ウォーレン・バフェット

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ウォーレン・バフェット
Warren Buffett
生まれ 1930年8月30日(78歳)
アメリカ合衆国
ネブラスカ州オマハ
職業 投資家実業家
純資産 620億ドル
配偶者 スーザン(1952年 - 2004年)死別
アストリート(2006年 - 現在)

ウォーレン・バフェットWarren Edward Buffett1930年8月30日 -)はアメリカの著名な株式投資家経営者慈善家。現在は、世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイ会長CEOを務める。

明確な投資哲学・スタイル(長期投資を基本スタイルとする点など)や先見性、慈善事業に積極的なこと、大富豪となっても質素な生活を送っていることなどから、他の投資家はもとより世界中から尊敬を集めている人物であり、敬愛の念を込めて「オマハの賢人」(Oracle of Omaha)とも呼ばれる[1]。毎年オマハで開催されるバークシャー・ハサウェイの年次株主総会に、バフェットと同社の副会長で、バフェットの長年のパートナーであるチャーリー・マンガーの話を聞くために世界中から数万人にものぼる株主が参加することは有名である[2]

目次

[編集] 概要

バフェットは株式投資で成功を収め、フォーブス誌によるアメリカの長者番付フォーブズ400では1986年の5位以来、毎年ベスト10に入り続けている(2008年現在)。[3]世界長者番付ではビル・ゲイツが1994年から13年連続で1位となり[4]、バフェットは2位になることが多かった。バフェットは2007年に前年から資産を100億ドル増加させ、620億ドル(約6兆4360億円)となり初めて1位になった(米国内の長者番付では1993年に1位になったことがある)[5][6]

バフェットの資産は主に自身がCEOを務めるバークシャーを通じて形成されている。[7]バフェットの生活は質素で、1958年に31,500ドルで購入したオマハの郊外の住宅に今でも住んでいる。バークシャーから年に10万ドルを受け取り、暮らしている[1]

2006年6月にバフェットは資産の85%にあたる約374億ドルを5つの慈善財団に寄付すると発表した。これはアメリカ史上最大の金額であり、寄付はバークシャーのB株の形で寄付残額の5%ずつ毎年支払われる。寄付のうち約310億ドル(B株1000万株)は友人であり2004年からバークシャーの社外取締役を務める[8][9]ビル・ゲイツビル&メリンダ・ゲイツ財団[10]、残りは4つの財団に寄付される[11][12]

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

バフェットは1930年にネブラスカ州オマハで証券業を営むハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれた。バフェットは幼い頃からビジネスを始めていた。例えば祖父からコーラを6本25セントで購入し、それを1本5セントで売ったり、ワシントン・ポストの配達のアルバイト、ゴルフ場のボール拾い、競馬の予想新聞売りなどを行っていた。[13]

バフェットは11歳の時に初めて株式を購入した。姉のドリスと共にシティ・サービスの優先株を1株38ドルで3株購入したのだが、その後、1株27ドルまで下落した。バフェット達は1株40ドルまで値を戻したところで売却したが、シティ・サービス株は長期的に上昇し続け200ドルになった。この経験からバフェットは忍耐を学んだと後に述懐している。[14]

1942年に父親が下院議員に当選したためワシントンD.C.に引っ越したが、当時12歳のバフェットは新しい生活になじめず、祖父の家からオマハの学校に中学2年まで通うことになった。[15]1943年には自転車を仕事の経費として控除し13歳で初めて所得税を申告した。[16]。中学では飛び級をしたが、一つ上の友達とうまくなじめなかった。また成績は芳しくなかったが、新聞配達の方は絶好調であった。

その後、中学を卒業したバフェットはワシントンD.C.に戻り、高校に進学した。[15]高校3年のときに友人と中古のピンボール1台を25ドルで購入し、それを理容店に置くという商売を始めた。この商売は成功し、最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すまでになった。[17]その後、この事業を退役軍人に1200ドルで売却している。

