エリトリア (通報艦)

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Francis garnier.1.jpg
通報艦「エリトリア」
写真は大戦後のフランス海軍護衛通報艦「フランシス・ガルニエ」時代のもの
艦歴
発注 カステッランマーレ造船所
起工 1935年7月25日
進水 1936年5月
就役 1937年2月10日
退役 1966年
その後 標的艦として海没処分
除籍
後型 ディアナ
性能諸元
排水量 基準:2,165トン
満載:3,060トン
全長 96.9 m
87.0 m(水線長)
全幅 13.32 m
吃水 3.7~4.7 m
機関 フィアット2サイクルディーゼル機関 2基 & 電気モーター併用 2基2軸推進
最大出力 7,800 hp(ディーゼル)、1,300 hp(モーター)、合計9,100 hp
最大速力 20.0ノット
航続距離 14ノット/6,900海里
乗員 234名
兵装 1926年型 12cm(45口径)連装速射砲2基、
1932年型 37mm(54口径)連装機関砲2基、
1931年型 13.2 mm(75.7口径)単装機銃4基
航空設備 なし

エリトリアEritrea aviso)は、イタリア海軍第二次世界大戦前に建造した通報艦(Aviso)である。本艦はイタリアの植民地拡大政策に則り、イタリアの保有する植民地を平時は自国民の国威掲揚と通商路を警備し、戦時には海上交通の護衛任務に使用する任務に使用する艦として1934年海軍整備計画において計画され、1935年5月にカステッランマーレCastellammare)造船所に発注、同年7月25日に起工され、1936年5月進水、1937年2月10日に竣工した。原語のイタリア語での読みは「エリトレア」が近い。

概要[編集]

長らくイタリア海軍ではこの任務においては航洋砲艦か旧式の装甲巡洋艦を使用していたが、砲艦では小回りが利き沿岸部での警備活動には最適であるが航続性能が低く通商路の保護には向かない。一方、装甲巡洋艦は航続性能でも戦闘能力でも充分ではあるが船体が大型なために平時の維持費が掛かるのが難点であった。この頃、地中海を挟んで対峙するフランス海軍では植民地警備艦として新型通報艦ブーゲンヴィル級」を建造していた。そのため、イタリア海軍も植民地警備のために通報艦を建造する事とした。

艦形[編集]

本艦の艦形図

船体は艦首乾舷の高い単船首楼型で、クリッパー・バウ式艦首を持っていた。艦首甲板上には「1926年型 12cm(45口径)砲」を連装砲架で1基装備し、その後ろに近代的な箱型の艦橋が有り、背後に中部に見張り台を持つ単脚式の前檣を立つ。その後部から、甲板は一段分下がるが、舷側甲板上に船首楼甲板から同じ高さでフライング・デッキ(空中甲板)が後部主砲近辺まで伸びており、艦上の利用できるスペースは広い。1本煙突の周りは艦載艇置き場となっており、艦載艇は単脚式の後檣の基部に付いた揚収クレーンにより運用された。煙突の後部に機銃座が配置された。後檣の背後から間隔を空けて後部甲板上に2番連装主砲が後ろ向きに1基装備された。

艦歴[編集]

1940年6月10日イタリアによる宣戦布告の後で、本艦は植民地警備艦から、イタリア海軍の戦闘艦の一部としてマッサワで任務に就いた。しかし、イタリア本国へ帰還するためにはスエズ運河を通航するしか無かったが、そこはイギリス海軍により閉鎖されていたため、本艦は同地に留まり続けた。

1941年2月頃には、東アフリカの趨勢は連合国に傾き、マッサワ港に陣取るイタリア海軍紅海艦隊の存在も脅かされ始めた。そのために、本艦は仮装巡洋艦「ラム一世(Ramb I)」と同仮装巡洋艦「ラム二世(Ramb II)」を率いて紅海を脱出し、インド洋を通過して日本に脱出するための航海に出た。本艦は英国の封鎖を潜り抜けて、同年2月20日にインド洋へ出たが、途中モルディブ沖にて先行していた仮装巡洋艦「ラム一世」がイギリス海軍軽巡洋艦リアンダー」により撃沈される損害はあったものの、本艦らはイギリス海軍の哨戒網を潜り抜けて無事に3月に日本神戸港へと辿り着いた。しかし、当時の日本はまだ中立国として振舞っており、本艦は通商護衛任務を大っぴらには出来ず、日本海軍の監視下において神戸に留まり続けた。

しかし、1941年12月の公式宣戦布告の後からは日本政府は公式として本艦に援助を提供し行動の自由を許した。 その後、本艦は連合国潜水艦からイタリア籍の輸送船を保護する任務やインド洋で活動する枢軸国潜水艦の補給・修理任務に就き、ペナンシンガポールと日本を何度も往復した。しかし、1943年9月8日に、イタリアが連合国と休戦を宣言した時、今度は日本が本艦を拿捕する恐れが出てきた。

この時の本艦はイタリア籍の大型商船「カッペリーニ(Cappellini)」号を護衛しており、シンガポールからサバンへ向けて航行中であった。イタリア本国の降伏についての情報はロイター通信により本艦のクルーにより傍受されるに辺り、本艦はサバンを発って降伏するためにセイロン島コロンボに全速力で急行した。日本海軍の追撃を避けてスマトラ沖を通過し、日本海軍航空隊の哨戒網と軽巡洋艦「球磨」の追撃を振り切って9月14日にコロンボに到着し、同地で武装解除を受けた。その後はイタリア本国に帰る事は無く、1947年にイタリア海軍で除籍。1948年2月12日にフランスに戦時賠償艦として引渡され、「フランシス・ガルニエ」と改名される。改名後は親善公開で日本の神戸にも寄港し、1966年にフランス海軍籍で除籍され、最後は太平洋にて航空爆撃標的として沈没させられた。

関連項目[編集]

参考図書[編集]

外部リンク[編集]