カイロ

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カイロ
القاهرة
Cairo
Cairo Montage.png
Flag of Cairo.svg
市旗
位置
の位置図
座標 : 北緯30度03分22秒 東経31度14分22秒 / 北緯30.05611度 東経31.23944度 / 30.05611; 31.23944
行政
エジプトの旗 エジプト
  カーヒラ県(カイロ県)
 市 カイロ
Governor Dr. Abdul Azim Wazir
地理
面積  
  市域 214km2(82.6mi2
  都市圏 5360km2
人口
人口 (2006年現在)
  市域 675万8581人
  市街地 1174万8240人
  都市圏 1629万2269人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間UTC+2
夏時間 東ヨーロッパ夏時間UTC+3
公式ウェブサイト : http://www.cairo.gov.eg/

カイロアラビア語: القاهرة‎ (al-Qāhira, アル・カーヒラー), 英語: Cairo)はエジプト首都である。アフリカアラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つである。アラブ連盟の本部所在地。

目次

[編集] 概要

カイロ市街
カイロ市街

ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である[1]2010年、アメリカの外交専門誌フォーリンポリシーにより、世界第43位の世界都市に選ばれており[2]、アフリカでは第1位である。またプライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、カイロの2008年の都市GDPは1450億ドルで、世界第42位、アフリカでは第1位である[3]

エジプトの乾燥した大地にナイル川が形作った肥沃なデルタ地帯のほぼ中央、要に位置し、イスラム帝国7世紀にエジプトを征服したとき、征服者アラブ人の住まう軍営都市(ミスル)が置かれて以来のエジプトの首府である。

日本語でよく知られる都市名のカイロは、英語名の Cairo に由来しており、現地語であるアラビア語ではカーヒラالقاهرة ; al-Qāhira、現代エジプト方言ではカーヘラ)という。しかし、現在でもミスルمصر ; Miṣr、現代エジプト方言ではマスル。もともとは「エジプト」を意味する呼称)という通称がよく用いられる。

カイロの中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。

[編集] 歴史

カイロ郊外、ギーザ三大ピラミッド
カイロ郊外、ギザの大スフィンクスとカフラー王のピラミッド

[編集] 古代

古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していったため、新王国時代には廃墟となっていた。

 アケメネス朝の時代に現在のバビロン (エジプト)城のあるところに砦が築かれたとの説(ヨセフス)もあるが、アウグストゥスの時代に3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.英語版; Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。

[編集] イスラム帝国時代

イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築き、「フスタート」の名を与えた。フスタートは現在カイロ市内の一部となっている地区である。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努め、フスタートはその後一貫してエジプトの首府の地位を保つこととなった。その後フスタートは北部に向かって拡張し、7世紀にアスカル、870年には現イブン=トゥールーン・モスク付近にカターイーの町ができた。

フスタートはその後、ウマイヤ朝アッバース朝のエジプト州治所、トゥールーン朝イフシード朝の首都を経て、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍によって征服された。ファーティマ朝はフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設した。以来、カイロはファーティマ朝200年の首都となるが、紅海地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。

1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロに城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年バグダードモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝、マムルーク朝のスルタンアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。

しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。

[編集] 近世以降

1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方州の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。

1798年、ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征を行い、7月21日ピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍1801年8月には降伏する。彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した。[4]。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。

1922年にエジプトは独立をはたし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っており、これに不満を持った市民は1952年1月26日に黒い土曜日といわれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファルーク国王を追放した。エジプト革命である。

革命政府はカイロの近代化を進めたものの、やがて2011年ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結し、抗議デモを起こした。2011年エジプト騒乱である。これによりムバーラク政権は崩壊した。

20世紀にはさらに郊外のヘリオポリスなどに高級住宅街の開発が進められた。

[編集] 地理

カイロ上空からの衛星写真

ナイル川は平坦な砂漠を流れる河川ではなく、東はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって紅海とさえぎられている。カイロ周辺では、南東に約100km離れたガララアルババリーヤ山 (1274m) などが際立つ。ナイル川の西側も高地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い。

ナイル川の水の恵みを受けているのは南北に連なる幅15~20kmの細長い地域だけで、カイロ市外の南方10km まではこのような風景が続く。カイロは二つの高地が終わるちょうど扇状地の扇頂に相当する位置に広がる。このため、カイロ自体の標高は15mから60m程度だが、南東方向に2km進むだけで標高150mにまで達する。

[編集] 市内の地理

カイロの市域はナイル川の東岸及び二つの中州(ゲジーラ島、ローダ島)に限られており、ナイル川の西岸はギーザ市である。カイロとギーザの市街地は一体化しており、カイロ地下鉄の路線もギザまで延び、またカイロ動物園やカイロ大学も所在地はギーザである。

