Hercule、1862年)、『プシュケとアモール』(Psyché et l'Amour、1762年)などのノヴェール振付作品の初演に出演した[3]。ガエタノはノヴェールに強い影響を受け、後にノヴェールの理念に基づいてパリ・オペラ座にも「バレエ・ダクシオン」(Ballet d'action[9][10]を導入した[3]

1761年に、パリ・オペラ座の共同振付家に任命された[11]。1770年からはラニの後任としてオペラ座の首席振付家に就任し、1776年まで勤め上げた。ガエタノが首席振付家を退いた後は、ノヴェールがその地位を引き継いだ。ガエタノは年金を受給することになったが、その後もパリ・オペラ座に籍を置いた[3]。1781年にロンドンへ渡り、キングス劇場で息子オーギュストと共演した。「舞踊の神」と呼ばれる父子2人の共演は大きな話題となり、この舞台を見るために議会までが中断されたと伝わる[3]

ガエタノは長身で威厳と風格があり、小柄で超絶技巧の持ち主として知られた息子オーギュストとは対照的だった[3]。彼は、当時慣例とされていた仮面をつけずに舞台に立った初のダンサーの一人とされている[3]。また、マイムの技量も優れていた。一方で強い虚栄心を持ち、「ヨーロッパには真に偉大なる人物は3人しかいない。それはプロイセンフリードリヒ大王ヴォルテール、そしてこの私である」との発言を残している[3]

私生活においては、ドレスデン生まれのバレエダンサーでドイツ人のアンナ・ハイネル(de:Anna Heinel、1753年10月4日 - 1808年3月17日)と結婚し、子供のうち数名はバレエの道に進んだ。但しオーギュストはガエタノの嫡出子ではなく、同じくバレエダンサーだったマリー・アラール(Marie Allard、1742年 - 1802年)との間の子だった[4]。71歳の時、孫の初舞台に際して再び舞台に登場した。1808年9月にパリで死去したが、死去の日付については9月23日と9月27日の2つの説がある[3]

脚注[編集]

  1. ^ バレエ・ダンス版誕生日カレンダー 2011年7月1日閲覧。
  2. ^ 生年については、1728年説もある。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『オックスフォード バレエダンス辞典』72頁。
  4. ^ a b c 『オックスフォード バレエダンス辞典』71頁。
  5. ^ ヴェストリス家は、ガエタノ、テレーザ、アンジョーロ、オーギュストの他にも、オーギュストの息子アルマンド(Auguste Armand Vestris)やアルマンドの従兄弟シャルル(Charles Vestris)などがバレエダンサーとして名を残している。
  6. ^ テレーザはその美貌で名高く、ウィーンで舞台に立っていた時には、音楽と芸術の保護者として知られた貴族エステルハージ・パール・アンタル(en:Paul II Anton Esterházy)の愛人となり、時の女帝マリア・テレジアの不興を買って追放された。1751年にパリ・オペラ座で舞台デビューしたが、弟のガエタノと当時のパリ・オペラ座首席振付家ジャン=バルテルミー・ラニが起こした諍いの原因となったため、一時的に舞台を去った。1755年にオペラ座へ復帰を果たし、その後は1766年までソリストとして出演した。
  7. ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』72頁。
  8. ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』72頁-73頁。
  9. ^ 起承転結を持つ演劇的な物語(たいていの場合は悲劇である)を舞踊やマイムによって表現することを目的としたバレエのことを指す。
  10. ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』404頁。
  11. ^ もう1人は、バレエ『ラ・フィユ・マル・ガルデ』の作者として知られるジャン・ドーベルヴァルだった。

参考文献[編集]

  • デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典』 鈴木晶監訳、赤尾雄人・海野敏・長野由紀訳、平凡社、2010年。ISBN 978-4-582-12522-1

外部リンク[編集]

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.