エイバル
| 州 | バスク州 |
|---|---|
| 県 | ギプスコア県 |
| 面積 | 24.78km² |
| 標高 | 121m |
| 人口 | 27,419人(2009年) |
| 人口密度 | 1106.5人/km² |
| 住民の呼称 | eibarrés, sa |
北緯43度11分00秒 西経2度28分00秒 / 北緯43.18333度 西経2.46667度 |
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エイバル (バスク語:Eibar、スペイン語:Éibar)は、スペイン、バスク州、ギプスコア県の都市。
目次 |
地理 [編集]
エイバルはデバ川盆地にあり、ビスカヤ県と接している。エゴ川に面しており、アラーテ、アコンディア、ウルコなど山地に周囲を囲まれている。
社会 [編集]
産業と労働は、エイバル住民が常に誇りとしている。産業とは、歴史的に武器製造である。このために別称でシウダー・アルメラ(Ciudad Armera、鉄砲工の都市)と呼ばれている。
エイバルの武器製造に触れている最古の文献は1481年のものである。それ以前から、鉄の製造は地域の重要な経済活動であった。近接するプラセンシア・デ・ラス・アルマスに王立武器工場ができてから20世紀初頭の産業革命までの間の経済沸騰が、現在のエイバル住民の特異性を形成した。最初は鍛冶場で、後には共同の工房(自宅を兼ねていた)がエイバル経済の基盤であり続けてきた。製品を作り上げる過程での様々な義務の履行は、人々の間での助け合いや平等主義を生み出した。労働組合運動がマルクス主義と融合される以前から、エイバルはリベラルであった。カルリスタ戦争でバスクの多くの自治体がカルリスタ軍に従った中で、自由主義を掲げる政府軍についた。
歴史 [編集]
エイバル近郊で発見された遺跡から、エイバルには新石器時代から定住地があったことが証明されている。ローマ人たちがこの地域を征服したときには、カンタブリア人またはケルト人、ヴァスコン人と関連があるのではないかとされるカリスティオス族(es)が暮らしていた。ローマ人はデバ川谷にコンウェントゥス・デ・クルニア(conventus de Clunia)という政治形態をもうけ、これは西ゴート王国時代まで存続した。
デバ川谷のエイバル近郊がパンプローナ王国に従うようになり(のちにはナバラ王国領)、ドゥランゲサド郡に含まれた。この地域がギプスコアとビスカヤ領の境界となると、線で分断された両側はマルキナ(Marquina)と呼ばれた。デバ川谷はマルキナ・デ・ユソ、マルキナ・デ・スソとして定義された。マルキナ・デ・スソの地にサン・アンドレスのアンテイグレシアが設置され、修道院の概念を持っていた。エイバルが初めて歴史上に名が現れるのは1193年である。1346年、アルフォンソ11世がサン・アンドレスの教区に町としての特権を与えた。新しい町はビリャヌエバ・デ・サン・アンドレス・デ・エイバル(Villanueva de San Andrés de Heybar)と呼ばれた。末尾のエイバルは、EhibarまたはHeybarの綴りで15世紀末に現れている。
Eibarとは、後半の-ibarがバスク語で谷を意味する。先頭のEは、エゴ川(Rio Ego)からとられたという説がある。
19世紀の産業革命で新たに国際的な労働組合運動や社会主義がもたらされた。1897年にエイバルの労働者たちは初めてストライキを行った。1931年4月14日、エイバルにてスペイン共和国誕生が宣言された。この時に、『非常に典型とされるべき都市』(Muy Ejemplar Ciudad)と贈り名された。
1887年には鉄道がエイバルに到達し、多くの路線がエイバルを通過した。
スペイン内戦では、エイバルは『荒廃地域』(región devastada)であると宣言するほど、事実上市全体が破壊された。再建が主な産業の発達を促し、わずか数年で人口は4万人を超えた。
経済 [編集]
農業は、家族経営で畜産が行われる。また林業も行われる。製造業は武器の他、自転車製造や縫製機械の製造がある。オルベア、ランブレッタのような工場がある。武器を装飾する目的で19世紀に導入された象嵌が伝統的に職人の手で行われる。
交通 [編集]
スポーツ [編集]
姉妹都市 [編集]
イェクラ、スペイン
ビラリーニョ・デ・ラマ・マ、スペイン
出身者 [編集]
- フランシスコ・デ・イバラ - コンキスタドール。ビクトリア・デ・ドゥランゴの建設者
- イニャシオ・スロアガ - 画家
- ペドロ・オリリョ - サイクリスト
- マルケル・スサエタ