エルサレム国王一覧

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本項では1099年から 1291年までのエルサレム国王及び今日に至るまでの王位請求者の一覧を列挙する。

エルサレム国王 (1099年–1291年)[編集]

エルサレム王国の起源は第1回十字軍に遡る。この時の1099年ゴドフロワ・ド・ブイヨンAdvocatus Sancti Sepulchri (聖墓守護者)の称号を得てベツレヘム降誕教会エルサレムの支配者として戴冠した。

後年、弟のボードゥアン1世は初めての称号を使用し、エルサレムの聖墳墓教会で戴冠した。

エルサレムの国王の地位は部分的に選ばれ、部分的に世襲されてきた。王国の全盛期であった12世紀半ばには王室と比較的に明白な継承ラインがあった。それにも係わらず、国王は有力者会議によって選ばれるか、最低でも認められた。そこでは国王はen:primus inter pares (初期対等期間)と見做され、国王不在の時はその任務は国王の執事によってなされた。

王宮はダヴィデの塔の要塞に置かれた。エルサレム王国はフランスにおける封建制の構造をレバントに導入した。国王は個人的に敷いた幾つかのレーエン領域に組み入れ、それは国王が変わるたびに更新された国王はまた戦闘の先頭に立つ責任があったが、この義務は軍司令官に渡った。

同時代の幾つかのヨーロッパの国々が君主の中央集権化に向かっている一方、エルサレム国王は自身の最も強力な執事によって次第に力を失っていった。これは多くの国王が幼少だったのと貴族の等級から来る摂政の頻繁が部分的な原因である。

1187年のエルサレム陥落後は王国の首都はアッコに移り、1291年まで存続したが、戴冠式はティルスで執り行われた。

この期間中、国王の地位は、実際はアッコに住まないヨーロッパの君主が据えられるという大概は単なる名目上の地位であった。若いコンラート3世が国王でドイツ南部に住んでいた時、その父方の第二の従兄弟であるユーグ・ド・ブリエンヌはエルサレム王国の摂政を要求して間接的にコンラート3世の地位を継承した。王位請求権は女王イザベル1世の二番目の娘であるアリス・ド・シャンパーニュの年長の子孫且つ正当な相続人によって1264年に行われたが、ユーグ・ド・ブリエンヌはアリスの長女の息子だったのである。しかしながら王位は有力者会議によって自らが支持していたユーグ・ド・ブリエンヌの従兄弟であるアンティオキア侯ユーグ、将来のキプロス王ユーグ3世に渡った(エルサレム国王ユーグ1世)。

1268年にコンラート3世がシャルル・ダンジューによって処刑された後、国王の地位は同時にキプロス王位についていたリュジニャン家によって所有された。しかしながら、1277年シチリア国王 カルロ1世は王位継承権の権利を強く打ち出した。

この年、カルロ1世は自身の代官であるen:Roger of Sanseverinoを東方に派遣した。ロジャーはアッコを占領して伯爵達から忠誠の誓いを得た。ロジャーは1282年シチリアの晩鐘のために呼び戻され、その後、自身の支配地であるen:Odo Poilechienに去った。ロジャーの遺産と権威は極最小限のものであり、アンリ2世がエルサレム国王として戴冠してキプロスから到着した時に追放された。

1291年にアッコがマムルーク朝によって占領されたことで十字軍は主要な土地から放逐された。

君主 肖像画 生誕 結婚 死去
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
(聖墓守護者)
1099年–1100年
Godfrey of Bouillon, holding a pollaxe. (Manta Castle, Cuneo, Italy.jpg 1060年
ブローニュ=シュル=メール, フランスないしベルギー, ブラバント
ブローニュ伯ウスタシュ2世イド・ド・ブローニュの息子
未婚 1100年7月18日
40歳没
ボードゥアン1世
1100年–1118年
Baldwin 1 of Jerusalem.jpg 1058年
ロレーヌ, フランス
ブローニュ伯ウスタシュ2世イド・ド・ブローニュの息子
ゴデヒルド・ド・トニー
子を儲けず

