カール・クリントヴォルト
| カール・クリントヴォルト Karl Klindworth |
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| 基本情報 | |
| 出生 | 1830年9月25日 |
| 死没 | 1916年7月27日(満85歳没) |
| 職業 | 作曲家、ヴァイオリニスト、音楽教師 |
| クラシック音楽 |
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| 作曲家 |
| ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
| 音楽史 |
| 古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
| 楽器 |
| 鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
| 一覧 |
| 作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 フルート協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
| 音楽理論/用語 |
| 音楽理論 - 演奏記号 |
| 演奏形態 |
| 器楽 - 声楽 宗教音楽 |
| イベント |
| 音楽祭 |
| メタ |
| ポータル - プロジェクト カテゴリ |
カール・クリントヴォルト(Karl Klindworth, 1830年9月25日 ハノーファー – 1916年7月27日 オラニエンブルク近郊シュトルペ)はドイツの作曲家・ヴァイオリン奏者・音楽教師。初期の献身的なワグネリアンとしてドイツ音楽史で言及される。
一時期オペラ団の巡業に従い指揮者を務めたが、ハノーファーに定住して教師や作曲家として活動する。1852年にヴァイマルに行き、フランツ・リストにピアノの指導を受け、リヒャルト・ワーグナーとも親交を結ぶ。この頃の門人にハンス・フォン・ビューローやウィリアム・メーソンがいる。
1854年にロンドンに行き、それから14年の間、研究者や教育者として過ごし、時折り公開演奏を行なった。1868年にロンドンからモスクワに直行し、モスクワ音楽院ピアノ科の教授に就任。ロシア滞在中に、(1855年のワーグナーの訪英以来の懸案であった)《指環》四部作のピアノ用編曲を完成させる。また、フレデリック・ショパンの学術校訂版も完成させている。
1882年に、ヨーゼフ・ヨアヒムやフランツ・ヴュルナーと共同で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任する。また、ベルリン・ワーグナー協会の会長にも就任した。この頃にはクリントヴォルト音楽学校(Klindworths Musikschule,後のクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院[Klindworth-Scharwenka Conservatoir]の前身)を開設した。1892年までベルリンに過ごした後、同年ポツダムに隠退し、教育活動に専念した。ベルリン時代の門弟に、ゲオルギー・カトワールの名が挙げられる。
楽譜の校訂者や編曲家としての名声は高く、ショパンの(カール・タウジヒによる《ホ短調協奏曲》の編曲という前例に倣って)《ヘ短調協奏曲》の管弦楽法を非常に巧みにやり直したが、現在この編曲版を原曲よりも高く評価する演奏家は少ない。また、シャルル=ヴァランタン・アルカンの「ピアノ独奏のための協奏曲(原曲は《すべての短調による練習曲》第8曲から第10曲まで)」の第1楽章に管弦楽法を実施し、通常のピアノ協奏曲として演奏形態を整えた(残り2楽章については後に別人が管弦楽法を実施し、3楽章すべてピアノ協奏曲として演奏できるようになった)。
イギリス人女性ウィニフリード・ウィリアムズを養女に採り、完璧な「ワーグナー信者」に育て上げた。
[編集] 外部リンク
- IMSLP - 国際楽譜ライブラリープロジェクト内のカール・クリントヴォルトのページ。無料で楽譜PDFが入手可能。

