ウォーレン・マニング

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ウォーレン・マニング英語:Warren Manning、Warren Henry Manning、1860年-1938年) は、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したアメリカ人ランドスケープアーキテクトマサチューセッツ州生まれ。

往時のランドスケープデザインにおいて一般的だった形式主義的アプローチに対し、原生の植物を活用するなど、自然主義的なアプローチのデザインを強調していた人物。この種の代表作に、クリーブランド実業家ウィリアム"グウィン"メイザーから依頼され、チャールズ.A.プラットらと協働した「Gwinn wild garden」(The Muses of Gwinn)など。また、新たな排水・衛生システムを利用したペンシルベニア州ハリスバーグの公園デザインや、科学的に排水道データを収集し駆使して作成されたアラバマ州バーミンガムの都市計画(1919年)など広域規模のものの実績もある。1915年から1916年にかけては、アメリカの土地保全を提唱する大規模なマッピングプロジェクトの国土計画にも取り組んでいる。これは1910年頃,アメリカでは電気が一般的に利用できるようになってライトテーブルがつくられるようになり、これによりトレースの作業が容易になったのだがこのライトテーブルを用いて、オーバーレイという今日も行う分析手法を初めて行ったことが知られる。何枚もの主題図を重ねて新しい情報を得ようとしたのである。彼はこの手法を用いて,マサチューセッツ州Billericaの開発・保全計画を作成した。この時期には既に,基礎的な地図は作成されており,一般に公開されていた。 マニングは土壌図や河川図,森林図などを何百枚も集めて,ライトテーブルを用いたオーバーレイにより,アメリカ全域のランドスケープ・プランを作成した。その中身は,1923年の『LandscapeArchitecture』誌に掲載され、そこでは将来的な市街地とともに,国立公園やレクリエーション地域が示されている。高速道路網や長距離のハイキング道など,今日実際に存在するものも含まれて、そこには広域的な地域計画に含まれるべき要素の全てが既に示されている。1920年頃にこうしたアメリカ全土を対象としてこのような分析を行っていたことは驚くべきこととされ、ランドスケープ・プランニングの歴史においてこの業績は最も大胆かつ勇敢なそして最も創造的なものとして賞賛に値するものとみられている。

参考文献[編集]

  • 中島直人 都市美運動―シヴィックアートの都市計画史 : 東京大学出版会 2009 ISBN-10: 4130668501 ISBN-13: 978-4130668507
  • SD9806 特集:風景創出の現在ランドスケープ・アーキテクトの挑戦 鹿島出版会
  • ピーターウォーカー、メラニーサイモ共著 見えない庭 佐々木葉二、宮城俊作共訳、鹿島出版会 1997

代表作[編集]

  • グスタヴ・パブスト邸庭園(ウィスコンシン州ミルウォーキー)
  • オーギュスト&アドルフ・ブッシュ邸庭園(ミズリー州セントルイス)
  • サイラスとハリエットマコーミックの湖畔別荘庭園(イリノイ州)
  • JJボーランド=カムデン邸庭園(メリーランド州)
  • ヒル=ステッド博物館庭園(コネチカット州ファーミントン)
  • クレメント・グリスコム邸庭園(ペンシルベニア州ハーバーフォード)
  • ウィスコンシン州ミルウォーキー、ミネソタ州ミネアポリス、ロードアイランド・プロビデンス、ペンシルベニア州コミュニティケンタッキー州ルイビル、オハイオ州 シンシナティ、といった都市のパークシステムを手がける。街路設計はフロリダ州マイアミのビスケーン大通りやアラバマ州マウンテンブルックの大通りを手がけている。
  • ペンシルベニア州エッジワース(市民団体からの依頼、1906年)ニューヨーク州イサカ(地方政府からの依頼、1908年)マジソン(市民団体からの依頼、1909年)などの都市マスタープランニング。
  • シャタクア湖集会場のための建築的に豪華な総合計画案(1903年、建築家のアルバートケルシーや彫刻家のマッシーリンドらと計画。それ自体がモデル都市として公共空間改良全般の最も効果的な実地教育を行う場を目指すものであった)
  • STAN HYWET HALL&GARDEN(旧セイバーリング邸、オハイオ州アクロン)
  • ウィリアムグウィンメイザー邸庭園(オハイオ州クリーブランド)
  • ウェスタリー記念図書館協会ウィルコックスパーク(ロードアイランド・ウェスタリー)
  • ロングビューガーデン(ノースカロライナ州ローリー)

経歴等[編集]

1884年までは、園芸場農園を経営していた父の下で働く。その後アーノルド植物園の勉強会に参加し、同植物園での見習いとして参加期間中に植物の知識を進める。

1887年、フレデリック・ロー・オルムステッド設計事務所に入所し、オルムステッドオフィスで豊富な園芸の知識を駆使し植栽設計に従事。8年間在籍し、その間22の州に渡る120ものプロジェクトに参加したという。 その中にはチャールズ・エリオットのもとでの、ボストン・メトロポリタンパークシステムも含まれる。エリオットの下でのオーバーレイ分析の技術を理解し、彼はその後も自然資源や人口と経済といった社会動向などについて大量のデータ源を利用し、アメリカの国土計画を開発し続けた。

設計に際して植物スケッチを徹底し、また大規模なサイトの調査や地形のオーバーレイのスケッチ、道路、水の機能、等のリソース計画を練るという手法は、マニングのキャリアの中で繰り返し使用されている。 オルムステッド事務所では、アッシュビル・ジョージヴァンダービルトのビルトモアエステートノースカロライナ州ミルウォーキーバッファローロチェスターシカゴ、 トレントンとワシントンD.C.の広大な公園のデザインを経験した。オルムステッドの下で働く一方で、後のキャリアの中で重要な役割を果たす計画産業現場での貴重な経験を得ている。

シカゴ万国博覧会 (1893年)の会場設計では、最終的な植林スキームと公園の園芸ディスプレイを担当している。植物の幅広い知識は、そのようなプロジェクトの植栽設計に利用された。シカゴ博の会場デザイン手法は建築デザインと市街の都市美に基づいていたが、マニング担当分は、自然美として適応可能なリソースから風景理論をみるという別の手法で設計した。こうしたアプローチは、一般的に非常時対照的であった、都市内で記念碑的にデザインされた市民センターと、ボザール様式が強調された建築スタイルの公共建物らが会場周辺に林立していたためともされ、このアイデアは、後に手がける風景のデザインの多くに適用される"野生の庭"の基礎となった。

1896年には、オルムステッドオフィスに所属しながら、ボストンで個人の事務所を立ち上げて個人での受託も開始する。オルムステッドの息子がオフィスを継ぐとともに独立し、1901年からは自身の弟とブライアント・フレミングがパートナーとして入所し協働する。事務所は1938年になくなるまで存続し、その間にフレッチャー・スティールダン・カイリーなども彼の元で修行している。