カシオペア (バンド)

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カシオペア
基本情報
出身地 日本の旗 日本
ジャンル フュージョン
活動期間 1977年 - 2006年, 2012年 -
レーベル ALFA
ポリドール
パイオニアLDC
ポニーキャニオン
ハッツアンリミテッド
公式サイト http://www.casiopea.co.jp/
メンバー
野呂一生(ギター)
鳴瀬喜博(ベース)
大高清美(キーボード)
神保彰(ドラム)〈サポート〉
旧メンバー
向谷実(キーボード)
佐々木隆(ドラム)
櫻井哲夫(ベース)
日山正明(ドラム)
熊谷徳明(ドラム)

カシオペア (Casiopea) は、日本のフュージョンバンド

1977年に結成。1979年にデビュー。以来、フュージョン音楽界の第一線でアルバムなどの作品制作やライブ活動を毎年ほぼ絶えることなく続けてきたが、2006年にすべての活動を一旦休止。2012年CASIOPEA 3rd(カシオペア・サード)として活動を再開した。最新作は2013年11月20日発表のアルバム『TA・MA・TE・BOX』。

概要[編集]

メンバー構成[編集]

バンド名をCASIOPEAにした直後の1976年に出場したアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest'76」から現在のCASIOPEA 3rdに至るまで、ギター、ベース、キーボード、ドラムの4人編成で活動。途中、専属ボーカリストの帯同(1986年 - 1987年)やツインドラムでの形態(2004年 - 2006年)もあった。現在のメンバーは以下の通り。

正式メンバー プロフィール 担当 備考
野呂一生
(のろ いっせい)
1957年1月1日(57歳)、東京都出身 ギター バンドのリーダー。メイン・コンポーザー。唯一のオリジナル・メンバー。
鳴瀬喜博
(なるせ よしひろ)
1949年11月13日(64歳)、東京都出身 ベース 1990年加入。
大高清美
(おおたか きよみ)
10月18日[1]埼玉県出身 キーボード 2012年加入。
サポートメンバー プロフィール 担当 備考
神保彰
(じんぼ あきら)
1959年2月27日(55歳)、東京都出身 ドラム 1980年に加入して1989年まで在籍した後、1997年よりサポートメンバーとして復帰。

三期に分かれる活動期[編集]

結成時から1989年までの野呂一生・櫻井哲夫・向谷実・神保彰のメンバーでの活動を第1期、1990年に櫻井と神保の脱退を受けての鳴瀬喜博加入から2006年の活動休止表明までを第2期[2]2012年に活動再開表明して同時に向谷の脱退を受けて大高清美の加入がなされた現在の形態であるCASIOPEA 3rdを第3期としている。

活動期 アルバム ギター ベース キーボード ドラム
第1期 1976年 野呂一生 櫻井哲夫 小池秀彦 鈴木徹
1977年 - 1979年 野呂一生 櫻井哲夫 向谷実 佐々木隆
1979年 CASIOPEA
SUPER FLIGHT
1980年 - 1989年 THUNDER LIVE

WORLD LIVE '88
野呂一生 櫻井哲夫 向谷実 神保彰
第2期 1990年 - 1992年 THE PARTY
FULL COLORS
ACTIVE
WE WANT MORE
野呂一生 鳴瀬喜博 向谷実 日山正明
1992年 - 1996年 DRAMATIC

FLOWERS
野呂一生 鳴瀬喜博 向谷実 熊谷徳明
1997年 - 2003年 LIGHT AND SHADOWS

PLACES
野呂一生 鳴瀬喜博 向谷実 神保彰(サポート)
2004年 - 2006年 MARBLE
GIG 25
SIGNAL[3]
野呂一生 鳴瀬喜博 向谷実 神保彰(サポート)
もしくは、Synchronized DNA(=神保彰+則竹裕之
第3期 2012年 - 現在 LIVE LIFTOFF 2012
TA・MA・TE・BOX
野呂一生 鳴瀬喜博 大高清美 神保彰(サポート)

サウンドの特色[編集]

リズム面では16ビートを基本とし、またハーモニー面ではジャズ理論をベースとし、テンション・ノートや代理コードを多用した複雑ながらもスムーズなコード進行や転調が特徴のひとつ。

