ガイウス・フラミニウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
トラシメヌス湖畔の戦いで戦死したフラミニウス』、Le Gaulois Ducar décapite le général romain Flaminius à la bataille de TrasimèneJoseph-Noël Sylvestreによる1882年の作品

ガイウス・フラミニウス・ネポスラテン語: Gaius Flaminius Nepos, 紀元前217年6月14日没)は、共和政ローマ元老院議員。プレブス(平民)出身の者としてグラックス兄弟よりも1世紀近く前にパトリキ(貴族)が独占する元老院の権威に立ち向かった人物である。

生涯[編集]

第一次ポエニ戦争の後、フラミニウスは戦後荒廃したイタリア半島の復興に従事する。彼は先祖に有力者のいないノウス・ホモ(新人)の一員として台頭し、紀元前232年護民官に、そして数十年前にガリア人を追い出したリミニ南方の土地を分配することを住民投票で決定、そして土地を戦争で財を失った貧しい者に与えた。しかし、このことは元老院の相談なく独断で決めたために反発を受けたという。

紀元前227年にはシキリア属州総督として赴任。しかし、その間フラミニウスが再編した地域にガリア人が侵入、しかし紀元前224年タラモンの戦いで打ち破る。紀元前223年にフラミニウスは執政官に就任、進入したガリア人を屈服させ、属州としてガリア・キサルピナを制定する。

紀元前221年、フラミニウスはマギステル・エクィトゥム(騎兵長官)に就任。紀元前220年にはケンソルを勤めた。この任期に彼は建設事業を始め、ローマからリミニまでを結ぶフラミニウス街道カンプス・マルティウスフラミニウス競技場を築き、また植民都市としてクレモナプラケンティアを建造、投票権のない無産階級にも投票権を与える事をケントゥリア民会で承認させた。また元老院議員としてはクラウディウス法を通過させ、元老院議員とその子孫に海外交易に携わることを禁じた。

紀元前217年ハンニバルがイタリアに侵攻していたが、フラミニウスは執政官に再び就任、これは戦争の元老院への告発に対する反発という意味合いがあった。彼は新たな軍団を創設し北上、ハンニバルと合い見えようとする。しかしトラジメーノ湖でハンニバル勢の伏兵に会い戦死、部隊も全滅した(トラシメヌス湖畔の戦い)。プレブスの彼に対する求心力は失われ、再びパトリキを主体とする元老院の構造が復活した。そして元老院は独裁官(ディクタトル)としてクィントゥス・ファビウス・マクシムスを任命した。

その勇気を賞してハンニバルはフラミニウスの遺体を丁重に葬ったと言われる。