エジプト鉄道

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エジプト鉄道 (Egyptian National Railways, ENR)エジプト国有鉄道で、公社形態のエジプト鉄道機関 (Egyptian Railway Authority, ERA) によって運営されている。

歴史[編集]

オスマン帝国[編集]

1833年、ムハンマド・アリーパシャは、ヨーロッパインドの間の輸送を改善するためにスエズカイロの間に鉄道を建設することを考えた。彼は運河建設に興味を持つフランスの圧力で中止した鉄道を買い取った。

1848年に彼は亡くなった。

1851年に彼の後継者であるアッバース・パシャはエジプト初の標準軌鉄道を造る為にロバート・スチーブンソンに連絡した。

1854年に第一期のナイルデルタ上のアレクサンドリア地中海沿岸のカフル・イッサ間が開業した。これはオスマン帝国にとってアフリカでも中東でも初の鉄道だった。同年アッバース・パシャは亡くなった。

1856年に後継者のサイード・パシャによってアレクサンドリア~カイロ間が全通した。

1858年にはカイロとスエズ間が開通した。カイロとアレクサンドリアの間のカフル・イッサでは、元々鉄道を24mの鉄道輸送船に乗せてナイル川を越えていた。しかし、1858年5月15日にサイードの推定相続人であるアフマド・リファート・パシャを乗せた特別列車が船から落ち、皇太子は溺死した。その為スチーブンソンは鉄道輸送船を500mの架道橋に置き換えた。

1860年のサイードの統治終了までに、ナイル川上のディムヤート支線のバンハザガジグ間が完成した。サイードの後継者であるイスマイール・パシャはエジプトの近代化と鉄道開発の推進に励んだ。

1861年には支線がミト・ベラに達した。

1862年文久2年文久遣欧使節紅海を経てスエズの地峡を蒸気車で越え地中海を渡りマルセイユに着く。[1][2]

1863年にはタンタタルハまで開通した。

1865年には支線がナイルデルタ上のディスークに達した。また、カイロからタルハへの第二路線が開通したことで、カイロからザガジグへ直行出来るようになった。

1866年には支線はタンタから南進しシビーン・コームに達した。

1867年にカイロの近くのインババミンヤ間が開通すると、輸送網はナイル川西岸を南進し始めた。

1868年にファイユームへの短い支線が造られた。同年ニフィシャ経由でザガジグとスエズを結ぶ路線が開通した。

1869年にフェルディナン・ド・レセップススエズ運河を完成させ、これによって地中海とインド洋の間の近代輸送網が完成した。同年、タルハ線は地中海沿岸のディムヤートまで延長した。また、サルヒヤサマーアナ間の支線も開通した。

1870年にはミンヤからマッラウィまでの南進線が開通した。

1872年にはカフル・イッサの西の乗換駅とインババを繋ぐ事で、インババが国内交通網に組み込まれた。また、カイロから南のトゥラまで開通した。

1874年にはマッラウィからアシュートまで開通した。また、ナイル川西岸のナジー・ハッマディから東岸のアスワンまで開通した。

1875年にはトゥラからヘルワンまで開通した。同年ナイルデルタ上では短い支線がカフル・エル・シェイクまで開通した。

1876年には地中海沿岸の路線とアレクサンドリアへの連結が完了した。

1877年までにエジプトは主要路線と緊密なナイルデルタ路線群を有していた。しかしこの鉄道敷設や他の開発によって、イスマイールは国を大赤字にしていた。最初の25年間は、エジプト国有鉄道は毎年報告書を作ることすら出来なかった。同年、エジプト人、イギリス人、フランス人による行政委員会は鉄道問題を整理する事に合意した。同年から1888年にかけてエジプト鉄道は基本的な維持にすら苦戦した。

1879年には初の年間報告書が出された。同年にイギリス政府はイスマイール・パシャを罷免し、息子のテウウィク・パシャを任命した。

英国の保護国化[編集]

1882年には、イギリスは本格的にエジプトに侵攻、占領した。

1883年にエジプト鉄道は機械技師主任のフランシス・トレヴィシックの甥のフレデリック・ハーヴェイ・トレヴィシックを指名した。トレヴィシックは246馬力の異質なエンジンを見出した。これはイングランドやスコットランド、フランス、アメリカの数多くの技師によって造られた。この動力や素材の標準化の失敗は動力維持と鉄道管理全体を複雑にした。

1887年までには、トレヴィシックは85もの機関車やボイラー、シリンダーを何とか一新した。

1888年までこれらの開発によってエジプト鉄道の運営は停滞した。しかしそれによって運営はより整理された。同年までにエジプト鉄道は路線網を広げられる状態まで改善した。

1889年から彼は基本的な4種類の機関車を1種類に統一した。これによって維持費用を下げられると彼は考えた。

1890年にはカイロとトゥラの間に第二路線が開通した。

1891年には北方でダマンフールとディスーク間が開通した。

1892年5月15日にはインババ橋がナイル川に架けられ、カイロと西岸の南の路線を繋いだ。ここではグスタフ・エッフェルが土木技師を務めた。同年カイロの主要駅であるミスル駅が改築された。また、南路線はアシュートからギルガまで延長された。

1896年にはギルガからナグ・ハッマディまで開通した。同年シビーン・コームからミヌフアシュムまで開通した。これにより、ナイルデルタを横断するタルハからディムヤートまでの路線がビヤラに達した。

