エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア
| エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア Emanuele Filiberto di Savoia |
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|---|---|
| サヴォイア=カリニャーノ家 (現・サヴォイア本家) |
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| 続柄 | 王太子嫡男 |
| 全名 | Emanuele Filiberto Umberto Reza Rene Maria エマヌエーレ・フィリベルト・ウンベルト・レザ・レーネ・マリーア |
| 身位 | 旧王族(イタリア王国) |
| 敬称 | ピエモンテ=ヴェネツィア公 Prince of Venice and Piedmont |
| 出生 | 1972年6月22日 スイス連邦ジュネーブ |
| 配偶者 | クロティルド・クロー(女優) |
| 子女 | ヴィットーリア・ディ・サヴォイア ルイーザ・ディ・サヴォイア |
| 父親 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(イタリア王太子、ナポリ公) |
| 母親 | マリナ・リコルフィ・ドーリア(資産家、スキー選手) |
| 役職 | 実業家 王位請求者 |
エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(Emanuele Filiberto di Savoia, 1972年6月22日 - )はサヴォイア家の一員で、現当主の王太子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアの長男。従って祖父はイタリア王国最後の国王ウンベルト2世となり、イタリアの王政廃止に伴うサヴォイア家の国外追放によって祖父と父の亡命地であるスイスのジュネーヴで生まれた[1]。
2002年、法律改正によって父と共に帰国を果たし、ピエモンテ=ヴェネツィア公及びイタリア王太子の爵位・王位請求者として行動している。
目次 |
経歴 [編集]
生い立ち [編集]
スイス連邦ジュネーヴ州ジュネーヴで最後のイタリア王太子ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアと、スキー選手のマリナ・リコルフィ・ドーリアの長男として生まれる。母はスイス人資産家レネ・リコルフィ・ドーリアの子女であったものの貴族ではなく、貴賎結婚であった事から一族の反対を押し切っての結婚と出産となった。他に父ヴィットーリオの逮捕などもあってサヴォイア家はカリニャーノ派とアオスタ派に分かれて内紛状態に陥っている[2]。多くの貴族家はウンベルト2世が廃嫡までしていない以上、サリカ法に基づいて先代君主の長子であるフィリベルトがサヴォイア家当主であると認めている[3]。現在、サヴォイア公の称号使用を巡る裁判が行われている[4]。
フィリベルトは父を支持するカリリャーノ派の当主後継者として十分な教育を受け、ル・ロゼを経てジュネーヴ大学で建築を専攻していた[5]。一時は建築学者としての道を考えたとされるが、卒業後は銀行家として投資業などに従事した[3]。父からはピエモンテ=ヴェネツィア公の称号を分与された。
多様な活動 [編集]
サヴォイア家当主の入国を禁じる法律によって一族の故郷への帰国は許されていなかったが、イタリア国内ではメディアを通じてしばしば姿を見せる機会があり、国内での一般的な知名度は低くない。サッカー好きである事からイタリア国内のサッカー事情についての番組でゲストに呼ばれる事も多い。ファッショナブルな姿でメディアの取材に応えるなど、亡命王族というイメージから想像される堅い雰囲気とはやや異なるライフスタイルで知られている。私生活面でも同じ亡命貴族の界隈からではなく、フランスの女優クロティルド・クローと交際して結婚した。間には現在までにヴィットーリア(Vittoria Cristina Adelaide Chiara Maria di Savoia)と次女ルイーザ(Luisa Giovanna Agata Gavina Bianca Maria di Savoia)の二女を儲けている。
実業家としては自らの投資会社を持ち、収益の一部を「ピエモンテ=ヴェネツィア公爵財団」を通じた文化保護活動や、ギニアでの学校建設などの慈善事業に寄付している。王位請求者としても活発に行動しており、亡命生活を綴った『Sognando L'Italia』(祖国を夢見て)という伝記を執筆したり、イタリア国内の王党派への働きかけなどを行っている。他に航空機パイロットとしての免許を取得しており、ヘリコプター操縦の資格も保有している。
イタリア帰国 [編集]
2002年、反乱の煽動など国家主権の簒奪を求めない事、国内で貴族称号を用いない事、イタリア共和国憲法を承認する事などを条件に半世紀を経てサヴォイア家当主のイタリア帰国を許可する議案が議会で可決された。幼少期に亡命を強いられた父ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアと共に、フィリベルトは初めて一族の故郷に足を踏み入れた。以降、イタリア各地の王党派組織の会合に出席するなどしている。
