オジェ・ル・ダノワ

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デンマーク・ヘルシンガー市のクロンボー城に設置されていたハンス・ペダー・ペダーセン=デンデンマーク語版作ホルガー・ダンスク像(1907年)

オジエ・ル・ダノワまたは「デーン人オジエ」(フランス語Ogier le Danois, Ogier de Danemarche)は、中世フランスシャルルマーニュ伝説の武勲詩に登場するパラディンの一人で伝説上の英雄

「短い」という意味の名の、切っ先が欠けた聖剣コルタン[注 1]を持つが、アーサー王伝説『散文トリスタン』によれば、トリスタンが持つ刃こぼれの剣を受け継いだことになっている<ref="loeseth"/>。やはりトリスタンの剣と伝わる英国のヘンリー3世の「クルタナの剣」(現在でもイギリス王室の戴冠式に使用される)との関連も指摘されている[1]

オジエの武勲詩は、ドーン・ド・マイヤンスの物語群〔サイクル〕に分類され、シャルル王に歯向かう氏族の物語のひとつをなしている。家系図上は、ドーンの子のひとりがデンマーク公ゴーフロワ(ジョフロワ)[注 2]で、その息子がオジエである。よってオジエは、大逆臣ガヌロン英語版の従兄弟や魔法使いモージ(マラジジ)の従兄弟でもあるわけだが、これはあまり強調される側面ではない。特にデンマークでは「ホルガー・ダンスク」[注 3]の名で親しまれ、地元の英雄とされている。

各言語の表記[編集]

  • アングロノルマン語: Oger 〔オジェ〕(『ロランの歌』)
  • 古ノルド語:Oddgeir danski 〔オッドゲイル・ダンスキ〕(『カルル大王のサガ』)
  • フランコ=イタリア語: Uggeri il Danese 〔ウッジェーリ・イル・ダネーセ〕)
  • 近世のイタリア語:Ogieri, Ogiero, Uggieri 〔オジエリ、オジエロ、ウッジェーリ〕等。

総覧[編集]

この英雄がフランス系かデンマーク系かについては、いささか見解の対立がある。フランスでは19世紀の編者バロワが、オジエの添え名である「ル・ダノワ」や「ダーヌマルシュ」はデンマークではなくアルデンヌの所領に由来すると仮説を立てた[2]。その後、16世紀のデンマーク訳本は、英雄の父親ゴーフロワを、サクソ・グラマティクス著の史書にもある歴史上のデンマーク王グードリグに比定し、英雄自身は、その王子オルフであると断定している[3]
(* フランスで発見の伝オジエの石像頭部については#モー市と聖ファロ僧院の節、デンマークの石膏像については §スカンジナビアの節を参照)。


作品[編集]

日本語で手軽に読める資料に、市場訳トマス・ブルフィンチ再話『シャルルマーニュ伝説』「第23-25章:オジエ・ル・ダノワ」がある。

オジエ誕生のときに六人の「名付け親の妖精英語版」的な女性たちが現れて吉凶こもごもの授け物する。そのうちの仙女のひとりモルガン・ル・フェイ(ブ氏再話では→モルガナ)が、やがてのち物語の終盤でオジエをアヴァロンに連れて行き、いわば夫婦同然に同棲させる。こうした「ケルト物語的」要素は、本来の武勲詩にはない部分で、中世後期に追加された。ともあれ、このことでオジエはアーサー王物語の住人の仲間入りさせられた。

古武勲詩の「さわり」の部分の粗筋は、以下に記した。ブルフィンチ再話とは、大筋では合致するが、差異も多いので注意。

武勲詩『オジエの騎士道』[編集]

伝ランベール・ド・パリ作『オジエの騎士道』(Chevalerie Ogier de Danemarche; 1100-1200年頃?)は、13,000 余行におよぶ武勲詩で、全12枝篇に分けられている。

第1枝篇:オジエの出自[編集]

第1枝篇(全3109行)は、オジエの青少年期の部ともいえるが、おおよそ次のような筋書きである:[4][5]