結成時からリーダー兼ギタリストの野呂が書くオリジナル曲を中心に演奏。そのロックやファンクをベースとし、アドリブなどソロプレイでなくアンサンブルを主体にしたインストの音楽性は、黎明期の日本のフュージョン・シーンにおいて珍しかったが、80年代に入るとポップス性を前面に出したザ・スクエア(現・T-SQUARE)とともに主流となり、親しみやすくそれでいてテクニカルなインストの曲には「カシオペアっぽい」という形容詞が普通に使われるようになる。

他のフュージョン系アーティストと同様、カシオペアの曲はテレビ番組やラジオ番組のBGMとしても頻繁に使われている。

商業的評価[編集]

80年代前半から中盤にかけて商業的にも成功し、歌のないインストバンドながらアルバムリリース毎にチャートの上位を賑わし、ライブを重ねるごとにファンを増やし続け、日本全国でホール展開のコンサート・ツアーを催していた。

しかし、1980年代後半になると、全米進出のためにボーカルの導入やアメリカン・ポップス色を強くした音楽性はバンドの方向性に迷いを示し、ファン離れが顕著となる。さらに櫻井と神保の脱退という決定的な事態が追い打ちを掛けて人気が急落した。

鳴瀬喜博を迎えて以降は方針を修正し、デビュー以来のロックやファンク・ティストのインストに絞った音楽性による継続した活動を行い、時間は掛かったものの旧来からのファンの回帰に加えて常に新しい世代のファンを増やすことにも成功。浮き沈みが激しい今日の日本の音楽業界の中で、活動休止前年の2005年まで毎年コンスタントにアルバムを制作してリリースし続けていた。

2006年の活動休止後、復活を望む声は絶えず寄せられていて、活動再開の理由のひとつにファンの声援に後押しされたというものがあった。再開後のライブはどれも盛況で、東京 JAZZの前夜祭イベント、その後のツアーの東京と大阪公演はチケットを前売り段階でソールドアウトにした。

他アーティストへの影響[編集]

デビューアルバムからバンド譜が発行されたり、演奏者向けの音楽誌に取り上げ続けられたこともあり、多くのアマチュアプレイヤーにコピー演奏されてきた。現在でも多くのコピーバンドが存在する。

アマチュア時代にカシオペアの曲をコピー演奏したり、影響を受けたプロミュージシャンも数多い。吉川晃司1985年にカシオペアとフジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオDX』で共演した際にギターでコピー演奏していたことを告白。代表曲「ASAYAKE」のコピー演奏も流れた。フュージョン系ミュージシャンでは、元T-SQUAREの則竹裕之須藤満本田雅人DIMENSIONの小野塚晃、日野賢二らもアマチュア時代にコピーに勤しみ、その後の演奏活動にも多大な影響を受けることになった。ベーシストであり、作・編曲家でもある徳永暁人は学生時代にカシオペアをコピーしていたばかりでなく、東京音楽大学在学中にそこで講義を受け持つ鳴瀬と野呂の生徒として学んでいた。他に、谷村有美などもアマチュア時代にコピーしていたことを著書の中で綴っている。

歴史[編集]

第1期(結成から1989年まで)[編集]

野呂一生と櫻井哲夫の出会いによる結成[編集]

1974年、当時高校三年生だった野呂一生と高校二年生だった櫻井哲夫は別々の高校に通っていたが、ともに属していた都内のロック演奏のコミュニティで出会って意気投合し、ベック・ボガート & アピスを目標として都内の練習スタジオでセッションしだすようになる。翌1975年、野呂は明星大学に進学し、その大学の軽音楽同好会のメンバーで構成されたロックバンドのファンシーハウスや中山ラビのバックバンドに参加してセミプロとして活動開始するも、それらはいずれも短期で離脱して、自作曲を元にした櫻井とのバンド活動にシフトが置かれるようになる。ボーカルを従える時期などもあったが、野呂と櫻井以外は常にメンバーは流動的で、次第にハードロックやファンクをベースとして、そこにジャズのエッセンスを加えたインスト音楽にバンドの方向性は持って行かれた。

バンド名の由来[編集]

野呂と櫻井で結成したものの、このふたり以外に固定メンバーが揃わずに活動していたためバンド名もライブを行う度に適当に付けられていた。しかし、あるミニコミ誌の取材を受けた際、「正式なバンド名がなければ載せられない」という申し出があり、野呂が自宅に帰って母親に相談したところ、「星座の名前なんていいんじゃない?」とのアドバイスに星座の本を広げて選んだのがカシオペアである。ただ、英字表記はCasiopeaとし、出典元のカシオペヤ座 (Cassiopeia) の正式な表記とは異なる。