アルメニア公女アルダ
1097年
子を儲けず

アデライード・デル・ヴァスト
1112年
子を儲けず
1118年4月2日
アリーシュ, エジプト
約 60歳没
ボードゥアン2世
1118年–1131年
Balduin2.jpg  ??
フランス
ルテル伯ユーグ1世とメリザンド・ド・モンテリの息子
モルフィア・オブ・マラティア
1101年
4人の娘を儲ける
1131年8月21日
エルサレム
メリザンド
1131年–1153年
1143年以降はフルクと
1143年以降はボードゥアン3世と共同統治
Melisende and Fulk of Jerusalem.jpg 1105年
エルサレム
ボードゥアン2世モルフィア・オブ・マラティアの娘
アンジュー伯フルク5世
1129年6月2日
2 人の子を儲ける
1161年9月11日
エルサレム
56歳没
フルク
1131年–1143年
メリザンドと共同統治
1089/1092年
アンジェ, フランス
アンジュー伯フルク4世ベルトラード・ド・モンフォールの息子
エルメンガルド・ド・メーヌ
1109年
4 人の子を儲ける

メリザンド
1129年6月2日
2人の子を儲ける
1143年11月13日
アッコ, エルサレム王国
52歳没
ボードゥアン3世
1143年–1162年
1153までメリザンドと共同統治
Balduin3 big.jpg 1130
フルクメリザンドの息子
テオドラ・コムネナ
1158年
子を儲けず
1162年2月10日
ベイルート, エルサレム王国
32歳没
アモーリー1世
1162年–1174年
Maria Comnena and Amalric I of Jerusalem.jpg 1136年
フルクメリザンドの息子
アニェス・ド・クルトネー
1157年
3 人の子を儲ける

マリア・コムネナ
1167年8月29日
2人の子を儲ける
1174年7月11日
エルサレム
38歳
ボードゥアン4世 瘰癧王
1174年–1185年
1183年からボードゥアン3世と共同統治
Balduin4.jpg 1161年
エルサレム
アモーリー1世アニェス・ド・クルトネーの息子
未婚 1185年3月16日
エルサレム
24歳没
ボードゥアン5世
1183年–1186年
1185年までボードゥアン4世と共同統治
BaldwinIVdeath-BaldwinVcrowned.jpg 1177年
ヤッファ伯・アスカロン伯グリエルモ・デル・モンフェッラートシビーユの息子
未婚 1186年8月
アッコ, エルサレム王国
9歳没
シビーユ
1186年–1190年
ギーと共同統治
Lettrine-Sibylle guy.jpg 1157年
アモーリーアニェス・ド・クルトネーの娘
ヤッファ伯・アスカロン伯グリエルモ・デル・モンフェッラート
1176年
子を儲けず

ギー・ド・リュジニャン
1180年4月
2人の娘を儲ける
1190年7月25日 (推定)
アッコ, エルサレム王国
約40歳没
ギー・ド・リュジニャン
1186年–1190/1192年
1190年までシビーユと共同統治
1150年ないし1159/1160年
ユーグ8世・ド・リュジニャンとブルゴーニュ・ド・ランソンの息子
シビーユ
1180年4月
2人の子を儲ける
1194年7月18日
ニコシア, キプロス
約45歳没
イザベル1世
1190/1192年-1205年
1192年までコンラートと
1192年–1197年までアンリ1世と
1198年からエメリー2世と共同統治
IsabelaKOnrad.jpg 1172年
ナーブルス, エルサレム王国
アモーリー1世マリア・コムネナの娘
オンフロワ4世・ド・トロン
1183年11月
子を儲けず

