エドワード・シェルドン

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エドワード・オースティン・シェルドン(Edward Austin Sheldon, 1823年1897年)はアメリカ合衆国教育者。ニューヨーク州オスウィーゴー市のオスウィーゴー師範学校(1866年市立から州立に移管)長として、1861年から彼の死の1897年まで約40年間、教育界に在職した。同校を中心として展開されたペスタロッチ教育運動であるオスウィーゴー運動の主唱者。アメリカにペスタロッチ主義教育の実物教授を導入、普及に尽力し、公立小学校の求める近代教授法を修得した教員の養成に貢献した。また無償教育の普及に尽力した。

生立ち~青年期[編集]

シェルドンは、1823年10月4日、ニュ-ヨーク州ジェネシー郡のペリーセンター(Perry Center)の農家に、ニューイングランド出身の敬虔な清教徒を両親[1]として生まれた。当時の人たちが皆そうであったように、シェルドンもまた学区学校で学び、17歳の時、ペリーセンターに私立アカデミーが開設されたので、同校に入学しギリシャ語、ラテン語、代数、幾何等を学んだ。シェルドンは大学進学を志してその準備教育を受け、4年後(1844年秋)の21歳の時に、法律を学ぶためにハミルトン・カレッジ(Hamilton College.)に入学した。同校3年の時、健康を害して中途退学した。

彼の性来好きな園芸で身を立てようと決心し、1847年9月ニューヨーク州オスウィーゴーで種苗園経営に参加した。この事業参加にあたって、シェルドンの父は、シェルドンに500ドルを与えて、彼の門出を祝福したといわれている。しかし、発足後3ヶ月足らずで倒産した。当時の彼の苦悩が日記に記されている[2]。さらに関係していた商社が倒産し、シェルドンは経済的に全く行き詰まった[3]

敬虔なシェルドンは、オスウィーゴー来往以来、教会の日曜学校に出かけて自発的にその運営に協力していた。この教会での協力が、シェルドンの失職を契機として、オスウィーゴーの貧民層の子弟や、孤児に関心を払わせる結果になるのである。伝道者的精神に富む彼は、100人余の無知な貧困児とその家庭を訪問するにつれて、しばしば生活必需品にすらこと欠いている実態を知り、子どもの無知と貧困とに深い同情を寄せることになるのである[4]。貧困児の悲惨な実態を知るにおよび、当時、24歳であったシェルドンは、彼らに対する単なる同情心の域を越えて、この子どもたちに何かなさざるを得ない動機にかきたてられたのであった。シェルドンは熟慮した。その結論として、貧困児の生活状態を改善するには、無償教育(free education)と保護(care)が、彼らに与えられねばならないと確信するに至ったのである。

シェルドンは友人エイムズ(Ames)やスミス(Smith, Douglass)と共にオウィーゴーの教会関係者や博愛的な市民の賛同と経済的援助を得ることに成功し、翌年「孤児および無償学校協会」(Orphan and Free School Association)を設立し、協会設立の孤児及び無償学校は、1849年1月14日に正式に開校された。シェルドンは貧民学校(ragged school) の教師となって無償学校運動を開始した。しかしこの教育事業も挫折した。協会の援助も乏しくなり、遂に閉校の止むなきに至った。彼は限られた市民の、しかもその一部の慈善的慈恵的行為によって維持される学校事業の末路を、身をもって体験したのであった。その結果貧民学校の閉校後は、公立学校無償化の実現に全力を傾倒するようになるのである。

業績[編集]

1849年5月、シェルドンはシラキュースの学校教師であったスタイルズ(Stiles Frances A. B)嬢を良き伴侶として迎えた。その後、5人の子供を授かった。年収300ドルの生活に加えて、負債700ドルを抱え込んだ生活は苦しかった。然し倦むことなき教育への情熱は、彼をして孤児院の設立と、無償学校の組織化に向かわしめたのである。1851年から1853年にかけて、シラキュースの教育長として年俸600ドル、視察旅費50ドル計650ドルの給与で2年間在任した。その間、シェルドンは単級小学校の学年別編成、公立図書館と学校図書館の設置、年報の発刊、ハイ・スクールの有用性の啓蒙、夜間学校の開設、多くの校舎、運動場の改善、教師集団と教育委員会との信頼、協調関係の樹立など、[5]幾多の教育改革を断行した。その結果、シラキュースの教育は一新された観を呈した。

このようなシェルドンの業績と共に、かってのオスウィーゴーの献身的努力が認められ、オスウィーゴー初代教育長として、年俸800ドルをもって迎えられた。シェルドンは全生涯を教育に捧げるべく希望と抱負に燃えて、1853年5月オスウィーゴーに帰任した[6]。同市がシェルドンを教育長に招聘した背後には、シェルドンの「孤児及び無償学校協会」の設立とその学校に対する献身、さらに無償学校運動の展開が有力な素地となって、オスウィーゴーの無償学校に関する法案は、1852年の冬から53年の初頭にかけて、州議会を通過し、オスウィーゴー市が教育委員会を設立したからであった。 教育長シェルドンは、学区制の統合、学校制度の改革、教育課程の改善などの教育改革を行い顕著な業績をあげた。 1859年訪れたカナダのトロント博物館でペスタロッチ主義の出版物と、長年渇望していた教具に接した。この教具は、イギリスのペスタロッチ主義者メイヨー(Mayo, E.)[7]が学校長であるロンドンの「本国および植民地教員養成学校」(Home and Colonial Training School)で使用されている実物教授の教具であった。