カイロの中心は、ナイル川東岸にほど近いタハリール広場である。タハリール広場の周辺にはモガンマアと呼ばれる政府庁舎ビルや国民民主党本部、カイロ・アメリカン大学のキャンパスやエジプト考古学博物館などがあり、またカイロ地下鉄のターミナルであるサダト駅もこの地下にある。2011年エジプト騒乱においては、この広場に民衆が集結し、ホスニー・ムバーラク大統領の退陣を求める民主化デモの拠点となった。タハリール広場から北東にはカイロの中央駅であるラムセス駅があり、ここからアレキサンドリアやデルタ各地、アスワンなど上エジプトに列車が走っている。また、タハリール広場から東に400mほどのところにムハンマド・アリー朝の王宮であり、現大統領府であるアブディーン宮殿がある。このタハリール広場を中心とした地域は新市街と呼ばれ、19世紀のムハンマド・アリー朝の時代に都市開発がすすめられた地域で、現在でもカイロの中心である。

新市街から東には旧市街(イスラーム地区)が広がる。旧市街北部にはアズハル・モスクと988年に創立されたイスラム世界最古の大学であるアズハル大学がある。旧市街南部、モカッタムの丘にあるシタデルは、1176年アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンが築いた王宮であり、その後のマムルーク朝やオスマン帝国の時代も使用され、19世紀半ばにいたるまで700年近くカイロの政治の中心だった。ここには、ムハンマド・アリモスク(ガーマ・ムハンマド・アリ)が建設されており、市内のランドマークとなっている。シタデルをはさむようにして市街の東側に南北に伸びているのが死者の街と呼ばれる墓地である。エジプトの墓地は屋根のついた家のようなつくりになっており、貴重なものも多く世界遺産に指定されているが、カイロの急拡大にともなって市街地に収容し切れなかった人々が墓へと住み着き、2万人が居住しているといわれる。

新市街からナイル川沿いに南には、オールド・カイロがある。ここはカイロで最も古い市街地であり、コプト教徒が多く住む地域でもある。その東側にはカイロ発祥の地であるフスタートの遺跡がある。12世紀の大火により焼失し、一度は再建されたものの14世紀ペストの蔓延によって放棄されて以降、この地は廃墟となっている。

ナイル川沿いの市域西部と違い、市の東部は20世紀も後半になって開発された地域である。カイロ中心部のベッドタウンとしての性格が強い。まず東部の中央にあるヘリオポリスが開発され、さらにその南東に続いてナセルシティが建設された。その東にはカイロ国際空港があり、カイロの玄関口となっている。

[編集] 気候

ケッペンの気候区分では砂漠気候 (BWh)。

カイロの位置は、北緯30度03分、東経31度15分であり、主要都市では中華人民共和国の武漢や、アメリカ合衆国のヒューストンニューオーリンズと同じ緯度である。経度ではロシアサンクトペテルブルクウクライナキエフと近い。年間を通して南風が吹き、特に4月から5月にかけてはハムシーンと呼ばれる砂嵐が続く。年平均降水量は26.7mmと低い。カイロがアフリカ一の大都市、砂漠気候に位置する都市として最大の都市となりえたのはまさにナイルの恵みのためである。

1月の平均気温は14.0℃、7月は28.0℃。ハムシーンの季節を除けば大気が乾燥していることもあって過ごしやすい。


カイロの気候資料
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 18.9
(66)
20.4
(68.7)
23.5
(74.3)
28.3
(82.9)
32.0
(89.6)
33.9
(93)
34.7
(94.5)
34.2
(93.6)
32.6
(90.7)
29.2
(84.6)
24.8
(76.6)
20.3
(68.5)
27.8
(82)
日平均気温 °C (°F) 14.0
(57.2)
15.0
(59)
17.6
(63.7)
21.5
(70.7)
24.9
(76.8)
27.0
(80.6)
28.4
(83.1)
28.2
(82.8)
26.6
(79.9)
23.3
(73.9)
19.5
(67.1)
15.4
(59.7)
21.8
(71.2)
平均最低気温 °C (°F) 9.0
(48.2)
9.7
(49.5)
11.6
(52.9)
14.6
(58.3)
17.7
(63.9)
20.1
(68.2)
22.0
(71.6)
22.1
(71.8)
20.5
(68.9)
17.4
(63.3)
14.1
(57.4)
10.4
(50.7)
15.8
(60.4)
降水量 mm (inches) 5.0
(0.197)
3.8
(0.15)
3.8
(0.15)
1.1
(0.043)
0.5
(0.02)
0.1
(0.004)
0.0
(0)
0.0
(0)
0.0
(0)
0.7
(0.028)
3.8
(0.15)
5.9
(0.232)
24.7
(0.972)
平均降水日数 (≥ 0.01 mm) 3.5 2.7 1.9 0.9 0.5 0.1 0.0 0.0 0.0 0.5 1.3 2.8 14.2
日照時間 217 232 279 300 310 360 372 341 300 279 240 186 3,416
出典: 世界気象機関(国連)[5], BBC Weather[6] for data of sunshine hours


