エストニアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

エストニアの歴史ではバルト三国の一つ、エストニアの歴史について記述する。

近代まで[編集]

現在のエストニアにあたる土地には紀元前500年頃にはエストニア族(ウラル語族)と呼ばれる民族集団が居住していた。しかし、東方から到来した東スラヴ人混血し、さらにはヴァイキングヴァリャーグ)の襲来によってノルマン人とも混血が進み、10世紀までにはいまのエストニア民族が形成されていった。

13世紀に入るとドイツ騎士団バルト海沿岸に進出し、デンマーク王国の協力を得てこの地を征服し、エストニア人をキリスト教化した。デンマークの支配のもとタリンハンザ同盟に加盟し、海上交易で栄えた。タリンとは、デーン人都市と言う意味である。1520年代、ドイツのマルティン・ルター宗教改革がエストニアに及ぶようになった。

その後はバルト海の要衝としてポーランド王国の支配を受け、さらにスウェーデンがこれを退け、新たな支配者となった。1560年代から1711年までを「バルト帝国」時代と後年呼ばれる様になっている(1561年エストニア公国建国。1721年ニスタット条約で解体)。 結局大北方戦争の結果、1712年にはロシア帝国がこのエストニアを獲得。以後、「南下政策」を標榜するロシアにとっては重要な「バルト海の窓」となった。19世紀にはアレクサンドル3世のもと「ロシア化」が推し進められた。

ロシア革命以後[編集]

1917年ロシア革命が勃発すると、エストニアは独立を宣言。1920年にはレーニンの「5月テーゼ」に基づきソ連は独立を承認した。また、第一次世界大戦後、自らが掲げた「民族自決」の原理に従い、国際社会も独立を承認した。

ソ連による独立承認後は政局が不安定で、Vaps運動が反政府活動を行い、国家の緊急事態が宣言されて弾圧された。

ソ連によるバルト三国占領概観[編集]

1939年第二次世界大戦が勃発すると、「独ソ不可侵条約」及びその「秘密議定書」に基づき、ドイツとソ連がポーランドに侵攻した。領土的野心のあったスターリンはエストニア、ラトビアリトアニアのいわゆる「バルト三国」に食指を動かし、翌年6月に外相モロトフを派遣し、新政府樹立の最後通牒を突きつけた。ドイツからの支援も受けられないエストニアは他の2国とともに1940年6月17日にソ連軍の進駐および新政府の樹立を以って、ソ連に編入され、多数の住民が逮捕或いはシベリア送りにされた。独ソ戦に対しては進攻するドイツ軍を歓迎した者もおり、武装親衛隊の支援によるソ連へのゲリラ活動(森の兄弟)を行い、ソ連側もエストニア人部隊を送るなど代理戦争で混乱を極めた。

ソ連のエストニア占領[編集]

1940年6月、エストニア共和国はソ連によって占領された[1][2][3]

1939年9月24日、赤軍の海軍軍艦がエストニアの港沖に現れ、ソ連爆撃機がタリンとその近郊上空で威嚇飛行を始めた[4]。ソ連政府の要求はヨーロッパの戦争の期間、エストニアがその領土にソ連の軍事基地建設と2万5千人の部隊の駐留を認める協定を承諾することだった[5]。エストニア政府は最後通告を受入れ、1939年9月28日関連する協定に調印した。

1940年6月12日、ソ連バルト海艦隊によるエストニアの完全な軍事封鎖の命令が出された[6][7]

1940年6月14日、世界の注目が前日のナチス・ドイツによるパリ陥落に集中する間に、ソ連によるエストニアの軍事封鎖が実施され、タリンリガヘルシンキに置かれたアメリカ公使館からの外交文書を運んでいたタリン発ヘルシンキ行のフィンランド旅客機「カレヴァ(Kaleva)」は2機のソ連爆撃機に撃墜された。アメリカの外務部事務員ヘンリー・W・アンタイル・ジュニア(Henry W. Antheil, Jr.)はその墜落によって死亡した[8]