バンド・コンテスト出場と向谷実の加入[編集]

バンドの名称をカシオペアと改めた後の1976年、野呂と櫻井、先述のロック演奏のコミュニティに属していた小池秀彦(キーボード)と鈴木徹(ドラム)を入れた4人編成でヤマハ主催のアマチュア・バンド・コンテスト「EastWest'76」に出場し、決勝大会まで進出して野呂がベストギタリスト賞を獲得したことでアマチュア・シーンに名前が知れ始める。しかし、出場後に小池と鈴木が脱退し[4]、再び野呂と櫻井のふたりだけになる。翌1977年に開催される「EastWest'77」に出場するべくメンバー探しに奔走。野呂は友人のツテを頼って、自分と同学年の年齢で、当時合歓音楽院(現・ヤマハ音楽院)エレクトーン科在籍中だった向谷実をキーボーディストに勧誘。その際、野呂はカシオペアの指向について、向谷が信奉していたミュージシャンのひとりを引き合いに出して「チック・コリアみたいな音楽(当時活動していたエレクトリック編成のリターン・トゥ・フォーエヴァー)をやっている」と口説いた。そして向谷を入れたカシオペアは自らのオーディションにより選んだ佐々木隆を加えて同コンテストに再出場。カシオペアは最優秀グループ賞と野呂の二年連続のベストギタリスト賞を受賞した。これを足がかりにプロデビュー目指して都内近郊で精力的にライブ活動が始められた。1990年代以降はこの1977年を公式にカシオペア結成の年としている。

このデビュー前の時期、「EastWest'77」の審査員だった鳴瀬喜博に見いだされ、野呂と向谷はプロとしての仕事に度々誘われるようになる。また、大村憲司村上秀一といったフュージョンに傾倒していたロック系ミュージシャンとも交流を築く。先行してデビューしていたプリズムとは同じロック演奏のコミュニティ出身だったことから、ともに結成以前からメンバー間の交流もあった一方で、フィールド違いの大学のジャズ研出身だったザ・スクエア(現・T-SQUARE)とはデビューしてから知り合うことになるのでこの当時は面識さえもなかった。また、ともに「EastWest'77」に出場して決勝大会まで進出したサザンオールスターズとはプロ志向どうしであったから合同でライブを行ったり、一緒にイベント出演をするなど共演の機会が多かったバンドの一つだった。

デビュー[編集]

1979年5月、日本におけるフュージョン・ブームの真っ直中、アルバム『CASIOPEA』でレコードデビューする。当時のメンバーは「EastWest'77」に出場したときからの野呂一生(ギター)、向谷実 (キーボード)、櫻井哲夫(ベース)、佐々木隆(ドラム)。4人の演奏に加えてオーバー・ダビングながら、ブレッカー・ブラザーズランディ・ブレッカーマイケル・ブレッカー)、デイヴィッド・サンボーンらがゲスト参加した豪華な作りとなった。そのデビューアルバム『CASIOPEA』の帯には超絶技巧でアクロバティックな演奏スタイルを示した「スリル、スピード、スーパー・テクニック」というキャッチコピーが与えられた。このキャッチコピーは以後カシオペアの音楽性を表す代名詞となる。1979年のデビュー時、アマチュア時代からの活動拠点であった都内近郊では一定の認知度と人気は既にあったが、全国的に名が知られ始めたのは、同年の日本航空のニューヨーク・キャンペーンのCM曲としてデビューアルバム後に発表したシングル「I LOVE NEW YORK」が使用されてから。また、その「I LOVE NEW YORK」を収録した2枚目のアルバム『SUPER FLIGHT』がデビューアルバム以上の売り上げもみせるなどして活動は好調の兆しを見せていたのだが、ドラムの佐々木が音楽的な方向性の違いにより脱退することが決まってしまった[5]

神保彰の加入[編集]