若きオジエの身柄をシャルル王が預かっているが、オジエはのほほんと、監禁先のサントメール城主の娘と情事をおこない、息子ボードワネ(→ボルドウィン(の指小形))をもうけるなどして暮らしている。
ところがオジエの父デンマーク公ゴーフロワ(→ジョフロワ)の立てつきかたが度を超してきて、立腹したシャルル王は、みせしめにオジエを縛り首にする腹積もりになる。ところがローマ教皇から、異教徒に襲撃されているという救援依頼状が来たため、シャルルは、処刑などにかまけていられなくなり、オジエもひきつれてイタリアに向かう。オジエの身元保証人は、とりあえず親戚のバイエルン公ネーム(→ナモ)である。このときオジエはまだ騎士叙任の元服を受けていないので、生身丸腰だった。観戦していると、軍旗を持って前衛を務めるはずのアロリー・ド・プイユこと「プッリャ州のアロリー」[注 4]が逃げてくるではないか。オジエたちは、敗走中のアロリー隊から甲冑をはいで身にまとい、その軍旗(オリフラムフランス語版)を奪い、奮迅した。苦戦だったフランス軍は巻き返し、オジエは感謝されて王から佩刀の叙勲を受けた。(* オジエは旗手の座を実力で奪ったとも考えられる。『ロランの歌』ではオリフラムの騎士はアンジュー公ジェフロワだが、オジエには、前衛や先陣を務めるに最適任とされており[6]、『サガ』によれば旗手の役目であった[7]
しかし新手の強敵カラウー(→カラヒュー)[注 5]が攻めてくる、との報が入る。カラウーは、敵の総大将である都督〔アミラル〕コルスブルの娘グロリアンドとは許嫁の仲だったが、異教徒ながら、たいへん義を重んずる人物であった。またカラウーは、聖剣コルタン( →コルタナ)[注 6])の持主であった。カラウーは、思慕する貴婦人の御前でオジエと決闘したいと執拗に挑戦する。シャルルの息子シャルロ[注 7]が自分の出番だと駄々をこねるので、もうひとりサドワヌ(→サドン[注 8])という対戦相手をつけて、二組で決闘をおこなった。ところが戦いが佳境に入った頃、水をさすように、都督の息子ダヌモンが勢をひきいて乱入し、オジエを捕獲してしまった。説き伏せても釈放しないので、律儀なカラウーは、フランス陣営に投降し、もし、オジエが処刑されようものなら、自分も同じ目に合わせてもらってかまわない、と言った。
ここで異教徒側にまた強者の救援が到着した。マヨルカ国[注 9]のブリュナモン[注 10]という猛者である。都督は娘のグロリアンドとカラウーの婚約は破談にし、このブリュナモンと娶わせるという。グロリアンドは反対だが、阻止するとなると、勇士を立ててブリュナモンと戦わねばならない。グロリアンドはその勇士の役を、なんと俘虜のオジエにゆだねたのである。話を聞きつけ、カラウーは聖剣コルタンをオジエに与えてまかせることにした。オジエはみごとブリュナモンを斬り捨て、額に白点のある黒馬ブロワフォール→ベフロール[注 11])を手に入れた。

第2枝篇:息子の死と出奔[編集]

比べて400行弱ときわめて短いが、重要な展開の部分。シャルロ王子が、オジエの息子ボードワネットとチェス将棋を指して遊んでいたが、「王手詰み〔チェックメイト〕」を宣告されてかっとなり将棋盤で相手の頭をたたき割ってしまう。息子の変わり果てた姿に憤慨したオジエは、棒切れをふりまわして王子を追いまわす。王は金銭で解決しようとするが、オジエは王子の命で償ってもらうとゆずらない。オジエは追放の身となり、パヴィア国のデジエ(≒史実のロンゴバルト国王デシデリウス英語版とされる[注 12])に身を寄せる。

オジエの反乱・投獄・復帰[編集]

この後、追討しようとするフランス王軍を、オジエがさんざんに翻弄する。オジエは、ローヌ川沿いのシャ[ス]テルフォール[注 13]に牙城を得、マンゴネルなどの大型兵器で攻撃されても、従者ベノワ[注 14]ギリシア火薬で対抗するなど、痛快に立ち回る劇が語られる[8]