1947年ペンシルベニア大学ウォートン・スクールファイナンス学科に入学したが中退し、ネブラスカ大学オマハ校に編入した。ネブラスカ大学を卒業後、ハーバード大学ビジネス・スクールに入学しようとしたが断られた[18]。その後、コロンビア大学で著名な証券アナリストであり、『賢明なる投資家』の著者のベンジャミン・グレアムデイビッド・ドッドが教職についていることを知ったバフェットはコロンビア大学のビジネススクールに進学し、投資について学んだ[19]

グレアムが保険会社GEICOの重役であることを知ったバフェットは、電車に乗ってワシントンD.C.のGEICO本社へ向かった。門前払いをされそうになったが、中に入れてくれるまでドアを叩き続けたという。そこでバフェットは当時の副社長、そして後の友人であり、影響を受けたLorimer Davidsonに会った。[20]

1951年に大学院で修士号を取得後、ウォール街で働こうとするが父とグレアムに反対された。バフェットはグレアムの下でただでもいいから働きたいと懇願するが、ユダヤ人のための雇用を確保しておきたいというグレアムの事情により断られた。グレアムはユダヤ人で、当時はユダヤ人の就職が困難という社会的な事情がその背景にはあった。バフェットは故郷オマハに帰り、株式ブローカーとして父の証券会社で働いた。テキサコガソリンスタンドに資産の20%を投資したが、後に失敗した投資の1つとして語っている。[21]また、人前で話をする訓練のためにデール・カーネギー演説コースを受講した。[22]学んだ知識を使いネブラスカ大学夜間クラスで平均年齢が彼の2倍以上の受講生に"投資原理"を教えた。この頃にスーザン・トンプソンとデートをするようになる。

1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、婚約時には資産の6%の価値の婚約指輪を贈った。後にビル・ゲイツがバークシャーの子会社の宝石店ボーシャイムに指輪を買いに来たときに例に用いて諭している。[23]1953年に長女スージーをもうけ、翌年には2人目の子供で長男ハワードが生まれた。

[編集] パートナーシップの運営

1954年にグレアムより電話でパートナーシップでの仕事の誘いがあり、資産運用会社グレアム・ニューマンに証券アナリストとして入社した。(初任給は年間12,000ドル)ここでは後に著名な投資家になるウォルター・シュロスと共に働いた。1956年にグレアムは引退し、グレアム・アンド・ニューマン・カンパニーは解散した。グレアムはバフェットを評価しており、1970年代の後半に『賢明なる投資家』の改訂を行っていたグレアムが入院した際に手伝いをバフェットに依頼した。バフェットは根本部分は変更せずにインフレや企業分析について改訂を提案したが、退院したグレアムは自分で改訂作業を行った。[24]

大学を卒業して以来の貯金は9,800ドルから140,000ドル以上になっていた。バフェットは故郷オマハに帰り、合計105,000ドルを7人の家族と友人から集めて投資のパートナーシップであるバフェット・アソシエイツ株式会社を設立。自身は100ドルだけ出資した。この後、年内に2つのパートナーシップをつくり、パートナーシップは合計で3つになる。1957年にさらに2つのパートナーシップを追加でつくり、合計5つパートナーシップを運営した。バフェットはパートナーシップの運営を自宅で行っていた。妻のスーザンが第三子(次男ピーター)を身ごもっていたので、1957年にファーナム通りにある漆喰作りで5つの寝室を備えた家を31,500ドルで購入した。この家にバフェットは現在も住んでいる。[1]

1959年、後にバークシャーの副会長となるチャーリー・マンガーに出会い、2人はすぐに意気投合した[25][26]。彼は会社の成功の要になる。1960年にはパートナーである1人の医師に10,000ドルを投資する気がある10人の医師を見つけてきてほしいと頼み、11人を紹介してもらう。この中には現在まで投資している家族(本人は死去したが、遺族が相続した)があり、当時投資した1万ドルは現在では5億ドル程度になっている。1961年、パートナーシップの資産が数百万ドルを突破し、風車の製造会社に対して初めて100万ドル規模の投資をした。

