カルタゴ滅ぶべし

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1708年に描かれた大カトー

カルタゴ滅ぶべし」(カルタゴほろぶべし、ラテン語: Carthāgō dēlenda est[1](カルターゴー・デーレンダ・エスト))、または「カルタゴは滅ぶべきであると考える」(ラテン語: Cēnseō Carthāginem esse dēlendam(ケーンセオー・カルターギネム・エスセ・デーレンダム))は、ラテン語の言い回しであり、ポエニ戦争を戦ったカルタゴ(Carthāgō)に対して共和政ローママールクス・ポルキウス・カトー・ケーンソーリウス(大カトー)が演説の最後に言ったとされる言葉であるが、古代の史料にはっきりとそう書かれている訳ではない[1]

起源[編集]

カルタゴへの憤怒と、子孫への憂慮から、
大カトー元老院の議会のたびに、
カルタゴは滅ぼされるべきだと(Carthāginem dēlendam)叫んでいた。
そんなある日、彼は議場にカルタゴの特産であるイチジクを持ってきた。
「皆に尋ねるが、これはいつ採れたものだと思うかね?」

大プリニウス博物誌』7.20.74

これと似た表現は、キケロー大カトー・老年について』に見られるものが最古であろうと思われる[1]。いかにも彼の言いそうなことではあるが、「滅ぼすもの(dēlēre)」とは書かれていない[2]。「滅ぼす」はコルネリウス・ネポス[注釈 1]や、散逸したティトゥス・リウィウスローマ建国史』の梗概[注釈 2]ウェッレイウス・パテルクルス『ローマ世界の歴史』[注釈 3]で使われ始め、上記の大プリニウスの表現が最も近くなる[3]

プルタルコスの『対比列伝』「大カトー」でも上記のイチジクのエピソードは出てくるが、大カトーは「私が思うに、カルタゴも耐える(もしくは免れる)べきだ」と言っており、それに対してスキピオ・ナシカ・コルクルムが反論するというもので、ある程度の脚色が窺える[4]。その後のフロルス2世紀アッピアノスらも似たようなことを書いており、4世紀アウレリウス・ウィクトル英語版に至って、「Catō Carthāginem dēlendam cēnsuit.(カトーはカルタゴは滅ぼされるべきであると述べた)[注釈 4]」の表現が見られることから、帝政ローマ期の白銀時代にこの形に定まったのではないかと考えられ、近年でも主戦論者によって唱えられている[5]

背景[編集]

カルタゴは、北アフリカ(現チュニジア)に位置するフェニキア人都市国家であり、また海洋国家であった。ローマは、第一次第二次ポエニ戦争においてカルタゴに勝利したが、ハンニバルのアルプス越えを許し、幾度も苦しめられた。紀元前216年カンナエの戦いがその最たる例である。

第三次ポエニ戦争紀元前146年)に勝利したローマは、カルタゴをすべて破壊し尽くし、生き残った住民を奴隷として売り飛ばしたとも言われる。更にカルタゴが再興することのないよう、跡地に塩を撒いたとも言われるが、これは後世の創作だと考えられている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『ハミルカル』2.1、Carthago, nisi cum deleta est
  2. ^ 49.3、Catone suadente bellum et ut tolleretur delereturque Carthago
  3. ^ 1.13.1、Ante triennium quam Carthago deleretur
  4. ^ De viris illustribus 47.8.

出典[編集]

  1. ^ a b c Little, p. 429.
  2. ^ Little, pp. 429–431.
  3. ^ Little, pp. 431–432.
  4. ^ Little, pp. 432–433.
  5. ^ Little, pp. 433–435.

参考文献[編集]

  • Charles E. Little (1934). “The Authenticity and Form of Cato's Saying 'Carthago Delenda Est,'”. The Classical Journal (CAMWS) 29 (6): 429-435. JSTOR 3289867. 

関連項目[編集]