モンフェラート侯コンラード
1190年11月24日
1人娘を儲ける

シャンパーニュ伯アンリ2世
1192年5月6日
2人娘を儲ける

キプロス王エメリー・ド・リュジニャン
1198年1月
3人子を儲ける
1205年4月5日
アッコ, エルサレム王国
33歳没
コンラート1世
1190/1192年–1192年
イザベル1世と共同統治
1140年半ば
モンフェラート, 神聖ローマ帝国
モンフェッラート侯グリエルモ5世ユーディト・フォン・バーベンベルクの息子
不特定の女性
1179年以前
子を儲けず

テオドラ・アンゲリナ
1186/1187年
子を儲けず

イザベル1世
1190年11月24日
1人娘を儲ける
1192 年4月28日(暗殺される)
アッコ, エルサレム王国
40代半ば没
アンリ1世
1192年–1197年
イザベル1世と共同統治
Henry II of Champagne.jpg 1166年7月29日
シャンパーニュ
シャンパーニュ伯アンリ1世マリー・ド・フランスの息子
イザベル1世
1192年5月6日
2人の娘を儲ける
1197年9月10日
アッコ, エルサレム王国
31歳没
アモーリー2世
1198年–1205年
イザベル1世と共同統治
- 1145年
ユーグ8世・ド・リュジニャンとブルゴーニュ・ド・ランソンの息子
エシーヴ・ディベリン
1174年10月29日以前
6人の子を儲ける

イザベル1世
1198年1月
3人の子を儲ける
1205年4月1日
アッコ, エルサレム王国
60歳没
マリーア
1205年–1212年
1210年までジャン1世と共同統治
JanBrienne.jpg 1192年
コンラート1世イザベル1世の娘
ジャン・ド・ブリエンヌ
1210年9月14日
1人娘を儲ける
1212年
20歳没
ジャン1世
1210年–1212年
マリーアと共同統治
1170年
エラール2世・ド・ブリエンヌとアニェス・ド・モンフォーコンの息子
マリーア
1210年9月14日
1人娘を儲ける

アルメニア公女ステファニー
子を儲けず

レオン王女ベレンガリア
1224年
4人子を儲ける
1237年3月27日
約67歳没
イザベル2世
ないし ヨランダと呼ばれる
1212年–1228年
DeathofYolande-Isabella.jpg 1212年
ジャン1世マリーアの娘
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世
1225年8月
2人の子を儲ける
1228年4月25日
アンドリア, 神聖ローマ帝国
16歳没
コンラート2世
1228年–1254年
Conrad IV of Germany.jpg 1228年4月25日
アンドリア, 神聖ローマ帝国
フリードリヒ2世イザベル2世の息子
エリーザベト・フォン・バイエルン
1246年9月1日
1人息子を儲ける
1254年5月21日
ラヴェロ, 神聖ローマ帝国
26歳没
コンラート3世
1254年–1268年
Konradin.jpg 1252年3月25日
ヴォルフシュタイン城, ランツフート, バイエルン
コンラート2世エリーザベト・フォン・バイエルンの息子
未婚 1268年10月29日
カステルデッローボ(卵城), ナポリ
16歳没
ユーグ
1268年–1284年
- 1235年
アンティオキア公子アンリキプロス王女イザベラの息子
イザベラ・ディベリン
1255年1月25日以降
11人の子を儲ける
1284年3月24日
ニコシア, キプロス
49歳没
ジャン2世
1284年–1285年
- 1259/1267年
ユーグイザベラ・ディベリンの息子
未婚 1285年5月20日
ニコシア, キプロス
17 ないし26歳没
アンリ2世
1285年–1324年
1291年以降は単なる称号
- ユーグイザベラ・ディベリンの息子 シチリア王女コンスタンツァ
1317年10月16日
子を儲けず
1324年8月31日
ストロヴォロス, キプロス
53歳没

摂政[編集]