1980年、ドラムを神保彰にメンバーチェンジ。前年の秋、慶應義塾大学在学中の櫻井がゼミ仲間から同大学のジャズのビッグバンド、慶應義塾大学ライトミュージックソサエティのライブに就職活動で出演できないベーシストの代役を依頼され受諾。そこで出会ったのがそのビッグバンドに在籍していた神保であった。櫻井は神保に卓越した才能を見いだし、彼を佐々木の脱退が決定事項となっていたカシオペアの次期ドラマーに推薦し、カシオペアはメンバーとスタッフ総出で神保を口説き落としてメンバーに迎えた。当時大学3年生だった神保はカシオペアに誘われるまではプロ経験はなく、また将来プロになる志向もなかった。しかし、ビッグバンドの活動とは別に、敬愛するアメリカのドラマーのスティーブ・ガッドハービー・メイソンが参加した洋楽フュージョンのレコードを片っ端から聴いていてコピー演奏していたり、小編成のコンボスタイルのフュージョンへの憧れや造詣は深く、それらと近似したカシオペアの音楽性にやりたいことを見いだしてプロになることに決断した。

黄金期[編集]

神保が加入してすぐにライブ・レコーディングされた3枚目のアルバム『THUNDER LIVE』は、音楽誌『ADLiB』の連載企画「ブラインド・フォールド・テスト」(来日した海外のフュージョン系の著名ミュージシャンに、日本のフュージョン系アーティストの新譜レコードをアーティスト名やプロフィールなど目隠し状態で伏せて聴かせて、音だけの判断で評論してもらう)で賞賛され続けたことで話題を呼び、人気が一気に高まっていく。以後、アルバムを出すごとに売り上げを伸ばし続け、ライブの規模と動員もそれにともなって拡張していった。

所属レコード会社、アルファレコードが海外進出に意欲的で、神保加入後のデビュー3年目の1981年にアメリカ、翌1982年にイギリス向けのレコードをそれぞれ製作して海外進出を果たす。レコード発売ばかりでなく、以降はヨーロッパ南米香港東南アジアなどではライブも行うようになる。

メディア展開も音楽誌やFM番組出演にとどまらず、1984年には音楽を担当したのと併せてメンバー全員で出演もしたマクセルのビデオテープのCMがテレビで連日オンエア、それと前後してNHK『レッツゴーヤング』、フジテレビ『夜のヒットスタジオDX』などのテレビの人気音楽番組への出演も果たしていき、音楽ファンばかりではない一般への知名度も広く浸透していった。また、1984年のヨーロッパツアーのイギリス公演がNHKのニュース番組『ニュースセンター9時』に取材されて、日本での活動と変わらぬ盛況ぶりが伝えられた。このようにカシオペアは国内外で確固たる人気を築いていった。

1986年、ヨーロッパ圏や東南アジア圏の海外での成功を勢いにして、アルバム『SUN SUN』で再度[6]の全米進出を試みる。国内同様に市場規模が限られているジャズ・フュージョンではなく、市場規模が一番大きいポップ・ミュージックのカテゴリーに合うように、プロデューサーカルロス・アロマーを迎えてボーカル曲の導入やその当時の最先端の流行を追った音楽性に変化させたものの、結局は適わなかった。これで諦めず、翌1987年の次作のスタジオ・アルバム『PLATINUM』の音楽性も『SUN SUN』のそれをさらに押し進めたもので通した。しかし、1980年代後半に入ってからのこのアメリカ市場を見据えた音楽性の変化は、国内の活動にも響いて人気が下降していってしまう。

メンバー分裂[編集]

1988年までのカシオペアは年間2枚のアルバム制作と国内外で年間100本前後に渡るライブをこなしていた。常にカシオペアはグループとしての活動を優先させたため、メンバーのソロ活動は制限されることになり、他のバンドとの掛け持ちもなく、他アーティストのライブやレコーディングへのゲスト参加も少なかった。1985年1986年の当初から期間が定められていたソロ活動も各自ソロアルバムを制作するに留まっていた。

1989年、カシオペアはグループとしての活動を休止し、メンバーのソロ活動期間に入る。そのなかで櫻井と神保はメンバーを集めてボーカル音楽のバンド、シャンバラを結成するが、野呂と向谷は「シャンバラの今後の継続的な活動は、直に迫るカシオペアの活動再開に支障を与える」としてふたりに活動停止を要請。これに対し、櫻井と神保はカシオペアの活動と両立出来ると主張。野呂・向谷と櫻井・神保の両陣営は最後まで平行線を辿って物別れになり、櫻井と神保はこの年をもってカシオペアを脱退してしまう。翌年、ふたりはシャンバラ以外にフュージョン・シーンで活動するジンサクというユニットを結成する。

第2期(1990年から2006年まで)[編集]

鳴瀬喜博の加入[編集]

