ウォーレン・バフェット
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ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett、1930年8月30日 -)はアメリカの著名な株式投資家、経営者、慈善家。敬愛を込めて「オマハの賢人」とも呼ばれる。
世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの最高経営責任者である。
フォーブス誌の発表によると2008年版の世界長者番付で1位に十数年ぶりで返り咲いた。彼の資産は2007年の520億ドルから620億ドル(約6兆4360億円)になった。[1]
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[編集] 概要
フォーブス誌の世界長者番付でビル・ゲイツと1位を争っている。2007年までビル・ゲイツに次いで2位であることが多かったが、2008年に1位に十数年ぶりで返り咲いた。[1]資産は主にバークシャー・ハサウェイを通じて形成されており、2006年度は世界第2位、約460億ドル(5兆3800億円)であった。2006年6月、バフェットは資産の85%を複数の慈善財団に寄付すると発表した。この寄付額は、アメリカ史上最大の金額であり、寄付額の83%はビル&メリンダ・ゲイツ財団に寄付することとなった。
ビル・ゲイツはバークシャー・ハサウェイの企業統治にも参加している重役であり、長年の友人でもある。また、その資産とは裏腹に、生活は質素で1958年に31,500ドルで購入したオマハの郊外の住宅に、バークシャー・ハサウェイ社から年に100,000ドル(アッパーミドル階級の年収と同レベル)を受け取り、暮らしている。
ユーモアのセンスがあり、話には多くの含蓄を含んでいる。これと投資のリターンが相まって、毎年、株主総会が開かれるオマハには、多くの株主が生の話を聞こうと、各地から飛行機を乗り継いだりして訪れる。
また、コーラ(チェリーコーク)を一日に6本飲むほど好きなことでも有名である。7年ぶりの健康診断で食生活を聞いた医師から「よっぽど遺伝子が頑張らなければ、とっくに死んでいる」と驚かれる。
バフェットは幼い時から聡明で、様々なことで商売をしていた。例えば、祖父からコーラ6本を25セントで購入し、それを1本5セントで売ったりワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなど多岐に渡っていた。
[編集] 人物
[編集] 学歴
- 1947年ウッドロー・ウィルソン高校 (ワシントンDC),ワシントン D.C.
- 1947年-1949年ペンシルバニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科
- 1950年ネブラスカ大学経済学士
- 1951年コロンビア大学経済学修士
[編集] 職歴
- 1951年-1954年 バフェットーフォルク&Co., ネブラスカ州オマハ-投資セールスマン
- 1954年-1956年 グレアム-ニューマン Corp., ニューヨーク州 -証券アナリスト
- 1956年-1969年 バフェット・パートナーシップ・Ltd.オマハ-ジェネラル・パートナー
- 1970年-現在 バークシャー・ハサウェイーオマハー会長,CEO
[編集] 経歴
1930年:(0歳)
- ネブラスカ州オマハで証券業を営み、一時は国会議員だったハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。
1941年: (11歳)
- 初めての株式を購入する。購入したのはシティ・サービスの優先株を3株、価格は1株38ドルだった。この株式は、バフェットが購入後1株27ドルまで下落する。しかし、後に上昇し1株40ドルになったところで売却する。売却後もシティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。この経験からバフェットは「優良企業の株式は長期保有」という投資哲学を学んだと後に述懐している。
1943年: (13歳)
- 自転車を仕事の経費として控除し初めての所得税を申告。
- 中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。また成績は芳しくなかったが、新聞配達の方は絶好調であった。
- 父親が下院議員に当選したのでワシントンD.C.に引っ越す。
- 成績が芳しくなかったことについて母親は「一時的なものだろうと思っていました」と発言している。確かにこの時期を除けば成績は優秀である。
- 新しい生活になじめず、「息ができないほど、苦しかった。夜も寝れなかった」と当時を振り返っているが、両親には心配をかけまいとして「大丈夫」と振舞った。それでもやはり、つらい生活に耐えられず、オマハの祖父の家からオマハの中学校に通うこととなった。
1944年: (14歳)
- 1,200ドルの貯金を使われていなかった農地40エーカー(0.2 km²)に投資。
1947年: (17歳)