君主は度々不在ないしは未成年の時は王国が存続するのを介して多くの時に指名された摂政を必要としていた。

摂政 摂政する相手 君主との関係 摂政の開始 摂政の終了
ユースタス・グルニエ, 王国の軍総司令官 ボードゥアン2世 - 1123年
国王はアルトゥク朝の捕虜となった
1123年
死去
ギヨーム・ド・ビュール, ガリラヤ公 - 1123年
国王はアルトゥク朝の捕虜となった
1124年
国王は捕虜の身から解き放たれた
メリザンド ボードゥアン3世 母親 1154年
国王の助言者として
1161年
死去
トリポリ伯レイモンド3世 ボードゥアン4世 父の従兄弟 1174年
国王の少数派
1176年
国王の多数派
ギー・ド・リュジニャン 姉の夫 1182年
病気の国王によって任命される
1184
国王によって追われる
トリポリ伯レイモンド3世 ボードゥアン5世 一等親離れた従兄弟 1185
国王の多数派
1186年
国王の死
ベイルート領主ジャン・ド・イベリン マリーア 母の異父弟 1205年
女王の多数派
1210年
女王の多数派
ジャン1世 イザベル2世 父親 1212年
女王の多数派
1225年
女王の結婚
フリードリヒ2世 コンラート2世 父親 1228年
国王の少数派
1243年
国王の多数派
エルサレム王女アリス
(キプロス王ユーグ1世の未亡人)
(エルサレム女王イザベル1世の娘)
半叔母 1243年
国王の不在
1246年
死去
キプロス王アンリ1世 半従兄弟 1246年
国王の不在
1253年
死去
アンティオキア公女プレザンス
(キプロス王アンリ1世の未亡人)
(アンティオキア公ボエモン5世の娘)
義理の半従兄妹 1253
国王の不在/少数派
1261年
死去
コンラート3世 一等親離れた義理の半従兄弟
キプロス王女イザベラ
(キプロス王ユーグ1世の娘)
一等親離れた半従兄弟 1261
国王の少数派
1264年
死去
ユーグ
(後のキプロス王ユーグ3世)
二等身離れた従兄弟 1264年
国王の少数派
1268年
国王の死去により君主の地位につく

系図[編集]

 
 
 
 
 
ゴットフリート2世
ロレーヌ公
 
ウスタシュ1世
ブーローニュ伯
 
マティルダ
(ルーヴァン伯
ランベール1世娘)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イーダ
 
ウスタシュ2世
ブーローニュ伯
 
 
 
イーダ
 
ボードゥアン
ルテル伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メアリー
(スコットランド王マルカム3世娘)
 
ウスタシュ3世
ブーローニュ伯
 
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
 
ボードゥアン1世
 
ユーグ1世
ルテル伯
 
メリザンド・ド・モンレリ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マティルダ
=イングランド王スティーブン
 
 
 
モルフィア
メリテネ領主ガブリエル娘)
 
ボードゥアン2世
 
 
 
 
 
エリブラン2世
イエルジュ領主
 
オディエルナ
 
ルッジェーロ
サレルノ伯
アンティオキア摂政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フルク5世
アンジュー伯
 
メリザンド
 
アリックス
=アンティオキア公ボエモン2世
 
オディエルナ
=トリポリ伯レイモン2世
 
ヨヴェタ
ベサニー女子修道院長
 
マナセ・ド・イエルジュ
 
 
 
 
 
 
 
エルヴィーズ・ド・ラミュラ
 
バリサン・ディブラン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テオドラ・コムネナ
(ビザンツ帝マヌエル1世姪)
 
ボードゥアン3世
 
アニェス・ド・クルトネー
(エデッサ伯ジョスラン2世娘)
 
 
 
 
 
アモーリー1世
 
 
 
 
 
マリア・コムネナ
(ビザンツ帝マヌエル1世甥の娘)
 
 
 
 
 
 
 
バリアン・ディブラン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グリエルモ・デル・モンフェラート
 
シビーユ
 
ギー・ド・リュジニャン
キプロス王
 
ボードゥアン4世
 
オンフロワ4世・ド・トロン
 
イザベル1世
 
 
 
 
 
エメリー・ド・リュジニャン
キプロス王
 
ジャン・ディブラン
ベイルート領主
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ボードゥアン5世
 
 
 
 
 
 
 
