ウンベルト・ボッシ
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Umberto Bossi
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ウンベルト・ボッシ
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| 生年月日 | 1941年9月19日(71歳) |
| 出生地 | ロンバルディア州、ヴァレーゼ県、 カッサーノ・マニャーゴ |
| 所属政党 | 北部同盟 |
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| 内閣 | 第4次ベルルスコーニ内閣 |
| 任期 | 2008年5月8日 - |
| 大統領 | ジョルジョ・ナポリターノ |
ウンベルト・ボッシ(Umberto Bossi)は、イタリアの政治家。連邦政策担当相、下院議員(5期)、北部同盟書記長(初代)。
目次 |
概要 [編集]
元々はイタリア共産党を支持する共産主義者であったが、革新思想に属する地方分権について興味を抱いた事から次第に地域運動に軸を移すようになる。当時、経済が深刻な低迷に陥り、旧来の巨大政党が衰退するという混乱期のイタリアにおいて、その敵対者に対する苛烈な言動(現在は友好関係にあるベルルスコーニと対立した際には、彼を「マフィア」呼ばわりして問題になった)と地方の権利確保の為なら国家分裂をも辞さない強硬姿勢から支持を集め、党勢を伸ばした。
経歴 [編集]
1941年、ウンベルト・ボッシはロンバルディア州のカッサーノ・マニャーゴで生まれた。高校卒業後にパヴィア大学に進学し医学を学んでいたが、在学中にアオスタ地方の自治運動に傾倒した事から学位は取得できなかった。初めはイタリア共産党の運動家として熱心に活動するが、政治上の師に当るブルーノ・サルバトーリ(前述の自治運動の指導者だった)が1980年に事故死すると地方の自治運動に関わるようになる。2年後の1982年にロンバルディア同盟が結成され、ボッシは自らの党と他の北部の地域政党(ヴェネトとピエモンテ)と連帯して北部同盟を組織し、そのリーダーとなった。
タンジェントポリによってイタリアの既存政党が大きな打撃を受け政界再編の流れが生じる。北部同盟はこの騒動で最も躍進した政党となり、政界での発言権を得たボッシはしばしば舌禍を巻き起こす人物として注目された。1998年、ボッシは以下の発言で「暴力を扇動した」として禁固1年の判決を言い渡されている。
- 『我々はネオ・ファシストの悪党共を追い詰めなければなりません。彼らが我々から票を奪うのなら、我々は大戦の後のように奴等を暴力で排除しましょう。』
戦後に共産パルチザンがRSI(枢軸側に残って戦ったムッソリーニ派の反政府勢力)の兵士達を虐殺した事を賞賛するようなこの発言は大きな反発を呼んだ。更に2003年には政権閣僚として不法移民問題を問われた際、「私は不法移民の船が警告射撃をしても従わない場合、撃沈しても構わないと命じた」と発言しこれも論争を呼んだ。こうした政治行動は同年に脳卒中で倒れた事で一旦は鳴りを潜めるが、ボッシはその間も復帰を模索していたとされる。
2005年1月11日、ロンバルディア州ルカーゴで郷土的英雄であるカルロ・カッターネオの屋敷で復帰会見を行った。その後もボッシはフォルツァ・イタリアの要人やスイス・ティチィーノ州の自治論者と会談を行うなど健在をアピールした。また長年の構想であったイタリアの連邦運動を統括する団体を設立すべく、シチリアで「南イタリア版北部同盟」とも呼ばれる自治への運動と政治同盟を結ぶ事に同意し、二つの党のシンボルマークを合一したものを製作した。2008年、北部同盟は再び躍進を果たした。
家族 [編集]
プライベートでは二度結婚し、2人の子をもうけている。
政治的主張の為に奇異な名前を子供に付ける事でも知られ、長男にはリベーレ(イタリア語で自由を意味する女性名詞)、次男にはエリダノ(ポー川に宿るとされる神)と名付けた。
関連項目 [編集]
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: ヴァンニーノ・キーティ |
2008 - 現在 |
次代: 現職 |
| 先代: Antonio Maccanico |
2001 - 2004 |
次代: ロベルト・カルデローリ |
| 党職 | ||
| 先代: 結成 |
初代: 1991 - 現在 |
次代: 現職 |