1940年6月16日、ソ連邦はエストニアに侵攻した[9]モロトフはバルト海の国々のソ連に対する陰謀を非難し、ソビエトが承認する政府の設立を求めた最後通告をエストニアに届けた。

国境と国内の両方で圧倒的なソ連の軍隊がある状態の中、流血や戦争を回避するため抵抗しないことをエストニア政府は決定した[10]。エストニアは最後通告を受け入れ、6月17日エストニアにある赤軍の軍事基地から赤軍が出動した時に国家としてのエストニアは事実上存在しなくなった。翌日にはさらに約9万人の軍隊が国に入った。ソ連軍に支援された共産主義者のクーデターによりエストニア共和国の軍事占領は「正式」なものになり[11]、続いて共産主義者寄り以外の候補者が非合法化された中で「議会選挙」が行われた。そのように選出された「議会」は1940年7月21日エストニアを社会主義共和国と宣言し、エストニアがソ連に「加入」することを満場一致で要求した。エストニアをソ連に併合するという「政治的義務」である投票ができなかった人々は、その投票行為のせいで彼らのパスポートに検印のスタンプを得ることに失敗し、ソビエト裁判所は彼らの後頭部を撃つことを許した[12]。8月6日、エストニアは正式にソ連に併合され、エストニア・ソビエト社会主義共和国に名称が変更された[13]。エストニアの1940年の占領とソ連への併合はイギリス、アメリカ、及び他の西側民主主義国家には違法であり、決して正式に承認されることはないものだった[14]

ソビエト当局はエストニア全ての支配権を得て、直ちに恐怖の体制を強要した。ソビエト占領(1940~1941)の最初の年に、国の指導的政治家と将校のほとんどを含めた8000人が逮捕された。逮捕された内の2200人がエストニアで処刑され、他の大部分はロシアの収容所に移され、後にそこから生きて帰れたものはほとんどいなかった。1941年6月14日、バルト三国で一斉に大規模な国外追放が行われ、約1万人のエストニア市民がシベリアなどのソ連国内の遠い土地に追放され、そこで彼らの半分近くは後に亡くなっている。遠くトルキスタン・シベリア鉄道などの工事に動員されたのも強制連行されたエストニア人たちである。1941年のドイツのソ連への侵攻後、ソ連軍に動員の名目でロシアに強制移動された3万2100人のエストニア人男性の40%近くが飢え、寒さ、更に過酷な労働で「労働大隊」と呼ばれる状態の中で翌年の内に亡くなった。1940年から1941年であった最初のソ連占領期には約500人のユダヤ人がシベリアに送られた。エストニア人の墓地と記念碑は破壊された。他方、1918年から1944年の墓石の多くを有したタリン戦没墓地がソビエト当局に破壊され、この墓地は赤軍に使用されることとなった[15]。他にも1774年に設立されたバルト・ドイツ人の墓地(Kopli cemeteryMõigu cemetery)と最も古い16世紀に設立された墓地(Kalamaja)もエストニアのソビエト時代に当局に破壊された墓地の中のものであった。

合衆国を含めた多くの国は、ソ連によるエストニアの奪取を認めなかった。そのような国々は、エストニア旧政府の名の下で活動を続けていたエストニアの外交官と領事を正当な存在と認めていた。これらの熟練した外交官はバルト独立の最終的な回復までこの異常な状況の中で存在し続けた。

Ernst Jaaksonは合衆国に対して最も長期間勤めた外交の代表であり、1934年からは副領事、1965年からエストニアの独立が再達成されるまでは合衆国のエストニア公使館の総領事であった。1991年11月25日、彼はアメリカ合衆国に対しエストニア大使として信任状を捧呈した[16]

第二次世界大戦以降[編集]

1989年からエストニアの市民のための登録カード

第二次世界大戦後はソ連に再併合され、ソ連の15の共和国の一つとなる。農村集団農場化政策が推進され、「裕福な自作農」(クラーク)や反体制派と見なされた人間が強制連行されてシベリアに追放されると共に、ロシア人などの非エストニア人が他の共和国から多数エストニアに流入した。