しかしそんなオジエも、やがて捕えられる。五人分の食欲があるこの囚人に対し、毎日パンを四分の一と水で薄めた古ワイン一杯しか与えませんから、と言ってテュルパン司教が、その監視役を買って出るが、そのじつ特大パンを焼かせ、巨大な銀杯を調達させて文字通りその四分の一だけを与えて存分に養った。七年が経ち、オジエのひげも白くなったが、二の腕や首筋はまだまだ太かった[9]

この展開で、第9枝篇(第9796~11040行)が始まる:

フランスは、アフリカの王ブルイエまたはブレユス(→ブリュイエ[注 15])率いる軍の侵攻を受けて、甚大な被害を蒙り、「こんなときオジエがおれば」の声がだんだん高まってくる。王はしぶしぶオジエの復帰を承諾。巨躯のオジエに持ちこたえる馬を探すため、王の馬ブランシャールを含む数等の馬を試乗してぺしゃんこにする滑稽な場面が盛り込まれる[注 16]。しかしオジエの愛馬ブロワフォール(→ベフロール)が、モー市の聖ファロ大修道院(→サンファロン大修道院)に預けられていることがわかる。見違えるほど痩せこけた馬は、前の主人とめぐり合うと、鼻息を鳴らしていななき、体を平伏してオジエを迎え、涙をさそう。戦う用意がそろったオジエだが、自分の息子を殺した王子を差し出さねば、てこでも働かないと言う。王は何とかできないものかというが、ネームは、フランスの国運がかかっていることでり、自分も息子ベルトランをオジエに斬られてしまったが、私情ははさまない、と諭した。しかしオジエが聖剣コルタンをとりだして、いざ王子の首をはねようとしていたその時、天使ミカエルが降臨してその手をとどめた[10](天使の場面のイラストは、Gautier 1895, p. 608(第3版)や、Molbech 1842, p. 139にある)。

第9枝篇はここで終結するが、編者バロワによれば詩人ランベールが書き綴った真正の部分はここまでで、残りはより後年に書き足されたものだという。[11]。だが、第十詩編では、オジエは実際にブルイエ(→ブリュイエ)と戦う。相手は途中で休戦を請い、亡きキリストを聖墳墓に納棺する前、その遺骸に塗りこめたという塗り薬を使って回復した。決闘が再開し、オジエの馬ブロワフォールは悲しくも殺されてしまう。だがオジエは応酬し、相手を討ち取って、新たにボーサン(→マルシュヴァレー[注 17])という馬を得る。

この後、オジエは、さる英国王の王女を救助するが、[12]この王女と結婚し、シャルル帝からエノー州ブラバント州の領地を与えられた。英国王女と夫婦になったという作り話は、そののちオジエがハンプトンのビーヴェス卿(ビーヴィス卿)英語版の父親になったという言い伝えへの布石のようである[13]。死後、オジエの遺体は従者ベノワと供に、前述モー市の僧院に安置されたという[14]#モー市と聖ファロ僧院)。

改作や翻案[編集]

後年、古い武勲詩の第1枝篇の部分を拡張して、アドネ・ル・ロワ英語版(1300年没)が、『オジエの青少年期』(?)(Enfances Ogier)を詩作した。北欧でも、『オジエの騎士道』の第一枝篇に近似するテクストが十三世紀に古ノルド語の散文に翻案されて、『カルル大王のサガ英語版』集の第3枝編『オッドゲイル・ダンスキ (Oddgeir Danski)』として収録された。内容は古武勲詩にほぼ近いが、エンディングが独自の顛末になっている[15]。また、オジエの青年期は、フランコ=イタリア語にも翻訳された。

中世後期[編集]