1897年にはナグ・ハッマディからケナまで開通した。

1898年にはルクソールアスワンまで開通した。鉄道完成に伴い、同年第一アスワンダムとアシュートダムの工事が始まった。この計画の主要部分は1890年に政府によって作られており、エジプトの灌漑農業や輸出能力、ヨーロッパの債権者への支払い能力の向上を目指していた。同年までにはナイルデルタ線はカフル・エル・シェイクまで達し、ディムヤートからアレクサンドリアに直行出来るようになった。

1904年には重要な延長であるスエズ運河西岸のニフィシャからイスマイリアの間が開通し、アル・カンタラーの西とポートサイドが結ばれた。その後路線網の拡大は減速した。

1911年にはカイロ北方線が開通した。

英国の正式な保護国に[編集]

1914年にはザガジグとジフタ間が開通した。イギリス及びフランス両国の支援を受けて、第一次世界大戦前には総延長3000kmに達するなど、鉄道網は急速に発達した。

1916年にはアル・カンタラーと東のパレスチナレバノンを結ぶパレスチナ鉄道が造られ始めた。これは2回の世界大戦の間に3回に分けて造られた。これはパレスチナとの国境のラファフまで延長され、エジプトの遠征能力の高さを強調した。また、オスマン帝国に抵抗するパレスチナの応援にも用いられた。

1918年4月に最初のエル・フェルダン鉄道橋がパレスチナ軍用鉄道のためにスエズ運河を越えた。これは船舶交通の妨げになると考えられ、第一次世界大戦後撤去された。

第一次世界大戦後、ラファフまでの路線はイギリス委任統治領パレスチナハイファまで伸ばされた。

エジプト王国 [編集]

1924年にはインババ橋はカイロからナイル川を越える唯一の橋ということで改築された。

1942年、即ち第二次世界大戦中に鋼の旋回橋が造られた。同年までに、ハイファまでの路線はレバノンのトリポリまで伸ばされ、エジプトへの戦時供給の大動脈となった。

1946~1948年にイスラエル独立戦争、1948年以降に第一次中東戦争が起きた。

1947年にインババ橋は蒸気船に傷つけられ撤去された。

1949年の休戦協定線でパレスチナ鉄道の主要線は分断された。

エジプト革命(1952)[編集]

1954年にスエズ運河に2つの旋回橋が造られた。

1956年のイスラエルの侵攻でシナイの鉄道網は3回目の大打撃を受けた。イスラエルは1台の4211級0-6-0ディーゼル転用機関車と5台の545級2-6-0蒸気機関車を鹵獲した。また、1893年製6輪車両と1950年製30t蒸気クレーン車も鹵獲した。両方イスラエル鉄道が艦隊の修理に用いた。

1957年3月にシナイからの撤退を強要されるまで、イスラエルは機械的に鉄道を含むインフラを破壊した。

1963年にスエズ運河に代わりの橋が完成した。同年、シナイの鉄道はエジプト本土の鉄道と再結合されたが、イスラエルとは繋げなかった。

1967年に代わりの橋も第三次中東戦争で破壊された。同年イスラエルはシナイへの侵攻で、EMD G8を1台、EMD G12を4台、EMD G16ディーゼル機関車を3台鹵獲した。それらは全てイスラエル鉄道の所有物になった。その後イスラエルは再度占領中のシナイの鉄道網を破壊し、その資材はスエズ運河東岸の要塞化に用いられた。エジプトから鹵獲した車両等は全てハイファのイスラエル鉄道博物館に所蔵されている。

2001年に新しい2つの旋回橋が造られ、世界最大の旋回橋とされている。

運営[編集]

2005年現在、エジプト鉄道は5,063キロの標準軌路線を運行している。2003/2004年度は、年間約4億1,800万人(国内の人員総輸送量の約39%)の旅客と、約1,200万トン(国内の貨物総輸送量の約9%)の貨物を輸送した。[3]

鉄道網はほとんどナイルデルタに集中し、カイロから放射状に伸びている。また地中海岸を西進してリビアに至る路線も、第二次世界大戦中に開通している。カイロからはナイル川の東岸に沿って、幹線がアスワンに至っている。隣国のイスラエルも同様の標準軌鉄道だが、現在は接続されていない。南隣のスーダンは狭軌鉄道があり、アスワンダムを船便で移動し、接続することができる。

旅客列車[編集]

エジプト鉄道は、同国の旅客輸送で重要な役割を占めている。通常、冷房車両は1等車か2等車、非冷房車両は2等車か3等車である。特に3等車、通勤列車の運賃は、社会政策上、低廉に設定されている。

アレクサンドリア~カイロ~アスワン間には、冷房付の寝台列車が毎日運行されており、特に旅行者に人気がある。

またアレクサンドリア~カイロ間には、ガスタービンエンジンを動力とする、フランスからの輸入車輌による高速列車「ターボトレイン」も運行されている。

課題[編集]

2002年に列車火災事故(死者373人)、2006年の列車衝突事故(死者58人)などをはじめとする重大事故が多発しており、安全性の確保、施設の整備維持が課題となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 福澤諭吉年譜”. 慶應義塾>慶應義塾を知る・楽しむ > 福澤諭吉年譜. 慶應義塾. 2014年12月17日閲覧。
  2. ^ 日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史. 年表』(1997.12)”. 渋沢社史データベース. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2014年12月17日閲覧。
  3. ^ エジプト運輸事情(2006年9月、財団法人運輸政策研究機構)

外部リンク[編集]