- 高校3年のとき、友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始める。この商売は順調にいき、数ヶ月で3台のピンボールを置くことが出来るようになる。バフェットは、最初の週の集金で5ドルあったときには「いける」と思ったという。最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出した。その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却する。
- 高校のときから投資家としての才能は開花していたようである。教師が皆ある株式を保有していた。そこでバフェットは皆が持っているからという理由で空売りを仕掛けた。これについて教師は「ウォーレンには株の知識があるんだなあ」と語った。
- ペンシルバニア大学ウォートン校ファイナンス学科に在学。
- 学ぶことがもう何もないという理由で中退。
1949年: (19歳)
1950年:(20歳)
- 大学院への進学を決意する。ハーバード大学ビジネス・スクールに入学許可を申請するが、断られた。書店でたまたま見つけた「賢明なる投資家」という本を見つけて感銘を受ける。この時のことを後にバフェットはこのように述懐している。「文字通り、天から光が射してきたような気がしました」 この著者が投資理論の先駆者であり、また著名な証券アナリストでもあったベンジャミン・グレアムである。グレアムが、コロンビア大学で教授の職についていると知ったことから、1951年にバフェットは同大学に進学した。大学在学中にバフェットはグレアムに学ぶこととなる。またコロンビア大学にはデイビッド・ドッドという著名なアナリストもいた。
1951年: (21歳)
- ベンジャミン・グレアムがGEICO保険の重役であることを知り、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かったバフェットは、中に入れてくれるまでドアを叩き続けた。そこで、当時副社長、後の友人であり、影響を受けるLorimer Davidsonに会う [2]
- 大学院を卒業。ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対される。バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。
- 故郷オマハに帰り、スーザン・トンプソンとデートをするようになる。そのころTexacoガソリンスタンドを副投資として購入。しかし、望んだほどの成果はあげられなかった。一方、株式ブローカーとして父の証券会社で働く。この間に、デール・カーネギー演説コースを選択。バフェット曰く、「人前で話すのが苦手だったから」。「人前で話している時に足が震えないようにするためではなく、足が震えていても話せるようにするため」。学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで"投資原理"を教える。これにバフェットは十分な自信を持っていた。受講生の平均年齢は彼の2倍以上であった。
1952年: (22歳)
- スーザン・トンプソンと結婚。婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈る。このことをビル・ゲイツがバークシャー・ハサウェイ子会社の世界最大規模の宝石店に指輪を買いに来たときに例に用いて諭している。当時のビル・ゲイツの資産6%は5億ドル相当にあたる。
- 一月65ドルでアパートを貸す。
- 初めての子供、長女スージーをもうける。
1954年: (24歳)
- ベンジャミン・グレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマン社に証券アナリストとして入社する。(初任給は年間12,000ドル)幼い頃の娘スーザンは父の職業名は知っていたが、実際にどんな仕事をしているかは知らなかった。証券アナリスト(英語ではセキュリティー・アナリスト)と聞いた娘の友達はベルの点検をする仕事だと勘違いしていた。ここではウォルター・シュロスと共に働く。
- 2人目の子供で長男ハワード・グレアム・バフェットをもうける。
1956年: (26歳)
- ベンジャミン・グレアムが引退し、グレアム・アンド・ニューマン・カンパニーは解散。グレアムは病気療養中に「ウォーレン(バフェットのファーストネーム)は良くやってくれた」と話しており、自著「賢明なる投資家」の改訂をバフェットに依頼する。しかし、その出来が気に入らなかったためか、退院して自分で改訂作業を始める。バフェットはこのことについて「インフレのところなど2箇所追加しただけで、基本的な部分は変えるつもりはありませんでした。ベン(グレアムの愛称)の表現のほうが優れていましたし」と語っている。
- 大学を卒業して以来の貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。
- 故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。
- この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。
1957年: (27歳)
- この年、さらに2つのパートナーシップを追加でつくり、前年つくったパートナーシップと合わせると5つとなる。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。