シェルドンは、この教具から教授法改革の端緒を得、新大陸発見にも似た喜びをもって、トロントおよびロンドンから多数の教具を購入し、管内の学校の教育課程と教授法の改善を図ろうとした。しかし多くの障害に遭遇した。その解決策として、中でも特に重要な改革として教員資質の向上を目指し、1861年に設立したのが市立教員養成学校(city training school) である。同校初代の学校長にはロンドンからジョーンズ(Jones,Margaret. E. M) を迎え、ペスタロッチ主義に基づく実物教授の指導に当たらせた。シェルドンは現職のまま同校第1回生として入学、ジョーンズの下で新教授法の指導を受けた。 翌年、ジョーンズの帰国に伴い教員養成学校長に就任。ジョーンズの実物教授をさらに継承・発展させるため、1862年クリュージィ(Krüsi,H.Jr.)[8]をランカスターから招き、実物教授推進の任に当てた。シェルドンを中心とする学校当局の努力は、1866年に市立から州立師範学校への昇格、教育課程の拡充整備と付属学校の新設、および教授団の充実に伴う生徒数の飛躍的増大となって実現した。

シェルドンは、実物教授を根幹とする教授原理を体系的に組織化することによって、初等教育を変革し特に師範学校における教師教育の刷新に大きな影響を与えた。このように同師範学校を拠点として展開されたペスタロッチ教育運動はアメリカ教育史上、オスウィーゴー運動と呼ばれた。シェルドンは、74歳で死亡するまで州立師範学校長として、およそ40年の長きにわたって教育界にその名を馳せた。

シェルドンによって推進された実物教授は、アメリカの公立小学校の教授法の変革に重要な役割をはたし、しかも基本的には公立小学校の求める近代教授法を修得した教員の需要に適応したのであった。ホリス(Hollis, A. P)[9]も叙述しているように、公教育に直接連なるオスウィーゴー校こそ、模範的な教員養成校として「教育者にとって一種のメッカ」[10]となり、「師範学校や師範教授法の母」[11]となったのである。 シェルドンの娘メアリーは、スタンフォード大学の歴史の教授になり、歴史の教育法の開発で有名になった。彼女の手により、シェルドンの日記や書簡、手記等が編集され「シェルドン自叙伝」として、彼女の死後、1911年に出版された。

著作[編集]

  • シェルドン,E.A「一組の読み方発音図表」 (Set of Phonic Reading Charts,1862)
  • シェルドン,E.A「初等教授の手引き」 (Manual of Elementary Instruction,1862)
  • シェルドン,E.A「実物教授」 (Lessons on Object,1863)
  • シェルドン,E.A「シェルドン読本(教師の手引き)」 (Sheldon's Readers,1874)

参考文献[編集]

  • 村山英雄「オスウィーゴー運動の研究」風間書房,1978
  • Sheldon,E, A.Lesson on Objects,Scribner、1863;永田健助・関藤成緒共訳「塞児敦氏 庶物指教」上下、文部省、1878
  • Sheldon,E.A.,A Manual of Elementary Instruction, Scribner,1862
  • Barnes, Mary Sheldon, ed. 1911. The Autobiography of Edward Austin Sheldon. New York: Ives-Butler.
  • Hollis, Andrew Phillip. 1898. The Contribution of the Oswego Normal School to Educational *Progress in the United States. Boston: Heath.

脚注[編集]

  1. ^ シェルドンの父は、青年時代冬期に農業の片手間、近隣の学校で教鞭をとった経験があり、母も教養のある婦人で、近郷の子女に読み方や裁縫などを農閑期に教えている。とくに母は賢婦の誉れ高く、安息日のバイブル・クラスは、彼女が90歳に達するまで熱心に開講したといわれ、96歳で他界した。 幼少時代のシェルドンは、植物に興味をもっていたせいもあって、当時の劣悪な条件下の学区学校に出席するのを嫌い、いわゆる怠学の傾向があった。シェルドンの父は再三にわたって「エドワードよ、お前が成人した時に、学校を怠けたことをいつも後悔するだろうよ」といって諌めたといわれる。 From Barnes, Mary Sheldon ed; Autobiography of Edward Austin Sheldon, 1911. pp.1-8. and p23.
  2. ^ 1947年12月3日のシェルドンの日記には「……私の肩に重い負債がおしかかって居る。私は何をなすべきかという事態に直面して解決する方途をしらない……」さらに同月4日の日記には「……全く八方ふさがりで憂鬱このうえもない」 From Dialy of E. A. Sheldon, East Oswego, 1847. quoted in Barnes, M. S. ed; op. cit. supra p. 71.
  3. ^ Barnes, M. S. ed ; ibid. pp. 68-69.
  4. ^ Derborn, N. H ; The Oswego Movement in American Education, 1925. p. 2. and Aber, William. M ; The Oswego State Normal School, in the Popular Science Monthly, Vol XL Ⅲ. No.1. May, 1983. p. 51.
  5. ^ Barnes, Mary. Sheldon (ed); op. cit. supra. pp. 92-93.
  6. ^ Barnes,M.S ; Biographical Sketch of E. A. Sheldon, quoted in Historical Sketches Relating to the First Quarter Century of the State Normal and Training School at Oswego, p. 138.
  7. ^ Mayo Elizabeth (1793-1865)、Mayo, Charles (1792-1846)の妹
  8. ^ Krüsi,Herman.Sr.(1775-1844)の子息Krüsi,Herman.Jr.である。
  9. ^ Hollis, Andrew Phillip.(生没年不詳)はアメリカ合衆国の教育史家、“The Contribution of the Oswego Normal School to Educational Progress in the United States,”1898. Boston: Heath.の著者。
  10. ^ Hollis, A. P; The Contribution of the Oswego Normal School to Educational Progress in the United States,1898. p. 23.
  11. ^ Hollis, A. P. op.cit.supra. p. 17.

外部リンク[編集]

  • Oswego College, New York. "College History." [1]