櫻井と神保の脱退を受けて、1990年にセッション・ベーシストの御大“ナルチョ”こと鳴瀬喜博とジャズ・ドラマーの日山正明を迎える。鳴瀬はカシオペアがアマチュア時代に参加した「EastWest'77」で審査員をして以来の、日山はカシオペアのデビュー前後に活動していたフュージョン・バンド、クロス・ウィンドの元メンバーでそれ以来の付き合いと、音楽性や技能とともに継続して活動できるように知古の者を選んだ。メンバーチェンジをしたカシオペアは、すぐさまアルバム『THE PARTY』と同タイトルの映像作品を制作し、同時発売するとともにライブ活動も再開した。翌1991年、アルバム『FULL COLORS』を制作して発売。前作同様にインスト曲のみで構成される作品であり、1980年代後半に変貌させていた音楽性を軌道修正していた。

1992年に病気療養を理由に日山が脱退し、その後任に当時22歳の熊谷徳明が加入した。熊谷は海外での音楽留学から帰国後、国内での活動を見いだすためにアマチュア時代に敬愛していたカシオペアの所属事務所にプロフィールとデモテープを送っていたのが採用のきっかけとなった。

神保彰のサポート復帰[編集]

メンバーが流動的になりながらも活動状況は安定していて、作品は毎年定期的に作り続けられた。海外でのライブも各国で引き続き敢行されて1996年には日本人のアーティストとして韓国公演を行って話題となる。しかし、この年かぎりで熊谷が脱退。1997年からカシオペアは、野呂・向谷・鳴瀬の3人による名義のユニットとなり、そこに神保がサポートメンバーで復帰して支えていく[7]。1997年中はアルバム『LIGHT AND SHADOWS』のロス・レコーディングに帯同していなかったり、参加名義も“スペシャル・サポート”だったのが、翌1998年からは全てのスケジュールに帯同するようになり、参加名義も“スペシャル”が取れたレギュラーな“サポート”となっていく。2004年からは、その神保と則竹裕之が結成したツインドラムのユニット、Synchronized DNAをサポートに入れた5人体制で活動を行っていたりもした。

活動減少[編集]

1990年代前半は第1期のようにグループとしての活動を優先させたが、1990年代後半に入ると、向谷が鉄道事業の手始めとなるトレインシミュレーターの制作、鳴瀬が野獣王国のメンバーとして活動開始、野呂も七年ぶりのソロアルバム『TOP SECRET』の制作や青木智仁斉藤ノブらの誘いを受けてのセッション活動に参加しだすようになって各々のソロ活動が活発化する。その分、カシオペアのライブの本数は年々減少していった。

2000年代に入ると、向谷の鉄道事業は以前よりも拡大、鳴瀬は野獣王国に加え、リーダープロジェクトのURUGOME(1980年代後半に鳴瀬がリーダーとなって活動していた「うるさくてゴメンねBAND」のリユニオン)も活動開始、野呂がリーダープロジェクトでのアルバム制作と定期的なライブ活動をするなど、さらにソロ活動の比重が高まっていった。この頃の年間のライブ数は多くて10本程度だった。

2006年8月1日、野呂の「カシオペアとしての一切の活動を休止したい」との意向により、レコーディングおよびライブなどの活動をすべて休止すると発表した。

活動休止期(2006年から2012年まで)[編集]

活動休止期間中のメンバーの音楽活動はそれぞれリーダープロジェクトを立ち上げてのソロ活動が中心となっていた。この期間中は一度たりともリユニオンによるライブやレコーディングはなされなかったが、メンバー各々で集まっての音楽活動や、参加するライブでカシオペアの曲は演奏されていた。

活動休止したその年から、鳴瀬は野獣王国やURUGOMEに加えて、カシオペアに提供した自作曲を中心に披露するためのユニット、Narucho-ICE(ナルチョイス)を結成して定期的にライブ活動開始。ベース、ギター、ドラム、ホーン×3の6人編成に、初期は向谷がゲスト扱いで毎回参加し、向谷の自作曲や野呂が書いた代表曲も演奏された。野呂も2009年と2012年の合計2回参加して「ASAYAKE」や「FIGHT MAN」などの自作曲にして代表曲を演奏したが、野呂と向谷の両人が揃って参加することはなかった。