ジャン・ドゥートルムーズ英語版(1338-1400年)は、われわれ後世に伝わらないバージョンのオジエ伝を使っていたらしく、その著書『歴史の鑑』には、オジエがケルトかアーサー王伝説の妖猫キャスパリーグと戦ったという伝承を記録する。オジエの伝説に上述したようなアーサー王伝説がからめられるようになったのは、この頃で、まずは武勲詩を中核に、オジエのアヴァロン行きなどの物語を書き加えた、アレクサンドラン韻律(十二音綴)で20,000行におよぶフランス語の詩文ロマンスが登場したが、これは l'Arsenal 2985 (ant. 190-191)写本(14世紀)や極彩色の挿絵で有名な「タルボット・シュルーズベリーの書英語版」(大英図書館所蔵 Royal 15 E VI写本。1445年頃)[16][17]に収められている。

近世[編集]

印刷機の発明後、アレクサンドラン韻律詩と同様な内容のフランス散文訳『オジエ物語』が、1498年にパリで出版された[18]。以後、何度も再版されて広まった。

オジエは、アヴァロンの仙女モルガンと、ムールヴァンと言う名の子をもうけたとされていて、あまり知られていないが『Roman de Meurvin, fils d'Oger le Danois』(1531年)も出版されており、ここではムールヴァンの子オリアン[注 18]が、白鳥の騎士の祖先とされている[19][20]

イタリア語では、たとえばルイジ・プルチ英語版(1432-1484)作の『モルガンテ』第1詩章17詩節で、オルランドーが、デーン人ウッジェーリ(=オジエ)の妻エルメリーナから聖剣コルタナと名馬ロンデル[注 19]をかっぱらって言ってしまう(この詩の冒頭部分は、バイロン卿が『モーガンテ・マッジョーレ』の題で英訳している[21])。(*このロンデロという馬号は、ブオーヴォ・ダントーナイタリア語版の馬と同名であることが興味深い。上述ビーヴェス卿の馬アランデルに相当し「燕子〔つばくろ〕」を意味する)。

モー市と聖ファロ僧院[編集]

モー市の聖ファロ僧院には、霊廟があり、聖オトゲルと聖ベネディクトが横に並んだ仰臥像を蓋に配した石棺に、両聖人の遺体が納められていた。武勲詩でもオジエとその従者ベノワがこの僧院に永眠することになっており、彼らと二聖人を同一視する伝承があったようだ。この霊廟の銅版画(?)は、古書『アクタ・サンクトルム第IV部』(Luc d'Achery & Mabillon 1677)の扉に掲載されている。僧院は1751年に取り壊しにあったが、1874年に霊廟のものと思われる伝・オジエの頭部が発見された[22]

スカンジナビア[編集]

北欧では、「オッドゲイル」のサガが写本に残された時代を経て、近世になるとクリスティエルン・ペデルセン英語版が、パリ大学に在学中に、フランス語散文オジエ物語の出版本 Ogier le Dannoys を求め、帰国後デンマーク訳本を1534年に『ホルガー・ダンスク年代記 (Kong Holger Danskes Krønike)』として出版した。このことにより、オジエ伝説がデンマーク民間により広く伝播した。このときペデルセンは、「オルガー・ダンスクは、グードリグ(デンマーク語: Gøtrik)王の若子様にして、デンマークのお生まれにございます」と書き加えた[23]サクソ・グラマティクスのデンマーク史等によれば、グードリグ王の息子の名はオルフである。

デンマークではさらにアンデルセンの童話や、クンツェン英語版のオペラに『デンマーク人ホルガー』があり、またインゲマン英語版の詩にゲバウアー英語版が曲をつけた歌も知られている。

ヨーロッパには(アーサー王バルバロッサ)など、洞穴の眠れる巨人や英雄が、国の有事に復活するという伝説があるが、デンマークでもそういうした眠れるホルガー・ダンスク伝説が出現し、とりわけ、ペデルセンの郷土ヘルシンガー市にまつわりつくようになったといわれる。この都市の某ホテルがホルガーの銅像(1907年)を制作依頼し、その石膏型をクロンボー城の砲郭に置いたところ、そちらの方が一躍有名になった。しかし石膏像は湿気で劣化をおこし、1985年以来コンクリート像に置き換えられている[24]

第二次世界大戦中は、ナチス・ドイツの占領に対するデンマークの抵抗分子が、「ホルガー・ダンスク」の名でレジスタンス運動を行なった。

大衆文化のオジェ[編集]