- 妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、ファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入。この家にバフェットは現在も住んでいる。
1958年: (28歳)
- パートナーシップの資産を倍にする。
1959年: (29歳)
- 現在のバークシャー・ハサウェイの副会長であるチャーリー・マンガーに出会う。彼は会社の成功の要になる。2人はすぐに意気投合した。この時にバフェットは「法律も趣味としてはいいが、もっとおもしろいことがある」とマンガーに語った。
1960年: (30歳)
- パートナーである1人の医師に10,000ドルを投資する気がある10人の医師を見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。
1961年: (31歳)
- パートナーシップの資産が数百万ドルを突破する。このときに初めて100万ドル規模の投資をする。投資先は風車の製造会社であった。
1962年: (32歳)
- 資金集めのために妻と数週間ニューヨークへ出かけ、古い友人から資金を集める。滞在中に数十万ドルを集める。
- パートナーシップの資産が720万ドルになる。
- シャツなどの織物製造会社バークシャー・ハサウェイが1株あたり8ドル未満で売られていることに気づき、同社株を買い始める。最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進める。
- 多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめる。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。
- 運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザ(地元の名士の名にちなむ)に移す。現在も拠点はここにある。
- 最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更。
- マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談し、マンガーにハリー・ボトルのほうがいいと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、結果大きな利益を出す。
1963年:(33歳)
- バークシャーの筆頭株主になる。
- デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。
1964年:(34歳)
- アメリカン・エキスプレスの株価がスキャンダル(子会社が取引先の倒産のあおりを受けて倒産しそうな時に、法的義務もないのに資金を融通しようとした)で暴落。世界中が同社株を売っているときに、バフェットは猛然と買い始める。これについて「ブランドは傷ついたが、財務諸表に変化はなかったため」と答えている。
1965年: (35歳)
- 取締役会にてバークシャーの経営権を取得。新社長にケン・チェイスを指名。
- 父ハワード・バフェット死去。遺産は一切なし。
- ウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。購入額は400万ドルで1株38セント。当時の時価総額の5%にあたる。しかし、48セントになったときに売却。後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めており、「良く帰ってきたね」といった。
- アメリカン・エキスプレスの株価が購入時の2倍になる。
1966年: (36歳)
- 純資産が6,849,936ドルに達する。
1967年: (37歳)
- バークシャー社が初めての配当(10セント)を出す。
- バーゲン価格の株はないとパートナーに説明する。
- パートナーシップの資産が6500万ドルになる。
- 一時的に株式投資から離れて他の趣味をしようと考える。
1969年: (39歳)
- この年、バフェットはパートナーシップを解散し、パートナーに資産を清算。この時、パートナーは現金とバークシャー株の2つから好きなほうを選ぶことができた。
1970年: (40歳)
- バークシャー・ハサウェイ会長として、現在では有名となっている株主への年次報告書を執筆し始める。
1971年: (41歳)
- 妻の要望でラグーナビーチに夏季滞在用の家を150,000ドルで購入する。
1973年: (43歳)
- バークシャー社が、ワシントン・ポスト株を買い始める。バフェットは、ワシントン・ポストとその旗艦紙を支配しているキャサリン・グレアムと親友になり、取締役となる。
- バークシャー株が下落し始める。バフェットの指示にて、バークシャー社は資金の借り入れを行う。
1974年: (44歳)
- バークシャー株の下落のためにバフェットの純資産が半減する。
- 証券取引委員会(SEC)によりバフェットとバークシャーの合併について調査が行われる。しかし、疑わしいことはなかった。
1977年: (47歳)
- 3250万ドルでバッファロー・イブニング・ニュースを買収。このことで、反トラスト法にて訴訟を起こされる。
