オルダ

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オルダペルシア語: اورده ‎Ūrda/Hurdū、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・カンの長男ジョチの長男。ジョチの正室でコンギラト部族出身のサルタクを母に持つ[1]

父のジョチの死後、弟のバトゥと父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼を形成した[2]

生涯[編集]

ジョチが没した後、オルダはジョチの本拠地であるイルティシュ川上流域を相続した[3]。オルダはバトゥをジョチ家の当主に推戴するクリルタイを主宰し、以後も多くの場面でバトゥを支援する[4]17世紀の歴史家でヒヴァ・ハン国のハンでもあるアブル=ガーズィーはチンギス・カンの命令によってバトゥが後継者とされたと述べ、16世紀ホラズム地方で成立した史書『チンギス・ナーメ』にはチンギスがオルダとバトゥの争いを仲裁し、バトゥをジョチの後継者に指名したことが記されている[5]

1235年のクリルタイで決定されたルーシへの遠征には、他の兄弟とともに参加している[6]グユクの即位が決定されたクリルタイには欠席したバトゥの代理としてオルダが参加し、チャガタイ・ウルスの当主を務めるイェス・モンケとともに王座に就くグユクの手を取った[4]。グユクが大ハーンの地位に就いた直後、大ハーンの地位をうかがったテムゲ・オッチギンの取り調べをモンケとともに行った[7]。1250年代半ばにオルダは次男のクリをフレグの西征に派遣し、その後史料に彼の動向は確認されない[8]

オルダの死後、四男のコンギランがオルダ・ウルスの統治者となった。オルダはジョチの存命中から敬意を払われ、ジョチが没してバトゥがジョチ一門の当主となった後もそれは変わらなかった[9]。オルダ・ウルスは名目上はバトゥの一族が当主を務めるジョチ宗家に従属していたが実質的には独立状態にあり、宗家の方針と異なる行動をとることもあった[10]

家族[編集]

集史』ジョチ・ハン紀のオルダの条によると、オルダの生母はコンギラト部族出身のサルタク(sartāq)という名の大ハトゥンであったという[11][12]。また、ティムール朝シャー・ルフの命によって編纂されたという系図資料『高貴系譜』(Mu‘izz al-Ansāb fī Shajarat Salāṭīn Mughūl[13]にも、オルダはコンギラト部族の女性を母とし、同母兄弟にはエセン(īsan)がいたと記されている[14][15]。『金帳汗国の没落』を著したサファルガリエフは、モンゴルの末子相続の習慣とジョチの本拠地を相続したことからオルダがジョチの末子である可能性を指摘したが、サファルガリエフの意見は多くの反論を生んだ[3]。サファルガリエフに否定的な態度を示した研究者の一人であるテュルク学者のグリゴリエフはオルダの渾名である「エジェン」が通常四男に付けられる名前であることから、オルダはジョチの四男だと主張した[3]

集史』の著者ラシードゥッディーンはオルダにチュケ・ハトン(jūka khātūn)、トバカネ・ハトン(tūbāqāna khātūn)ら3人のコンギラト部族出身の妃がいたことを記している[1][11][16]。オルダの子として、以下に挙げる7人の男子と2人の女子が史料で確認できる[17][18][19][20]

オルダ王家[編集]

歴代オルダ・ウルス当主[編集]

  1. オルダ
  2. コンクラン
  3. テムル・ブカ
  4. コニチ
  5. バヤン

脚注[編集]

  1. ^ a b 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、744頁
  2. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、128頁
  3. ^ a b c クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、62頁
  4. ^ a b 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、144頁
  5. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58-59頁
  6. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、150頁
  7. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、218,228頁
  8. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、145頁
  9. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、61頁
  10. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、136-137頁
  11. ^ a b 北川誠一 74頁
  12. ^ Rashid/Rawshan vol. 1, p. 210.
  13. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』32-33頁
  14. ^ クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58頁
  15. ^ 『高貴系譜』にはジョチの諸子の系図上にもオルダの詞書にも「エセン」が載せられているが、『集史』ジョチ・ハン紀や『五族譜』にはその名は確認できない。
  16. ^ Rashid/Rawshan vol. 1, p. 211.
  17. ^ 赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、12-14,145頁、付録11-12頁
  18. ^ 北川誠一 74 - 75頁
  19. ^ Rashid/Rawshan vol. 1, p. 211.
  20. ^ 集史』ジョチ・ハン紀のオルダの条によると、チェケ・ハトゥン、トバカネ・ハトゥンともうひとりのハトゥンも、いずれもにコンギラト部族出身であるとしている。しかし、もうひとりの大ハトゥンはコンギラト部族出身のオゲ・ハン(ūka khān ?)という人物の娘であるが、当該箇所が資料中では(アラビア語版『集史』を含め)名前欄が空白になっており、名前は不明である。

参考文献[編集]

  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房, 2005年2月)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』2巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年12月)
  • 北川誠一 「ジョチ・ウルスの研究 1 『ジョチ・ハン紀』訳文 1」『ペルシャ語古写本史料精査によるモンゴル帝国諸王家に関する総合的研究』平成7年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書、1996年3月、pp.67-90。
  • S.G.クシャルトゥルヌ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会 2003年)
  • Rashīd al-Dīn Fadl Allāh Hamadānī, Jāmi‘ al-Tawārīkh, Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī (ed.), 4 vols., Tehran, 1373/1994.