オジェ・ル・ダノワは、トランプのスペードのジャックの人物とされる。アメリカの作家、ポール・アンダースンの『魔界の紋章』もオジェ・ル・ダノワの伝承を下敷にしている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

補注[編集]

  1. ^ Cortain。コルタナ、クルタナなどとも表記
  2. ^ Gaufroi de Danemarche (Langlois 人名事典の見出しでの綴り
  3. ^ デンマーク語Holger Danske
  4. ^ Alori de Puille
  5. ^ Caraheu, Karaeus, Karahues 等、変体綴り多数。邦文で「カラウー」のカナ表記の例がないが、参考として現代フランス語 heureux /œ.ʁø/ が「ウールー」と一般表記されることによる。
  6. ^ Cortain
  7. ^ Charlot(指小形)
  8. ^ Sadoine
  9. ^ メオルグル(?)Maiolgre
  10. ^ Brunamont
  11. ^ Broiefort
  12. ^ Desier
  13. ^ Chastel-fort; 現代風ならChâteau-fort
  14. ^ Beneoit
  15. ^ Brehier, Brehus
  16. ^ 原典では、別の箇所ではシャルルが Blancart つまり白馬に乗るが、ここでは都督バランから奪った早馬とされているBarrois 1842, 10435-7行, "le bon ceval corant que je conqis à l'amiraus Balant"
  17. ^ Bauchan
  18. ^ Oriant
  19. ^ ロンデロ; Rondel, Rondello

出典[編集]

  1. ^ Harper-Bill, Christopher; Harvey, Ruth (1990), The Ideals and Practice of Medieval Knighthood III, Boydell Press, p. 134, ISBN 0851152651, http://books.google.co.jp/books?id=qa62nUs53kkC&pg=PA134 
  2. ^ Ward 1883, Vol. 1, p.605
  3. ^ Brandt 1882, p. 271
  4. ^ Barrois 1842
  5. ^ Ludlow 1865
  6. ^ 有永弘人訳『ロランの歌』岩波文庫1965年初版,747行-
  7. ^ Hieatt 1975, 54章(最終章): "Oddgeir was his standar-bearer as long as they both lived".
  8. ^ Ludlow 1865, pp. 282-3
  9. ^ Ludlow 1865,p.290
  10. ^ 散文オジエの古い出版本にもこの場面はある:Benoit Rigaud 1579, p. 233:"Comment.. Charlemaigne fut contrainct de liurer son filz Charlot à Ogier.. &comment l'Ange ainsi qu'il vouloit coupper la teste de Charlot luy retint le bras".
  11. ^ Ludlow 1865, p. 296
  12. ^ Ludlow 1865, p. 300
  13. ^ Ludlow 1865, pp. 300, 303
  14. ^ Ludlow 1865, p. 301
  15. ^ Hieatt 1975参照
  16. ^ Ward 1883, Vol. 1, p.605-: "MS Royal 15 E VI"
  17. ^ British Museum/Library オンライン写本カタログ
  18. ^ Togeby 1967
  19. ^ Encyclopedia Britannica (1880-1899の各版), vol.20, "Romance" の項
  20. ^ Dixon-Kennedy 1995
  21. ^ Gordon, George, Lord Byron (1841), Complete works, Place: A. and W. Galignani, http://books.google.co.jp/books?id=nEoJAAAAQAAJ&pg=PA328 
  22. ^ Tête d’Ogier le Danois, Meaux”. Topic Topos. 2012年3月3日閲覧。
  23. ^ Brandt 1882, p. 271
  24. ^ Kronborg Castle site (Holger the Dane)”. 2012年3月2日閲覧。

参考文献[編集]

(邦書)
  • トマス・ブルフィンチ 『シャルルマーニュ伝説』1806巻、市場泰男 訳 講談社〈講談社学術文庫〉、2007年ISBN 978-4-06-159806-5 ,p.325-360, 第23-25章(オジエ・ル・ダノワ(一)~(三))
(事典・一般書)
(一次資料)
(古出版書)
(二次資料)
(モー市の伝オジエの頭部と聖オトゲル霊廟)

外部サイト[編集]