1962年にニューヨークへ出かけ、古い友人から数十万ドルの資金を集めた。パートナーシップの資産が720万ドルになる。多数あったファンドをバフェット・パートナーシップにまとめ、最小投資規模を25,000ドルから100,000ドルに変更した。運営拠点を「機能的で華美でない」キューイット・プラザ(地元オマハの名士ピーター・キューイットの名にちなむ[27])に移す。バフェットとスーザンはそれぞれ100万ドル以上の資産を保有していた。

繊維業のバークシャーが1株あたり8ドル未満で売られており、経営を改善すれば業績が好転すると考え、最終的にはパートナーシップを通じて、全株式の49%まで買い進めた。マンガーに風車製造会社デンプスターに投資すべきか相談し、マンガーにハリー・ボトルのほうがいいと言われる。バフェットはこの助言に従い、ハリー・ボトルに投資、一時解雇、コスト削減等の経営改善策を会社に実現させ、結果大きな利益を出す。

1963年、バークシャーの筆頭株主になる。デンプスターを購入時の3倍の株価で売却。ほとんど価値のない企業で構成したポートフォリオは200万ドル以上の価値を持っていた。翌年、アメリカン・エキスプレスが倒産の危機のある子会社に対して法的義務のない状態で資金を融通しようとしたスキャンダルによって同社の株価が暴落したときに、バフェットは解決可能な問題であると判断し[28]、逆に株を買った。

1965年にウォルト・ディズニーに出会い、ウォルト・ディズニー株を買い始める。1株38セントで当時の時価総額の5%にあたる400万ドルを投資した。その後1株48セントになったときに売却したが、後に買い戻すこととなる。このことについて、売却は失敗だと認めている。1967年、バフェットのパートナーシップの資産が6500万ドルになる。バフェットはこのパートナーシップに初めて10セントの配当を出した。[29]1969年、バフェットはパートナーシップの解散を行った。パートナー達は現金かバークシャーの株式など幾つかの方式を選ぶことができた。[30]

[編集] ブルーチップ・スタンプス

1956年に9つの会社によって設立されたブルーチップ・スタンプは、小売店の販売促進のための景品スタンプ事業を行っていた。9社による独占に対して小売店から反トラスト法違反で訴えられ、1967年にブルーチップ・スタンプスと改名し株式の55%は市場に流通するようになった。バフェットは割安であると判断して株を購入し、情報交換していた友人のチャーリー・マンガーリック・ゲーリンも別個に購入していた。1971年時点でバフェット家が13%、マンガーのパートナーシップが8%、ゲーリンのパートナーシップが5%を保有していた。更にバフェットが部分的に所有しているバークシャーが17%、ダイバーシファイド・リテーリングが16%のブルーチップ株を保有し、ダイバーシファイド・リテーリングはバークシャーの株を持ち、マンガーのパートナーシップはダイバーシファイド・リテーリングの株を保有していた。その後の買い増しによって合計75%のブルーチップ株をバフェットたちが所有することになった。[31]

マンガー、ゲーリン、バフェットはブルーチップの取締役となり、景品事業によって生まれる準備金の運用を行った。1972年には製菓業のシーズ・キャンディーを帳簿価格の約3倍の価格で買収して子会社とした。更に貯蓄貸付組合のウェスコ・フィナンシャルの株8%を1株10ドル台前半で購入した。1973年にウェスコがフィナンシャル・コープと合併する計画が発表されると、バフェットたちはウェスコの株主に不利な条件の合併に反対するため17%まで買い増しを行った。規制があり20%以上取得するには許可を受ける必要があったため、バフェットたちは創業家で大株主のピータース家を説得して合併を撤回させた。合併計画によって1株17ドルまで上昇していたウェスコ株は合併中止によって下落することが想定されたが、バフェットたちは他の株主へ公正さを保つため残りの3%を17ドルで購入した。株式取得に関する許可を得ると公開買付けなどによって最終的に80%を保有した。[32]