2007年、フィリベルトはイタリア共和国政府に対して王政廃止時に没収した財産の返還や、国外追放による商業的損失の補償を求める裁判を起こした。総額1億7000万ユーロに及ぶ請求に対して、共和国政府は「国外追放時の法的処理に問題があったのは事実」として一部の支払いを検討するとコメントした[6]。2009年、イタリア中道連合は欧州議会候補としてフィリベルトの出馬を計画したが、議席獲得はならなかった[7]。2010年、サンレモ音楽祭に出場した事で大きな話題を集めた。祖国への望郷を込めた歌を披露すると君主制への拒否感を持つ層からは強いバッシングを受けた一方、視聴者からは支持票が集まり、最終的には2位に選出されている。
家系 [編集]
- 曽祖父:ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(第3代イタリア王)
- 曾祖母:エレナ・デル・モンテネグロ(モンテネグロ王女)
- 祖父:ウンベルト2世(第4代イタリア王)
- 祖母:マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(ベルギー王女)
- 父:ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(イタリア王太子)
- 母:マリナ・リコルフィ・ドーリア(モデル、スキー選手)
- 妻:クロティルド・クロー(女優)
- 長女:ヴィットーリア・ディ・サヴォイア
- 次女:ルイーザ・ディ・サヴォイア
称号 [編集]
請求権 [編集]
エマヌエーレ・フィリベルトはサリカ法に基づいたサヴォイア家の長子相続法により、サヴォイア家の家長及び一族の請求権の全てを引き継ぐ立場にある[3]。イタリアの王党派はフィリベルトをイタリア王太子及びピエモンテ=ヴェネツィア公の請求者として認めているが、先に述べた一族内の内紛によりクロアチア王及びアオスタ公の請求者であるアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタとその子息であるプッリャ公の請求者アイモーネ・ディ・サヴォイア=アオスタがサヴォイア家の家長権を請求している。アメデーオはウンベルト2世が貴賎結婚に反対していた事を理由に家長権の移動を主張[2]、自身が正式な当主としてディ・サヴォイアを自称した。
2006年、両者の間で正式に裁判が行われ、共和政下におけるイタリア法の爵位継承に関する見解が注目されていた。2010年、アレッツォ裁判所はエマヌエーレ・フィリベルト側の全面勝訴の判決を下し、アメデーオ・ディ・サヴォイアとアイモーネ・ディ・サヴォイアに対してはサヴォイア家当主(ディ・サヴォイア)を名乗る事を禁止した上で、賠償金5000ユーロの支払いが命じられた。敗訴によりアオスタ家はディ・サヴォイアを氏名として使用できなくなり、自称は再びディ・サヴォイア=アオスタに戻されている[8]。2011年、アオスタ家は判決を不服として上訴した[9]。
称号一覧 [編集]
爵位 [編集]
- イタリア王太子(請求権)
- ピエモンテ=ヴェネツィア公(請求権)
騎士団 [編集]
出典 [編集]
- ^ C.E.D.R.E. Les Manuscrits du C.E.D.R.E.: Le Royaume d'Italie, volume I. Paris, 1992, pp. 89-93. French. ISSN 0993-3964.
- ^ a b Enache, Nicolas. La Descendance de Marie-Therese de Habsburg. ICC, Paris, 1996. p.213
- ^ a b c Enache, Nicolas. La Descendance de Marie-Therese de Habsburg. ICC, Paris, 1996. p.204
- ^ Vincent Meylan (2008-05-21). “Duc d'Aoste ou Duc de Savoie?”. Point de Vue: 79.
- ^ Biografia ufficiale di Emanuele Filiberto
- ^ Phil Stewart, Reuters (2007年11月21日). “Fallen savoy royals seek damages over Italy exile”. 2008年10月6日閲覧。
- ^ “Italian king's grandson waltzes back into politics”. The Guardian. (2009年4月29日) 2009年5月2日閲覧。
- ^ “LE LL.AA.RR. I PRINCIPI VITTORIO EMANUELE ED EMANUELE FILIBERTO DI SAVOIA VINCONO LA CAUSA CONTRO AMEDEO D'AOSTA”. Royal House of Savoy. 2011年4月13日閲覧。
- ^ “Savoia sì o no? Giurista 'boccia' sentenza che vieta il cognome ad Amedeo”. Tuttosport. 2011年4月13日閲覧。
- ^ Nomination by Sovereign Ordonnance n° 15703 of 1st March 2003 (French)