オーラック

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ベトナムの歴史
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オーラック(漢語表記:、ベトナム語表記:Âu Lạc)は紀元前257年から207年まで文郎国の後、南越国の前に存在したベトナム王国である。首都は現代のハノイから35km北にある古螺であった[1][2][3]

概要[編集]

オーラックは蜀泮によって、山岳地の甌越ベトナム語版地域(現在のベトナム最北部および中国南部の一部)とこれより南部の雒越ベトナム語版 (現在のベトナム北部にある紅河デルタ)を統合して建国された[4]。彼はオーラックの唯一の君主であり、安陽王の名前で統治した。オーラックは紀元前180年-179年頃に現在の広州市付近の番禺を首都とする南越により征服された。南越の支配は紀元前111年まで続いた。ベトナムの歴史では南越は趙朝ベトナム語版と呼ばれる。

成立から滅亡まで[編集]

成立期[編集]

文郎国末期の18代目の王、雄王(フンヴオン)は酒食にふけって軍備を疎かにし、の侵攻を防ぐことができなかった。4年間の戦争の後、文郎国は秦軍を文郎国北部に受け入れたが、その地域で文郎人と共存していた西甌は秦に抵抗し、また駱越も支配を受け入れずに森林に逃れた[5]。彼らは優れた人物の蜀泮を指導者とし、6年間の抗戦の末に秦軍校尉の屠唯を破り、秦を撤退させた。西甌と駱越の指導者となった蜀泮は雄王に譲位を迫り、紀元前257年に西越を統合して(オーラック。もしくはアウラクとも[6])を建国した。

以降、蜀泮は安陽王の名で統治を行い、都は封渓(フォンケー)に置かれた。現在の地名でいえばハノイ北部のドンアイン県古螺であり、デルタに形成されたこの地域は、当時国内では最も人口の多い地域だった。また隣接するホアン川は小規模な河川であるもののソンコイ川とその支流のカウ川を繋ぐ海上交通の重要地点でもあった。オーラックの行政機構は駱将部を中心にいくつかに分かれ、それぞれ蒲正(ボーチン)と呼ばれる知事が配置されていた。しかし国家成立の経緯から国王の権限が強く、特に統治初期に銅製農耕具の製造と改良が進んで農業生産性が増大し、建築と冶金も発達したことからこの時代以降は鉄製品も多く発掘されている[7]

古螺城[編集]

秦を退けたことが建国のきっかけとなったオーラックだが、秦の再侵略は時間の問題とされていた[8]。そのため安陽王は首都封渓に古螺城としてしられる城塞を建築する。三重の城壁と全周16メートル、高さ5メートルから10メートルにも及ぶ城壁はホアン川とカー沼を組み込んで築かれ、その形が巻貝に似ていたことから螺(タニシ)城と呼ばれ、そのまま地域の語源となった[9]。また城内には銅製の武具と兵士が蓄えられ、弩も多く集められていた。河川に面したカー沼も水軍の訓練場所として利用され、常時軍船が駐留した。

これらの備えに対し、秦はむしろ衰退の兆しを見せていたが、そのために独立性を高めた諸侯が割拠する時代を招く。将軍の趙陀広東広西ら三郡を秦から任せられていたが、紀元前207年に秦が滅亡すると独立して南越国を建国した。南越は南方に面したオーラックへと侵攻を開始するが、備えが十分であったため攻略に失敗し、講和を結んで撤退する[10]。しかし南越は侵略を諦めてはおらず、趙陀の計略により安陽王と諸将の仲は次第に疎遠となり、また婚姻外交によりオーラックとの緊張関係を緩和していった。

滅亡[編集]

紀元前179年、オーラックで内乱が生じる。オーラックの諸将(カオ・ロー、ノイ・ハウら)らはそのために安陽王の元を去り、南越は再度オーラックへと侵攻した。安陽王の軍はことごとく破れ、また南越に対する警戒が緩んでいたことからたちまちのうち制圧され、同年に南越に併合される[11]。その後、オーラックは交趾郡九真郡の二郡に分割され、またの南越制圧によってさらに日南郡を加えた三郡に分けられた後、中国の6郡と合わせて交州に組み込まれた[12]。以降、微姉妹の反乱などの一時期を除き、漢人の支配の下で貢納を強制される時代(北属期)を迎えることになる。

金の亀[編集]

オーラックの興亡にまつわる伝説として、以下のような「金の亀」に関わる伝説が存在する。

安陽王は古螺を都と定めて城を築こうとしたが、何度挑んでも崩れてしまい途方に暮れていた。そこにある時、金の亀が訪れて建設の助言をもたらした。その通りに安陽王が再び築いたところ、強固な城壁が完成した。また金の亀が授けた自らの爪は優れた弩となり、侵攻してきた南越国を退けた。敗れた趙陀は一転して講和を結び、安陽王の娘の媚珠と息子の仲始の婚姻を進めた。結果、二人は仲睦まじい夫婦となったがそれは趙陀の計略であり、警戒が緩んだある日、ついにその弩を盗みだすことに成功する。その行いから講和は決裂し、再び戦争が始まるが安陽王は破れ、都から娘らを連れて落ち延びようとする。だが、その時点でも媚珠は仲始を愛しており、巡りあうことを願って目印を道に落としてしまう。しかしそれは安陽王の知るところとなり、彼は怒りのあまりに娘を斬り殺す。やがて目印を追ってきた仲始がようやく辿り着くものの、その時には媚珠はすでに死体になっており、打ちひしがれた仲始は井戸に身を投げて後を追って死んでしまった[13]

参考文献[編集]

  1. ^ Understanding Vietnam - Page 7 Neil L. Jamieson - 1995 The Dragon Lord of the Lac served as protector of the kingdom under the Hung kings, as the Golden Turtle spirit guarded the realm of Au Lac. As these potent leaders and other major cultural heroes joined the spirit world after death, they too ...
  2. ^ Philip Quang Phan, Vietnamese-American engineers: An examination of the leadership ... - Page 26 University of Phoenix - 2009 "The first written records of Vietnamese in leadership date back to 258 BC, with Thục Phán as King An Dương Vương of the kingdom Âu Lạc (Nguyễn, 1999). Throughout history, Asians in leadership positions was related to the following ..."
  3. ^ Patricia M. Pelley - Postcolonial Vietnam: New Histories of the National Past - Page 213 2002 "To bring Hanoi's singular status into sharper focus, Nguyễn Lương Bích discusses the previous capitals, beginning with Phong Châu英語版, the capital of the prehistoric Hùng kings, and Cổ Loa, the capital of An Dương Vương."
  4. ^ Keith Weller Taylor -The Birth of Vietnam Page 20 1991 " however, his unusual cleverness enabled him to retain his father's throne. As Nam Cuong grew in strength, Van-lang became weak; subsequently, Thuc Phan conquered Van-lang and founded the kingdom of Au Lac. That the Thuc family was .....
  5. ^ ファン(2008:63)
  6. ^ ファン(2008:64)
  7. ^ ファン(2008:64)
  8. ^ ファン(2008:67)
  9. ^ ファン(2008:66)
  10. ^ ファン(2008:68)
  11. ^ ファン(2008:68)
  12. ^ ファン(2008:71)
  13. ^ ファン(2008:69)
  • ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史』(明石書店, 今井昭夫他訳, 2008年8月31日)

関連項目[編集]