SECはブルーチップを通じたウェスコ株の取得を中心にバフェットたちの投資活動の調査を行った。ブルーチップの株が複雑な形で保有されていたこともあり、SECは何らかの不正を行っているのではないかという疑惑を持っていた。最終的にはウェスコの合併中止後も株を高値で買ったことが株価を操作したと判断され、問題になった。バフェットたちは同様の過ちを今後行わないことを明言し、1975年にSECはブルーチップからウェスコの株主へ11万5000ドルの支払いを命じた。この件の影響でバフェットたちは組織の簡略化に取り組むことになった。マンガーのパートナーシップは1974年の暴落から回復した1975年に解散し、マンガーはバークシャーの副会長に就任した。ダイバーシファイド・リテーリングはバークシャーに吸収された。ブルーチップも1983年にバークシャーとの株式交換によって合併し、複雑な株主構成は解消された。[32]

[編集] バークシャーの経営

バークシャー・ハサウェイ」も参照

1965年にバフェットは繊維業のバークシャーの経営権を取得し、新社長にケン・チェイスを指名した。バフェットは1970年からバークシャーの会長として、現在では有名となっている株主への年次報告書を執筆し始める。 バークシャーは1973年にワシントン・ポスト株を買い始める。ワシントン・ポストとその旗艦紙を支配しているキャサリン・グレアムと親友になり、バフェットはワシントンポストの社外取締役となる。バークシャー株が下落し始め、バフェットの純資産は1974年には半減する。バフェットの指示にて、バークシャーは資金の借り入れを行う。

1977年、ブルーチップを通じて3250万ドルでバッファロー・イブニング・ニュースを買収した。新たに日曜版を開始し、既存の平日版の読者に4週間無料で、店頭では特別価格で販売した。このことでライバルのクーリエ・エクスプレスから反トラスト法にて訴訟を起こされ、解決まで5年を要した。[33]1979年にABC株を1株当たり290ドルで購入した。バフェットの純資産は1億4000万ドル近くとみられていたが、年間5万ドルを給与として貰い生活を続けていた。 バークシャーの株価が年初775ドルから年末に1,310ドルまで上昇した。バフェットの純資産が6億2000万ドルに達し、初めてフォーブス誌に名前が載る。

副会長のマンガーの発案により1981年からバークシャーが利益の一部を寄付する際に、寄付先を株主が持ち株に応じて決定できるという慈善事業計画を策定した。[34]

1983年、家具屋のネブラスカ・ファーニチュア・マートを6000万ドルで買収した。バフェットはオーナーが売却を考えていることを知り、オーナーの息子と事前に下交渉をしていた。その上でバフェットは店を訪ねてオーナーの老婦人と直接交渉し、会計の監査や在庫の調査をせずに言い値に対して即払いで購入した。[35]

1983年のバークシャーの持つポートフォリオは13億ドル程度の価値と評価されるまで成長していた。一方で本来の繊維業は不振を続け、1985年にバフェットはバークシャーの繊維部門の再建を断念して工場を閉鎖した。優秀な生え抜きの経営陣と資本を注ぎ込んだが、最後の9年間累計で売上が5億3000万ドル、1000万ドルの赤字であった。当時すでにアメリカにおいて斜陽産業であった繊維業を再建することはできなかった。[36]

1985年、3億1500万ドルで世界書籍百科事典などを製造しているScott & Fetzerを買収した。1985年にABCとキャピタル・シティーズの合併の成功を助ける。連邦裁判所からキャピタル・シティーズとKay Graham's Washington Postの両方で取締役であることを認められなかったため、ワシントン・ポストの取締役を辞任する。1989年、670万ドルで社用ジェット機を購入した際に、かつて他社のジェット機購入を批判したことを引き合いに出して冗談交じりに「THE INDEFENSIBLE」(言語道断号)と名づけた。

1987年にアメリカ最大規模の証券会社ソロモン・ブラザーズはロナルド・O・パールマンによる敵対的買収の対象となっていたため、CEOのジョン・グッドフレンドはバフェットに助けを求めた。バフェットは証券業界を好ましく思っていなかったがグッドフレンドを評価していたため7億ドルを投資し、マンガーと共にソロモンの取締役に就いた。1991年にソロモンの債券トレーダーのポール・モウザーが財務省証券の入札での買占めをはじめとする複数の違法取引を行ったスキャンダルが発覚した。グッドフレンドとソロモン副会長のジョン・メリウェザーがこの事実を知りながら取締役会や監督省庁に隠し続けていた為、SEC財務省をはじめとする多くの機関から重大事件とみなされた。最終的にグッドフレンドとソロモンの社長であるトーマス・ストラウスと法律顧問が辞任したが、それだけでは解決されないほど問題が大きかったためバフェットが暫定CEOに就任した。バフェットは信用があり、法律問題にも積極的に取り組んだ結果ソロモンが2億9000万ドルの罰金を支払うことで事件は終結した。[37]

