エル・シド
ロドリーゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、通称エル・シド(El Cid)(1045年? - 1099年6月)は、11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族。叙事詩『わがシッドの歌』の主人公としても知られる。
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[編集] 名前
シッドという名はアラビア語のアンダルス方言で「主人」を意味したスィーディー(سيدي )から来ており、彼の生きていた時代には身分ある人物への敬称として広く用いられていたが、のちにロドリゴの通称として定着した。アラビア語形ではアル・サイイド(Al Sayyd)となる。ロドリーゴをとくに「エル・シド・カンペアドール」(El Cid Campeador )ともよぶ。
なおスペイン語Cidは、あえてカタカナ表記するなら「シッ」あるいは「シース」に近い音であるが、日本ではコルネイユの戯曲「Le Cid(ル・シッド)」から「シッド」、あるいは「シド」の表記(おそらく英語経由)が慣例化している。スペイン語の日本語表記#語尾の子音参照。
[編集] 生涯
[編集] 誕生
ブルゴスの北にある小さな町ビバールで生まれる。その正確な誕生日は未だに不明であるが、1043-1045年の間ではないかと言われている。
シドの父はディエゴ・ライネスと呼ばれていたことが知られ、幾つかの戦いに参加した軍人である事が知られている。若き日のシドは、そういった縁もあって、サンチョ2世付きの小姓としてカスティーリャの王家に育てられた。1063年の春頃にグラウスの戦いが起こり、シドはサンチョ2世と共にこの戦いに参加している。
[編集] サンチョ2世
1065年にフェルナンド1世が死去。その領地は息子達に分割相続された。
サンチョ2世はカスティーリャ王国を受け継いだが、長男として全ての領地を受け継ぐべく戦争を開始した。弟達を打ち破り領土の再統一を行い、シドもサンチョ2世の下で活躍する。しかし、サンチョ2世は1072年に暗殺されてしまう。
[編集] アルフォンソ6世
サンチョ2世の暗殺については、弟アルフォンソ6世とその姉ウラカが首謀者とも言われるが定かではない。アルフォンソ6世が王位を継ぐと、シドはカスティーリャから追放されてしまった。
[編集] 追放
追放は全生涯で2回(3回とも言われる)行われた。2回目の追放に至っては、シドはイスラム勢力に押されているアルフォンソの窮地を救ったにもかかわらず「援軍にくるのが遅い」という理由で追放されたとされている。ただし援軍が遅れた理由は、アルフォンソが進路を変更してしまったためともいう。
こうした追放のそもそもの原因は、シドに「サンチョ暗殺の犯人ではない」という旨の宣誓をさせられた恥辱をアルフォンソ6世が根に持ったためと言われている。あるいは一説には、シドが英雄さながらの武勲を次々に立てることから、民心がアルフォンソではなくシドに移ることを恐れたためであるという。
なお2回(または3回)の追放ののち、アルフォンソ6世と和解したという資料もある。
[編集] バレンシアの征服
アルフォンソによる追放の後も、彼を慕う多くの兵士達が集った。シドは当時まだ色が付いていなかったバレンシアの征服に乗り出し(バレンシアがアルフォンソの所領から遠かったことも一因であるらしい)、1094年にバレンシアをイスラム教徒から奪回する。
バレンシア平定後、シドは幽閉されていた妻子を呼び寄せた。その後5年間の統治を経て亡くなっている。
生きている時代にすでにシドを歌う叙事詩が作られ始め、シドは城でその歌を満足げに聴いていたという文献資料もある。
叙事詩のひとつによれば、死期を悟ったシドは自ら食を絶ち、死体を保存できるように準備をし、数十年以上、生きた当時の姿のまま台座に座っていたという。そしてその台座上の姿のまま、愛馬バビエカに乗せられて巡行したと述べられている。それでも、ついにミイラの鼻がもげてしまったことをきっかけに、パピエカの墓のすぐそばに埋葬されたという。
1099年のシド他界後、シドの妻ヒメーナはその後を継いで統治を行うが、数年でその領地は失われた。以後100年以上に渡ってキリスト教徒がバレンシアを奪還することは出来なかった。
[編集] エル・シドの剣
エル・シドの使用した剣、ティソナはマドリード市内にある軍事博物館(ムセオ・デル・エヘルシト、Museo del Ejército)に飾られている。カスティージャ王家の重要な所有物の一つとなっている。1999年、そのかけらがサンプルとして冶金学で分析された。
その他ファンタジー作品などでもう一振りの剣、コラーダが出てくることがある。なお叙事詩では妖精によって鍛えられた剣という、エクスカリバーに似たエピソードが出てくる。
[編集] エル・シドとイスラーム教徒
レコンキスタの『英雄』として見られることの多いエル・シドだが、現実の彼は反イスラーム主義ではなくイスラーム教徒とも親しく付き合っていた。また追放されていた最中には、サラゴサのタイファ、アル=ムタディル (al-Muqtadir) の元に身を寄せ、その息子、孫3代に仕えてアラゴン王国への侵攻の指揮などをとっている。
[編集] 創作におけるエル・シド
英雄叙事詩、『わがシドの歌』は最古のスペイン文学でマドリードの国立図書館に古スペイン語で書かれた物語の写本が不完全ながら所蔵されている。物語は実話を元にレコンキスタにおけるエル・シドの活躍を描いている。
3,700を越える詩からなるこの物語は大きく三部に分けられる。
- Cantar del Destierro
- Cantar de las Bodas
- Cantar de la Afrenta de Corpes
このうちの第3部については、歴史的には全く虚構の産物と言われている。
作者は不詳。ただしサン・エステバン、メディナセリの二名が構成に関与したと言われている。
この叙事詩以外にも、さまざまな叙事詩が作られ、イスラム勢力側の当時の様々な文献にも、憎き仇敵としてシドは登場している。
[編集] 参考文献
- リチャード・フレッチャー、林邦夫訳『エル・シッド 中世スペインの英雄』法政大学出版局、1997年
- ラモン・メネンデス・ピダル、安達丈夫訳『エル・シッド・カンペアドル』文芸社、2000年
[編集] 関連項目