- 妻スーザンがバフェットのもとを去る。しかし、公式には離婚してない。妻についてバフェットは以下のように話している。「彼女は放浪癖があるというか、自由人なんですよ」
1978年: (48歳)
- 妻スージーからアストリッド・メンクスという女性を紹介される。彼女はバフェットと暮らすことになる。
1979年: (49歳)
- バークシャーがABC株を買い始める。1株当たりの買値は290ドルであった。バフェットの純資産が1億4000万ドルに近づく。しかしながら、年$50,000を給与として貰い生活する、というスタイルであった。
- バークシャー株の株価が年初775ドルであったのが、年末には1,310ドルまで上昇した。バフェットの純資産が6億2000万ドルに達する。初めてフォーブス誌に名前が載る。
1981年: (51歳)
- バフェットとマンガーは慈善寄付計画を策定して、利益の一部をこの計画に寄付することを許諾するように株主に求める。
1983年: (53歳)
- 6000万ドルでネブラスカ・ファーニチュア・マートを買収。バフェットは何気なく店を訪れ、この企業の女性オーナーに「おばさん、店を売る気はないかい?」と尋ねた。そうすると、「あるよ」と答えたので「いくら?」と尋ねた。そうすると「6000万ドル」と返答がきた。バフェットは事務所に戻り6000万ドルの小切手をすぐに作り戻ってきた。あとで、正確に資産調査をした時に8400万ドルが正確な資産だと判明したが、「先に言った事を撤回できない」との女性オーナーの判断で買収は了承された。実のところ、バフェットはオーナーの息子と事前に交渉しており、売りたいことも知っていたようである。この年、株式のポートフォリオは13億ドル程度の価値と評価される。
1985年:(55歳)
- バークシャー社の織物業の再建を断念。優秀な経営陣と潤沢な資本を注ぎ込んだが、当時すでに斜陽産業であった織物業を再建することはできなかった。
- 3億1500万ドルで世界書籍百科事典などを製造しているScott & Fetzerを買収。ちなみにチャーリー・マンガーはこの百科事典がお気に入りで、「人間の英知をこんなにもコンパクトで使いやすくまとめるとはたいしたものだ」と述べている。
- ABCとキャピタル・シティーズの合併の成功を助ける。
- 連邦裁判所からキャピタル・シティーズとKay Graham's Washington Postの両方で取締役であることを認められなかったため、ワシントン・ポストの取締役を辞任する。
1986年:(56歳)
- バークシャーの株価が3,000ドルに達する。
1987年:(57歳)
- 株式市場の大暴落の余波により、バークシャーの株価は4,230ドルから3,170ドルに下落する(25%の減少)。
1988年: (58歳)
- コカ・コーラ株を買い始める。最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で買った。この投資は後に最も成功した投資となる。これは、現在も保有中。
1989年: (59歳)
- バークシャーの株価は4,800ドルから8,000ドル以上に上昇。バフェットの純資産はこの上昇に伴い38億ドルになる。
1996年: (66歳)
- ニューヨークのCardozo Law Schoolに参加してThe Essays of Warren Buffettを編集、発行することとなる。
1997年: (67歳)
- 1オンス6ドルで13億オンスの銀を購入。これは2006年に売却した。
2002年: (72歳)
- 110億ドル相当でドル以外の通貨を購入。この投資は2006年4月までに、計20億ドル以上の利益を出した。
- 6月、440億ドルあった全資産の80%、370億ドルを5つの財団に毎年株式の形で寄付を行うと発表。2006年6月より開始。最大の寄付先は、ビル&メリンダ・ゲイツ財団である。
2003年: (73歳)
- 通貨の運用益が6億ドルを超える。
[編集] 投資方針
- 通常:安全域を持ち、本源価値以下であり、なおかつ期待したリターンまたは予想通りのリスクがある証券を購入する。
- 裁定取引:合併、買収、清算といった企業の出来事に対して株価が適正ではない株式を購入する。
- 買収:大量に株式を購入する、または他の株主と結託して意見を述べる、または経営に介入する。
[編集] 投資基準
- その企業は経済的に意義のある企業か?(販売価格だけで比較されるような企業ではないか?)その企業は消費者独占企業か?ロイヤルティーを取ることのできる有名なブランドを持っているか?豊富な資本を持つ企業が競争に参加してきた場合、その企業は勝ち抜くことができるか?
- その企業は売上高が上昇傾向にあるか?そこから良好で継続的な利幅が取れているか?
- 負債資本比率は低いか?売上高負債比率は高いか?売上高が業界平均を下回った場合、負債を数年以内で返済できるか?
- ROEはその企業の平均ROEよりも高いか?12%以上か?業界平均よりも高いか?総資産に対する継続的で高いリターンを得られているか?
- その企業は成長のための資本をもっているか?
- その企業は高い事業維持コスト、低い資本消費、投資による現金の外部流出になっていないか?これは性能を上げることではない。
- その企業は良い投資機会があった場合、資本を再投資できるか?その投資の結果は利益の観点から見て良好か?
- その企業はインフレの時、商品の値上げをできるか?