時代は下ってソ連にゴルバチョフが登場して、ペレストロイカ政策を推進すると、自由化の空気がエストニアにもおよび1988年には独立を目的とするエストニア人民戦線が設立される。さらに「ベルリンの壁崩壊」に象徴される東欧の民主化の波はエストニアはじめバルト3国にも波及し、1989年8月23日にはタリンリガヴィリニュスを「人間の鎖」で結ぶ運動に100万人が参加、独立回復への気運は抑えがたいものになった。翌1990年5月12日にはタリンでバルト3国の首脳が集まり、3国はソ連編入前に存在した「3カ国会議」の復活を宣言。事実上の独立回復宣言となった。しかし、ソ連ゴルバチョフ大統領はそれを無効とした。1991年のソ連での連邦維持の投票はボイコット。8月19日の共産党保守派のクーデターを原因したソ連の体制の動揺直後の9月6日にはソ連が独立回復を承認。さらに国連に加盟。名実ともに独立した(歌う革命)。

その後1994年ロシア軍の撤退を受け西欧諸国との関係を強め、2004年には北大西洋条約機構欧州連合にそれぞれ加盟した。なおエストニアは、フィンランドとの関係から、北欧を重視し、北欧理事会への参画を試みたが、理事会側から参画を断られている。2005年からは、ポーランド空軍がエストニアを含むバルト三国の領空防衛を委任されている(北大西洋条約機構によるバルト三国の領空警備)。

2007年4月27日、エストニア国会の決議で首都タリン中心部にあった第二次世界大戦記念の旧ソビエト軍兵士像(青銅の兵士、タリン解放記念碑)を撤去することになったが、これに反対するロシア系住民と警官隊が衝突して一名死亡、三百名逮捕という事態になった。これを機にロシアでも反エストニアの運動が起こり、両国関係は悪化している。

脚注[編集]

  1. ^ The World Book Encyclopedia ISBN 0-7166-0103-6
  2. ^ The History of the Baltic States by Kevin O'Connor ISBN 0-313-32355-0
  3. ^ Estonian Ministry of Foreign Affairs: Molotovi-Ribbentropi pakt ja selle tagajärjed
  4. ^ Moscow's Week at Time Magazine on Monday, Oct. 09, 1939
  5. ^ The Baltic States: Estonia, Latvia and Lithuania by David J. Smith, Page 24, ISBN 0-415-28580-1
  6. ^ (フィンランド語) Pavel Petrov at Finnish Defence Forces home page
  7. ^ (ロシア語) documents published from the State Archive of the Russian Navy
  8. ^ The Last Flight from Tallinn at American Foreign Service Association
  9. ^ Five Years of Dates at Time magazine on Monday, Jun. 24, 1940
  10. ^ The Baltic States: Estonia, Latvia and Lithuania by David J. Smith p.19 ISBN 0-415-28580-1
  11. ^ Estonia: Identity and Independence by Jean-Jacques Subrenat, David Cousins, Alexander Harding, Richard C. Waterhouse ISBN 90-420-0890-3
  12. ^ Justice in The Balticat Time magazine on Monday, Aug. 19, 1940
  13. ^ Magnus Ilmjärv Hääletu alistumine, (Silent Submission), Tallinn, Argo, 2004, ISBN 9949-415-04-7
  14. ^ See, for instance, position expressed by European Parliament, which condemned "the fact that the occupation of these formerly independent and neutral States by the Soviet Union occurred in 1940 following the Molotov/Ribbentrop pact, and continues." European Parliament (January 13, 1983). “Resolution on the situation in Estonia, Latvia, Lithuania”. Official Journal of the European Communities C 42/78. http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/8/80/Europarliament13011983.jpg. 
  15. ^ Linda Soomre Memorial Plaque at britishembassy.gov.uk
  16. ^ Diplomats Without a Country: Baltic Diplomacy, International Law, and the Cold War by James T. McHugh , James S. Pacy ISBN 0-313-31878-6


Northern-Europe-map-extended.png この「エストニアの歴史」は、北ヨーロッパに関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めていますウィキプロジェクト 北ヨーロッパ / Portal:ヨーロッパ