コンラート1世
モンフェラート侯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アンリ2世
シャンパーニュ伯
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ベレンガリア
(レオン王アルフォンソ9世娘)
 
 
 
ジャン・ド・ブリエンヌ
 
 
 
 
 
マリーア
 
アリス
=キプロス王ユーグ1世
 
フィリパ
=エラール・ド・ブリエンヌ
 
シビーユ
=アルメニア王レヴォン2世
 
ボエモン4世
アンティオキア公
 
メリザンド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリーア
=ラテン帝ボードゥアン2世
 
フリードリヒ2世
神聖ローマ皇帝
 
イザベル2世
 
マリー
=ブリエンヌ伯ゴーティエ4世
 
アンリ1世
キプロス王
 
プレザンス
(アンティオキア公ボエモン5世娘)
 
イザベラ
 
アンリ
 
マリー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンラート2世
神聖ローマ皇帝(4世)
 
 
 
ユーグ1世
ブリエンヌ伯
 
 
 
ユーグ2世
キプロス王
 
 
 
 
 
ユーグ3世
キプロス王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コンラート3世
シチリア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャン
キプロス王
 
アンリ2世
キプロス王
 
エメリー
 
イザベラ
(アルメニア王レヴォン3世娘)
 
ギー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルメニア王家
 
 
 
キプロス王家

 :エルサレム王

エルサレム王位請求者 (1291年から今日まで)[編集]

王位請求の起源[編集]

幾年にも渡って多くのヨーロッパの支配者達がエルサレム王位請求の正当な相続人として主張してきた。これ等の請求者の誰もではないが、しかしながら実際にはエルサレム王国の一部を支配してきた。:

  • 王国滅亡後もアンリ2世はエルサレム国王の称号を使い続けた。アンリ2世没後はこの称号は直接の相続人であるキプロス王が請求した。

幾つかの請求権の継承ライン[編集]

個々にイタリック文字で示された者については自身ではエルサレム国王の称号を用いてはいない。

キプロス王家による請求[編集]

リュジニャン家

サヴォイア家: サヴォイア家による嫡流の請求者

リュジニャン家: リュジニャン家による庶流の請求者及び実質的なキプロス王位:

カルロ2世が死ぬとサヴォイア公位は大叔父で男性相続人であるフィリッポ2世(アメデーオ9世の兄弟)に渡った。カルロ2世の姉妹である ヨランダ・ルイーズは女性であるがためにサヴォイア公位を継承しなかったが、 全般的なカルロ2世の相続人であり、カルロ2世からキプロス及びエルサレム王位の請求権を継承したと見做されている。

サヴォイア公はエルサレム王位請求権を主張し続けたが、ハプスブルク家ブルボン家と言ったヨーロッパの主要な王家との継承権の争いを避けるために称号のリストに意味不明瞭な"&c."[1]を付けてサヴォイア家による請求を隠した。

フィリッポ2世の子孫
サヴォイア家:

アメデーオ9世の子孫

ナポリ王家による請求[編集]

マリー・ド・アンティオキア1269年から1277年 までエルサレム王位を請求した。マリーはアンティオキア侯ボヘモンド4世とその二番目の妻であるメリザンド・ド・キプロスの娘であった。メリザンドは女王イザベル1世とその四番目の夫であるアモーリー2世の娘であった。

コンラート3世 の死亡時でマリーは女王イザベル1世の生き残っていた唯一の孫であり、その時からマリーは血縁関係を根拠にエルサレム王位を請求し続けた。 有力者会議,に否定されるとマリーはローマに行き、王位請求権の権利を1277年に教皇から祝福を得て、承認されたシャルル・ダンジューに売り渡した。

それ以来、エルサレム王国に対するこの請求は同時に、直接の相続よりも遺言ないしは征服によって持ち主がしばしば変わったナポリの王冠に付属するものとして扱われた。

アンジュー=シチリア家

アンジュー=ドゥラツォ家: アンジュー家の年長による請求 :

ヴァロワ=アンジュー家: アンジュー家の下位による請求 :