向谷は鉄道事業の音楽制作において起用しているミュージシャンらで構成したユニット、向谷実とメロディーズを結成した[8]。キーボード、ギター、ベース、ドラム、サックス、バイオリンの6人編成で、ライブ活動では、メロディーズで制作した曲、過去の向谷のリーダープロジェクトで制作した曲に加えて、カシオペアでの自作曲も積極的に取り上げていた。カシオペアのメンバーとの共演としては、先述のNarucho-ICEへのゲスト参加、向谷実×中西圭三プロジェクトではレコーディングに鳴瀬と神保を起用、さらに神保とは実験的な音楽制作も行っていた。

2008年、野呂はカシオペアとそれまでのソロプロジェクトを分け隔てなく考えた、野呂曰く「自分がやりたいことをとことん追求」したアルバム『INNER TIMES』を制作し、レコーディングメンバーを制作中にバンド化させて、ソロ名義ではなくそのバンド名のISSEI NORO INSPIRITS(イッセイノロ・インスピリッツ)名義で発表する。ISSEI NORO INSPIRITSは、ギター、キーボード×2、ベース、ドラムの5人編成で、神保彰も参加している。この活動休止期間中に4枚のアルバム、1枚の映像作品を制作し、少ない本数ながらも定期的にライブも行っていた。ただし、作品においてもライブにおいてもカシオペアの曲は取り上げられることはなかった[9]。なお、野呂と鳴瀬はともに東京音楽大学の講師で毎週のように顔を合わせていて、授業の一環で一緒に生徒たちの制作活動をサポートするときもある。

サポートメンバーだった神保は、演奏者が自分独りだけによるライブ、ワンマンオーケストラにおいて、休止後からカシオペアで自作した曲と「ASAYAKE」などの代表曲を取り上げて演奏していた。また、リーダーグループで2009年に出演した東京JAZZでは自作曲にして代表曲である「MID-MANHATTAN」を、そのオリジナルが収録された1982年のアルバム『FOUR BY FOUR』にも参加したギタリスト、リー・リトナーとセッションしたことから話題となった。

第3期(2012年から)[編集]

2012年[編集]

4月20日、結成35周年を迎えるにあたって、向谷の脱退とその後任として大高清美(キーボード)の加入、6年振りの活動再開がオフィシャルサイトにて発表された。また、活動再開後の名義をCASIOPEA 3rdとした。再開後の最初のライブは同年9月の東京JAZZとその前日に単独出演で行われた前夜祭イベント(トーク&リハーサルライブ)。その後、国内ツアーに先行してインドネシアジャカルタでの単独公演、そして10月に東名阪の国内単独公演ツアーが行われた。ライブは活動休止前の既存の曲の演奏が中心ではあったが、CASIOPEA 3rdとして活動再開表明後に野呂が書き下ろした「ARROW OF TIME」がレパートリーに加わっていた。

制作活動も再開されていて、同年12月に出演したフュージョン・イベント「LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT」関連のコンピレーション・アルバム『CROSSOVER NIGHT〜CROSSOVER JAPAN 2012〜』に、CASIOPEA 3rdで新たにスタジオ・レコーディングした「FIGHT MAN(2012ver.) 」と「GOLDEN WAVES(2012ver.) 」の2曲を収録。また、活動再開後初のツアーからSHIBUYA-AXでの単独公演を収録したライブDVDと2枚組CDが『LIVE LIFTOFF 2012』としてそれぞれソフト化されている。

CASIOPEA 3rdの活動はメンバー各々のソロ活動と併せて行われている。野呂は活動休止中に作ったリーダープロジェクトであるISSEI NORO INSPIRITSを継続。鳴瀬もNarucho-ICEを継続させたほか、活動再開の発表直前に新たなリーダープロジェクトであるザ・チョッパーズ・レボリューションを結成している。大高は加入以前の参加プロジェクトやリーダープロジェクトを継続。神保も休止前と同じく全活動に帯同するものの引き続きサポートドラムという立場で参加している。それ故、年間の活動はスケジュール的にごく限られた期間のなかで行われている。

2013年[編集]

前半は各々の個人活動の期間に充てられた。後半から活動再開し、7月から8月にかけて全国各地でライブを開催。同時期に新曲を中心としたスタジオ・レコーディングも行われ、それを11月20日にCASIOPEA 3rd初&8年ぶりのオリジナルアルバム『TA・MA・TE・BOX』として発表した。11月に前年に続いてインドネシアのジャカルタにて単独公演を、12月に国内でアルバム発売記念ライブツアーを行った。

2014年[編集]