1988年にコカ・コーラ株を買い始め、最終的に発行済み株式の7%を10.2億ドル相当で買った。1989年バークシャーの株価は4,800ドルから8,000ドル以上に上昇し、バフェットの純資産は約42億ドルになる。[38]1996年ニューヨークのCardozo Law Schoolに参加してThe Essays of Warren Buffettを編集、発行することとなる。1997年から翌年にかけて1オンスあたり4.6から4.8ドルで約1億3000万オンスの銀を投資として購入した[39]。2006年に売却した。

[編集] 家族

バフェットの父・ハワードは証券業を営み、1930年から共和党下院議員を務めた。バフェットは父から多くを学び、短期間だが父の証券会社で共に働いていたこともある。[40]バフェットは3人兄弟で、姉のドリスと妹のバーティーがいる。祖父はオマハに食料雑貨店を持っており、チャーリー・マンガーはこの雑貨店で働いていたことがあるがこの間にバフェットと出会うことは無かった。[41]

1952年にスーザン・トンプソンと結婚し、スーザンとの間に長女スージー・長男ハワード・次男ピーターの3人が生まれた。1977年に子育てを終えたスーザンはバフェットと別れて暮らすようになった。しかし離婚はしておらず、バフェットもスーザンの自由な生き方を支持していた。バフェットの遺産を受け継ぐことになっていた[42]が、2004年に先立たれたために資産を複数の財団へ寄付することになった。バフェットは子供達を甘やかすことは本人のためにならないとして厳しく育て、自立させた。[43]長男ハワードはバークシャーの役員を勤めており、次男ピーターは作曲家で映画スカーレット・レターに楽曲を2曲提供している。

バフェットは妻のスーザンから紹介されたアストリッド・メンクスという女性と1978年から同居している。2004年にスーザンが亡くなり、バフェットは2006年にアストリッドと2度目の結婚をした[44]

[編集] 投資

バフェットの投資に関する考え方はベンジャミン・グレアムの理論をベースとしている。[45]株式が企業の一部であることを意識し、市場に惑わされず、安全余裕率を忘れないことが重要な要素だとしている。その他にフィリップ・フィッシャーの影響も受けている。[46]そして失敗した投資やチャーリー・マンガーの意見によって、バフェットは単に割安な企業よりも数字に表れないものを含めて内在価値が高く、適切な価格以下の企業へ投資するように変化した。[47][48]

[編集] 投資基準

バフェットが投資する基準として事業の内容を理解でき、長期的に業績が良いことが予想され、経営者に能力があり、魅力的な価格であるという4つを挙げている。[49]

事業の内容が自分にとって複雑すぎる分野には手を出さないため、ハイテク分野の企業などには投資をしていない。長期的な業績を計るためにはブランド力や価格決定力を持つことを重視している。[50]企業は事業拡張や多角化の際に誤った判断によって容易にその価値を失いトラブルを発生させてしまうため、尊敬できる有能な経営者とだけ付き合う。ただし、有能な経営者も悪化したビジネスを立て直すことはできないと考えている。[51]かつては割安であることを基準としていたが、経験を経て普通の企業を格安で買うよりも優れた企業を相応の価格で購入すべきだとしている。[52]

[編集] 買収

バフェットは分散投資を行わず、基準を満たす優れた企業を買収あるいは株式を大量に取得するという集中的な投資を行う。[53]買収した企業では元の経営陣がそのまま経営を続け、バフェットは資本の安定と適正な役員報酬によって経営者が安心して運営できる環境を提供する。バフェットの方針は経営を続けたいが企業を売却したいオーナー経営者を惹きつけ、1997年から1999年の間には7社の買収に成功した。[54]