[編集] 慈善活動
慈善事業にも積極的で、死後の遺産のすべては慈善事業などを目的としたバフェット財団に寄付される予定であった。2004年になくなった妻の個人資産であった26億ドル相当の土地はこのバフェット財団に寄付されている。現在、資産は主にビル&メリンダゲイツ財団に順次寄付されていく予定となっている。
[編集] 家族
バフェットにはドリスとバーティーという姉妹がいる。
祖父はオマハに食料雑貨店を持っており、現在のバークシャー・ハサウェイの副会長チャーリー・マンガーが過去、この雑貨店で働いていたことがある。
1977年に妻スーザンはバフェットと別れている(公式には離婚していない)。しかし、「女性はたいてい男性よりも長生きする。私は、自分が死んだら資産を妻に託したい。妻なら有用に使ってくれるだろう」と語っていたことから考えるとバフェットは妻に信頼を置いていたようであるし、頻繁に連絡を取り合っていたことからお互いの仲はよかった。妻に先立たれたために資産を分散して寄付することになった。
長男ハワードはバークシャー・ハサウェイの役員。バフェットは「息子が経営に関与したいと私の死後言って来たら多少は関与させてやってほしい。あくまで多少だが」と役員に述べている。
次男ピーターは作曲家で映画スカーレット・レターに楽曲を2曲提供。このときにバフェットが「スカーレット・レターに楽曲を提供するといくらになるんだ?」と尋ね、ピーターが「○○ドル」だと答えた。それを聞いて「結構な大金だなあ」と発言している。
[編集] 格言
- 1ドルのものを40セントで買う哲学を学んだ。
- 文字通り、天から光が射してきたような気がしました。
- リスクとは、自分が何をやっているかよくわからないときに起こるものです。
- ただ一つ言えるのは、他人が慎重さを欠いているときほど、自分たちは慎重に事を運ばなければならないということです。
- 株式市場は、短期的には人気投票の場にほかなりません。しかし長期的には、企業の真の価値を計る計算機の役目を果たしてくれるのです。
- 株式投資の極意とは、いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。これに尽きます。
- 世論調査なんて考えることの代わりにはなりません。
- ビジネス・スクールでは、難しく複雑な方法は単純な方法より価値があると教えています。しかし、単純なやりかたの方がより効果があるものなんです。
- ルール その1:絶対に損をするな。ルール その2:絶対にルール1を忘れるな。
- ビジネスの世界では、いつもフロントガラスよりバックミラーの方がよく見えるものです。
- 風見鶏を見ているだけでは金持ちにはなれません。
- 時代遅れになる原則はそもそも原則ではありません。(バリュー投資について)
- 尊敬できる人のもとで働きなさい。(就職に関するアドバイス)
- ウォーレンはカラーテレビのような人です。みなが白黒なのに彼にはカラーに見えるの(妻スーザン)
- 買うのは企業、株ではない
[編集] その他
- 2004年のタイム誌の選ぶ100人に選出された。
- ブッシュ政権の大企業のための減税措置に反対の立場を表明している。
- バークシャーの織物業を再建しようとしたのは間違いだったと認めている。
- ITなどの新しい技術を学ぶのは苦手だと発言している。
- 投資してきた中で20%ものマイナスになったものがあり、これがなければもっと資金を効率よく回転させることができ、資産も大きくなっていただろうと発言している。
- 新技術は理解できても10年後がわからなければ株の購入はしない。
- ドル相場はかつてバフェットの発言で変動したことがある。
- 企業の買収は株式未公開企業を企業側の言い値で買い取るという方法である。以前、市場で買い付けた際に彼が買っていることが外部に漏れ、結果、株価が高騰してしまい、目的の価格で目的の株数を確保できなかったことがあるためにこのような方法を取っている。
- 買収された企業の経営者は、ビル・ゲイツやバフェットらアメリカの財界の有力者とのゴルフに招かれる。
- 1989年、670万ドルで社用ジェット機を購入した際に、自身の他のCEOのジェット機購入を批判した際のことを引き合いに出して冗談交じりに「THE INDEFENSIBLE(言語道断号)」と名づけた。
- 2006年、10月25日のCNBCのインタビューにて自身の年収がバークシャー・ハサウェイのA種株式と密接な関係があると明かした。そして、冗談で「だから、株式分割をしないんだよ」と分割しない理由のひとつにあげた。
- トランプゲームのブリッジを好む。
- アメリカ経済、世界経済、トウモロコシ相場について発言する場合、世界が異常なほどに注目する。
- 株主総会で、株主から「あなたの死んだ時のリスクには対応できません」「あなたがトラックに明日轢かれたらどうなるのでしょう?」といった類の発言を毎年のように受けている。「私も(轢かれたら)困るので、トラックの運転手にバフェットを轢かないように頼んでください」と答えたのは有名な話である。
- ジャンク債についてどう思うかを聞かれたとき「名にふさわしい役割を果たしてくれると思いますよ」と発言している。
- 投資においては、一株利益(EPS)が毎年上昇していることを重視すると言っている。
- 2007年、5月のTXインタビューにて「(三角合併解禁による)日本企業の買収に興味がある」とコメントしている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ a b 米フォーブス誌長者番付、バフェット氏が首位・ゲイツ氏は3位 ロイター 2008年 03月06日
- ^ Roger Lowenstein. Buffett: The Making of an American Capitalist. p. 43.