5月にデビュー35周年記念のファンイベントを開催した。夏には全国各地でのライブ、そしてCASIOPEA 3rd初の野外フェスティバルとなる「情熱大陸SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA'14」への出演も予定されている。

エピソード[編集]

アマチュアコンテスト時代を振り返った桑田佳祐は、サザンオールスターズ青山学院大学の同好会部員を応援のサクラに連れていったが、カシオペアとツイストだけはアマチュアにもかかわらず、すでに固定ファンを持っていて、彼らが応援していたと回想した。

デビューした年が近い、同じフュージョンユニット・T-SQUAREに対して、野呂は「同級生的な感覚がある」と度々口にしている。この2つのグループは、1994年にテレビ番組「タモリの音楽は世界だ!」で共演したことがあり、その際に野呂が発した言葉である。また、2003年にT-SQUAREと共演したライブ「Casiopea VS The SQUARE THE LIVE!!」のインタビューの中でも、同様の発言をしている。

代表曲[編集]

バンドのイメージに即座に結びつき、人気を決定付けた初期の代表曲を解説する。

ASAYAKE
初収録は2枚目のアルバム『SUPER FLIGHT』。当初はキーボードが主題の曲であったが『EYES OF THE MIND』でギターが主題担当となり、同様のアレンジで『MINT JAMS』にも収録、ライブでは必ずといって良いほど演奏される定番曲となった。イントロのギターカッティングのフレーズは、あまりにも有名。1995年にはKey of Lifeが「ASAYAKEの中で」としてカバーしている。
DOMINO LINE
初収録は『CROSS POINT』。その後『MINT JAMS』にアレンジを変えて収録される。後発のこのバージョンには、フレーズ16分音符ごとに一音一音区切って別の楽器で演奏する「音のドミノ倒し」(Ds→G→B→Kb)という技が仕組まれている他、テクニカルかつ比較的長い(1分以上)のベースソロドラムソロが収録された(ベースソロに関しては櫻井が一部にちょっとした仕掛けをしているらしく本人いわく「一度も完全なコピーを聴いた事がない」)。
GALACTIC FUNK
初収録は『CROSS POINT』。その後『FOUR BY FOUR』にもリー・リトナー・グループと共演したヴァージョンを収録、ライブでも頻繁に演奏された。カシオペアには珍しいワンコードベースの進行が特徴で、ライブではそれを利用した非常に自由度の高いアドリブが可能、特に中期以降では野呂によるギターでのスラップ奏法が盛りこまれた。またツアーごとにイントロやブリッジ、エンディングにおいてのアレンジが更新されていた。
SPACE ROAD
初収録はデビュー作『CASIOPEA』。その後『EYES OF THE MIND』にも収録。同じテーマが短3度上に次々と転調していくのが特徴。初期 - 中期のライブで好んで演奏された。各所で主題に移る直前の16部音符でのギターの駆け上がりが特徴的であるが、中期以降のライブで演奏されるときにはこれに加えギター・ベース・キーボードによる16分音符主体のユニゾンが中間部に置かれた。
BLACK JOKE
初収録はデビュー作『CASIOPEA』。その後『EYES OF THE MIND』にも収録。イントロやエンディング6連符のユニゾン・フレーズが聴ける。このフレーズは野呂の手癖(多用するフレージングのパターンのひとつ)が元になっているとのこと。
EYES OF THE MIND
初収録は『MAKE UP CITY』。その後『EYES OF THE MIND』にも収録。ライブでも頻繁に演奏されており、『CROSS POINT』発表まではライブのクライマックスにセットされることの多かった曲であるがその後は"SWEAR"にその座を譲り、アンコールなどで多く演奏された。
TAKE ME
初収録は2作目『SUPER FLIGHT』。その後『EYES OF THE MIND』、『MINT JAMS』にも収録。CROSS POINTツアーでの向谷のMCによるとメンバー内では「タケメ」の愛称で呼ばれていた。全編コード弾きによるメロディーラインが特徴。

ディスコグラフィ[編集]

1979年のレコードデビュー以来、現在までに40枚近くのアルバムをリリースしている。ここではオリジナルアルバムを中心に、主な作品や、近作のDVD作品について詳述する。 なお、アルファレコード → アルファミュージック(ALFA)やパイオニアLDC(PIONEER)からのものを、「前後」と分けてあるが、時系列順に並べるため便宜上のものである。 レコード会社・レーベルの再編成・統合に伴い再発盤は、ALFA時代の音源は、ヴィレッジ・ミュージック/ソニー(ちなみにT-SQUAREの所属レコード会社でもある。また、2002年にヴィレッジからALFA時代のCDが再発された際、T-SQUAREも同時期に同社から再発されていた)より、PIONEER時代の音源は、社名変更されたジェネオン エンタテインメント → ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン(GENEON)よりリリースされている。