バフェットは1970年代にボルチモアの百貨店・ホーチスチャイルド・コーンを買収したが、地域での小売の競争が厳しいため3年後にほぼ購入価格で売却することになった。[55]バークシャーを買収した際は新社長を登用して繊維事業の改善を図るなど、経営に介入したが上手くいかず最終的には工場を閉鎖せざるを得なくなった。これらの失敗の一方で、元々優秀なビジネスを行っていたシーズ・キャンディーの買収は成功したことから現在のスタンスが確立した。[56]

[編集] 裁定取引

バフェットは長期投資が最も望ましいとしているが、基準を満たす投資先がない場合は裁定取引も行う。合併や買収などが公表された企業の株価と計算上の株価に差があれば、実現される可能性と期間を考慮して取引を行う。バフェットは裁定取引の場合でも少数の大規模な案件を扱う。[57]

[編集] 語録

  • 1ドルのものを40セントで買う哲学を学んだ。[58]
  • リスクとは、自分が何をやっているかよくわからないときに起こるものです。[59]
  • 他人が慎重さを欠いているときほど、自分たちは慎重に事を運ばなければならないということです。[60]
  • 株式投資の極意とは、いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。これに尽きます。[61]
  • 世論調査なんて考えることの代わりにはなりません。
  • ルール その1:絶対に損をするな。ルール その2:絶対にルール1を忘れるな。[62]
  • ビジネスの世界では、いつもフロントガラスよりバックミラーの方がよく見えるものです。
  • 風見鶏を見ているだけでは金持ちにはなれません。[63]
  • 時代遅れになる原則はそもそも原則ではありません。(バリュー投資について)[64]
  • 尊敬できる人のもとで働きなさい。(就職に関するアドバイス)[65]
  • ウォーレンはカラーテレビのような人です。みなが白黒なのに彼にはカラーに見えるの(妻スーザンがバフェットを評して)[66]
  • 買うのは企業、株ではない

[編集] 慈善活動

[編集] バークシャーの慈善事業

株式会社の利益は株主のものであるという立場から、経営者が寄付を行う場合は個人として行うべきだとバフェットは主張している。バークシャーでは企業として寄付を行う場合は寄付先を株主が持ち株に応じて決定できるという慈善事業計画を1981年から行っている。そのため相反する主張を行う団体の両方に寄付を行っていることもある。[34]

[編集] 遺産

バフェットの財産は99%がバークシャー株である[7]が、死後は慈善事業などを目的としたバフェット財団(Susan Thompson Buffett Foundation)に寄付される予定であった。2004年に亡くなった妻の個人資産であった26億ドル相当の土地はこのバフェット財団に寄付されている。2006年6月にバフェットは資産の85%にあたる374億ドルを5つの慈善財団に寄付すると発表した。寄付はバークシャーのB株の形で寄付残額の5%ずつ毎年支払われることになっている[67]

そのうち310億ドルはビル&メリンダ・ゲイツ財団に寄付することとなった。[11]