ヴァロワ=アンジュー家

  • ルネ・ダンジュー 1434年–1480年、ルネはアンジュー家による年長と下位の請求権を統合した。しかしながら1441年アルフォンソ5世によってナポリ王国の支配権を失ったが、同時にアルフォンソ5世もそれ故にエルサレム王位を請求した。
ルネの孫のルネ2世バール公領を相続する一方、甥のシャルル5世・ダンジューがシチリア及びエルサレム王位請求権を引き継ぎ、その後、従兄弟のフランス王ルイ11世に託された。

アラゴン王家による請求:

アンジュー=ロレーヌ家による請求: ヴァロワ=アンジュー家

ロレーヌ家

ハプスブルク=ロートリンゲン家

フランス王家による請求: ヴァロワ=アンジュー家

ヴァロワ家

  • ルイ11世 1481年–1483年、一等親の従兄弟、遺言による。
  • シャルル8世 1483年–1498年 — 1494年に シャルル8世はルイ2世・ダンジューの曾孫としてナポリ及びエルサレム王位を請求して進軍した。1495年にナポリを征服して国王として戴冠した。

ヴァロワ=オルレアン家

  • ルイ12世 1498年–1515年.、ルイ12世は請求権を持ち上げたが、ナポリ王家の近縁の子孫であるという点が欠けていた(ルイ12世はカルロ2世の長女の子孫)。ルイ12世は1500年–1504年まで征服したナポリの一部を継承した。しかし他のフランス王でエルサレム王の称号を用いた者はいなかった[5]

スペイン・ブルボン家による請求:

ハプスブルク家による請求 :

  • カール6世 1702年–1740年, フェリペ5世に対抗してスペイン王位を請求、1734年に後のカルロス3世 に対してナポリ王国及び自身が所持していたナポリ及びエルサレム王位の称号を放棄した。

両シチリア王家による請求 :

長系 :

次系:

ブリエンヌ家による請求[編集]

  • ブリエンヌ伯ユーグ とその後継者は王国の相続人の家長を代表していたが、有力者会議による拒絶の後、この一族は請求を全面に押し出してはいない。1672年にブリエンヌ家とキプロス王家によるエルサレムの王冠の後継は統一された。

現在の可能性のある王位請求者[編集]

ここに称号の相続に基づく(対立も含む)現在の可能性のある幾つかの王位請求者を挙げる。彼等の誰もが以前の王国の区域の何らかの力を有してはいない。

その他の歴史的請求者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Scott, John Beldon (2003) Architecture for the shroud: relic and ritual in Turin, University of Chicago Press
  2. ^ [1]
  3. ^ [2]
  4. ^ [3]
  5. ^ [4]
  6. ^ Evgenii Petrovich Karnovich (1823-1885) Rodovye prozvaniya I tituly v Rossii (Family Names and Titles in Russia) St Peterburgh 1886
  7. ^ Cecil R. Humphery-Smith, Princes of Lusignan page 5 The Institute of Heraldic and Genealogical Studies 2004.
  8. ^ In the issue No. 180 of the Peterburgskiy Listok (Petersburg List) Newspaper July 3–15, 1884, a list of deceased in St Petersburg between 11 June and 18 June was found. There was a record for Louis Christian de Lusignan, colonel (retired). In the same newspaper issue No. 172 June 25-July 7, 1884, the following article was published: "The deceased who was buried thereby on Smolensk graveyard on 23 July, was a titled King of Cyprus and Jerusalem and Armenia, descendant of one of the protector of God's Casket, colonel of the Russian service, Louis de Lusignan."

参考文献[編集]

  • Steven Runciman, A History of the Crusades Vol.II, Cambridge University Press, 1954.
  • Steven Runciman, A History of the Crusades Vol.III, Cambridge University Press, 1954.
  • John L.la Monte, Feudal Monarchy in the Latin Kingdom of Jersalem, 1100 to 1291, Kraus Reprint Co., 1970.

関連項目[編集]