[編集] 世界遺産

世界遺産 カイロ歴史地区
エジプト
カイロのアズハル・モスク
カイロのアズハル・モスク
英名 Historic Cairo
仏名 Le Caire historique
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(1),(5),(6)
登録年 1979年
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
カイロの位置
使用方法表示

1979年ユネスコの世界遺産に登録された。登録名は当初「イスラーム都市カイロ」(Islamic Cairo / Le Caire islamique)だったが、2007年に「カイロ歴史地区」に名称変更された。

[編集] 登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター[1]からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

[編集] 交通

[編集] 空路

エジプト航空ハブ空港でもあるカイロ国際空港が、市内から15kmの距離にある。日本成田国際空港関西国際空港の間に直行便が就航している。市内中心部まで路線バスが往復している。将来、建設中の地下鉄3号線が乗り入れる予定。

[編集] 鉄道

ラムセス駅が中央駅で、エジプト鉄道(エジプト国鉄)がアレクサンドリアルクソールアスワン方面へ運行しているが、南部上エジプト方面へは立ち入り制限区域の関係で外国人の乗車できる列車が限定される(制限区域内の駅での外国人車両のドア扱いが無い)。

[編集] 地下鉄

カイロ地下鉄が2路線運行している。料金は全線均一の1LEで、場内において乗り換え可能である。本数は多いがいつも混雑している。4両目と5両目の2つの車両は女性専用車両であるが、1車両を終日、もう1車両は時間制としている。現在3号線がヘリオポリス方面で建設中であるほかに、4号線が具体的な計画段階になっている。

[編集] 路面電車

市内中心部(ラムセス中央駅)からヘリオポリス方面に運行しており、途中までメトロ1号線が併走している。速度が遅いうえ行き先が分かりにくく、地元の住民でないと利用は難しいと言われる。

[編集] バス

エアコン付もある大型・中型バスが市内をくまなく走っている。前面にアラビア#数字で系統番号が書いてある。値段は一律で、一乗り50pt(0.5LE)である。エジプト各地へ向かう長距離バスもある。また個人経営のマイクロバス(ミニバス)も多数運行されており、距離に応じて0.5~1.5LEだが、市内の一般的な距離であればほぼ0.75LE。ミクロバスはワゴン車タイプと運転台がトラックのようで後ろに少し大きめの客室を載せたタイプとあるが、両方とも金額および運行方法は同じであり、車体全部が白い車両はモハンデシーンを含むギーザ方面およびヘリオポリス・ニューカイロ方面、下半分が緑の車両は北部のショブラ方面、下半分が青の車両は南部のマーディ・ヘルワン方面と方向別に色分けされている。

[編集] タクシー

料金システムにより、メーター制と交渉制の2種類ある。前者は白色または黄色で、比較的車体は新しい他にエアコン付も多い。メーターは時間と距離の併用制のため、渋滞や交差点で滞留するとメーターが自動的に時間加算モードに切り替わり加算されていく。初乗りは2.5LE。後者は白黒で、車体は古くエアコンが無い場合が殆どである。

[編集] トゥクトゥク

低層住宅地内では東南アジアから輸入された3輪タクシーが営業している。運転手は無免許の場合が多く、また小回りの利く車体であることから、逆走や無理な追い越し等の無謀な運転をされがちのため、利用を避ける地元民も多い。営業可能な範囲や道路が規制されていることから、市内中心部で見かけることは無い。

[編集] ゴミ問題

2009年に世界的大流行した新型インフルエンザが豚から感染すると伝えられると、国内にいる豚の全頭殺処分が行われ、輸入も禁じられた。エジプトでは政府ではなく主にキリスト教徒らが中心となって民間企業などが豚の餌として生ゴミの収集を無償で行っていたが、豚が殺処分され生ゴミの収集を行わなくなった結果、カイロなどの都市部で生ゴミが多く放置される結果となり深刻な衛生問題を抱える結果となってしまった[7]

[編集] 姉妹都市

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

政府
日本政府
建築遺産
観光

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