[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ a b c フォーブス (2005年3月10日). "Warren Buffett Warren Buffett". 2008年11月12日 閲覧。
  2. ^ バークシャー社の今年の年次株主総会に、およそ3万5,000人が参加する見通しであることを伝えるロイターの記事(2009年 5月1日 16:06(JST)配信,2009年6月4日閲覧)
  3. ^ ジャネット・ロウ(1999) 170-175頁
  4. ^ ITmedia (2007年3月9日). "世界長者番付、ビル・ゲイツ氏が13年連続トップ". 2008年11月12日 閲覧。
  5. ^ フォーブス (2008年). "Gates No Longer World's Richest Man". 2008年11月12日 閲覧。
  6. ^ ロイター (2008年3月6日). "米フォーブス誌長者番付、バフェット氏が首位・ゲイツ氏は3位". 2008年11月12日 閲覧。
  7. ^ a b カニンガム 55-56頁
  8. ^ ジャネット・ロウ(1999) 222-223頁
  9. ^ USATODAY.com (2004年12月14日). "Bill Gates elected to Berkshire Hathaway board". 2008年11月12日 閲覧。
  10. ^ (pdf) (2006年6月10日). "バークシャー・ハサウェイWebサイト". 2008年11月12日 閲覧。
  11. ^ a b ニューヨーク・タイムズ (2006年6月26日). "Buffett to Give Bulk of His Fortune to Gates Charity". 2008年11月12日 閲覧。
  12. ^ CNTE Japan (2006年6月27日). "米富豪バフェット氏、ゲイツの財団に300億ドル寄付--両氏が記者会見". 2008年11月12日 閲覧。
  13. ^ ジャネット・ロウ(1999) 125頁
  14. ^ ジャネット・ロウ(1999) 124頁
  15. ^ a b ジャネット・ロウ(1999) 155-157頁
  16. ^ フォーブス (2008年3月5日). "Warren Buffett". 2008年11月12日 閲覧。
  17. ^ ジャネット・ロウ(1999) 125-126頁
  18. ^ AskMen.com. "Warren Buffett". 2008年11月12日 閲覧。
  19. ^ CNBC.com. "Warren Buffett: A 'Very Happy Story With a Happy Ending'". 2008年11月12日 閲覧。
  20. ^ Roger Lowenstein. Buffett: The Making of an American Capitalist. p. 43.
  21. ^ ジャネット・ロウ(1999) 86頁、179頁
  22. ^ ジャネット・ロウ(1999) 146-147頁
  23. ^ ジャネット・ロウ(1999) 190頁
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  48. ^ カニンガム 170-174頁
  49. ^ カニンガム 152頁
  50. ^ ジャネット・ロウ(1999) 47-52頁、91-102頁
  51. ^ カニンガム 169-172頁
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  53. ^ カニンガム 25-26頁
  54. ^ ジャネット・ロウ(2001) 353-354頁、369-370頁
  55. ^ カニンガム169頁
  56. ^ ジャネット・ロウ(2001) 279-282頁
  57. ^ カニンガム 119-129頁
  58. ^ ジャネット・ロウ(1999) 8頁より。元の出典はRobert Dorr Investor Warren Buffett Views Making Money as 'Big Game,' Omaha World-Hearld 1985年3月24日
  59. ^ ジャネット・ロウ(1999) 33頁より。元の出典はJim Rasmussen Buffett Talks Strategy with Students Omaha World-Hearld 1994年1月2日 p.178
  60. ^ ジャネット・ロウ(1999) 19頁より。元の出典はAnthony Simpson The Midas ouch (New York:Dutton 1990) p.79
  61. ^ ジャネット・ロウ(1999) 58頁より。元の出典はWarren Buffett Triples Profits, 1994年5月14日 ニューヨーク・ポスト
  62. ^ ジャネット・ロウ(1999) 5頁より。元の出典はThe Forbes Four Handred Billionaires 1986年10月27日フォーブス400
  63. ^ ジャネット・ロウ(1999) 20頁より。元の出典は1994年のバークシャー・ハサウェイの年次報告書
  64. ^ ジャネット・ロウ(1999) 6頁より。元の出典は1988年のバークシャー・ハサウェイの年次報告書
  65. ^ ジャネット・ロウ(1999) 129頁より。元の出典はWarren Buffett Talks Business The University of North Carolina,Center for Public Television,Chapel Hill 1995年
  66. ^ ジャネット・ロウ(1999) 215頁より。元の出典はAndrew Kilpatrick,Of Permanet Value:The Story of Warren Buffett,(Birmingham:APKE,1994) p.508
  67. ^ BERKSHIRE HATHAWAY INC.. "Letters from Warren E. Buffett Regarding Pledges to Make Gifts of Berkshire Stock". 2008年11月12日 閲覧。

[編集] 参考文献

  • ローレンス・A.カニンガム 『バフェットからの手紙』 増沢浩一監訳、パンローリング、2000年。ISBN 4-939103-21-8
  • ジャネット・ロウ 『ウォーレン・バフェット』 平野誠一訳、ダイヤモンド社、1999年。ISBN 4-478-36044-8
  • ジャネット・ロウ 『投資参謀マンガー』 増沢和美訳、パンローリング、2001年。ISBN 4-939103-43-9