MUSIC[編集]

前ALFA時代[編集]

POLYDOR時代[編集]

前PIONEER LDC時代[編集]

  • THE PARTY(1990年6月25日 PICL-1006)
  • SPLENDOR (1990年11月25日 シングル盤) アルバム未収録
  • FULL COLORS(1991年5月25日 PICL-1016)
  • active(1992年5月25日 PICL-1036)
  • WE WANT MORE(1992年8月25日 PICL-1039 ライブ盤)
  • MADE IN MELBOURNE(1994年3月23日 PICL-1070 ライブ盤)

後ALFA時代[編集]

PONY CANYON時代[編集]

後PIONEER LDC → GENEON時代[編集]

復帰後 HATS UNLIMITED時代[編集]

  • LIVE LIFTOFF 2012(2013年4月17日)
  • TA・MA・TE・BOX(2013年11月20日)

VISUAL[編集]

DVD[編集]

  • VINTAGE 2002(2003年)
  • CASIOPEA vs THE SQUARE THE LIVE!!(2004年)
  • the way of CASIOPEA(2004年)
  • 5 STARS LIVE(2005年)
  • CASIOPEA 3rd/LIVE LIFTOFF 2012(2012年12月26日、HATS UNLIMITED)

関連項目[編集]

  • JIMSAKU
  • T-SQUARE
  • テレビ神奈川(tvk) 2004年まで長年にわたり「SUNNYSIDE FEELIN'」が同局放送開始オープニングのBGMに起用されていた。
  • 600ステーション・530ステーション-後期にはテーマ曲「FLUSH UP」を手掛けた。
  • スポーツ伝説・オープニング以外は全てカシオペアの楽曲が使用される。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 本人および所属のカシオペアの公式ページのプロフィールにおいて生年非公表
  2. ^ 野呂出演番組『GUITAR STORIES 情熱のスーパーギタリスト列伝』(TwellV、2011年放送)で野呂自らが発言
  3. ^ CASIOPEA with Synchronized DNA の共作名義
  4. ^ 小池は当時様々なバンドを掛け持ちしていたために多忙であったから。脱退後は杉真理&レッドストライプスのメンバーなどを経て、ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)に就職。所属のビートたけし岩崎宏美の担当ディレクターとなる。後年、ビクター小池の名でビートたけし出演番組に度々出るようになる。鈴木は掛け持ちしていたプリズムが翌1977年にレコードデビューが決まったのでそちらに活動シフトを置くために脱退。
  5. ^ 向谷の著書『フュージョン狂時代』(1995年刊)によれば2枚目のアルバム『SUPER FLIGHT』制作後に話し合いが持たれて決まるが、すぐに脱退したわけではなく、その後に決まっていたライブツアーなどのスケジュールには佐々木は参加していた。カシオペアはこの間に次のドラマーである神保彰と巡り逢った。
  6. ^ 一度目は1981年に当時の所属レコード会社のアルファ・レコードがアメリカに現地法人のレコード会社のアルファ・アメリカを作ってそこから最初にアルバム『EYES OF THE MIND』と続けてアルバム『MAKE UP CITY』(日本では先に制作されて発売されたが、アメリカでは『EYES OF THE MIND』の後からとなった)を発売したこと。二枚ともチャートに載るくらいのセールス記録を上げて一応の成功を見せたが、翌1982年にアルファ・アメリカが資金難に陥り、アメリカ市場から撤退を余儀なくされたことで、継続したレコードリリースが出来なくなり、カシオペアのアメリカ進出もそのまま自然消滅してしまった。
  7. ^ 1997年当時、神保は櫻井哲夫との双頭ユニットのジンサクがまだ活動中だった。しかし、以前に比べて互いの個人活動が多くなっていた時期で、翌1998年にユニットを解消している。
  8. ^ 2013年からは一部メンバーを入れ替えた「向谷実とチャージ&バックス」名義となって同様な活動をしている。
  9. ^ 2009年に櫻井哲夫と互いにデビュー30周年を記念した双頭ユニット、ペガサスでは互いのカシオペアの自作曲を幾つも演奏していた。

外部リンク[編集]