ウェリントン公アーサー・ウェルズリー
| 初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington
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初代ウェリントン公(サー・トマス・ローレンス画)
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| 生年月日 | 1769年4月30日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1852年9月14日 (83歳没) |
| 死没地 | |
| 前職 | 軍人 |
| 所属政党 | トーリー党 |
| 称号 | ガーター勲章、バス勲爵士 (GCB) 王立協会員[1] 他 |
| 配偶者 | キャサリン・パクナム |
| サイン | |
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| 任期 | 1828年1月22日 - 1830年11月16日 |
| 国王 | ジョージ4世、ウィリアム4世 |
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イギリスの首相
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| 任期 | 1834年11月17日 - 1834年12月9日 |
| 国王 | ウィリアム4世 |
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769年4月30日-1852年9月14日)は、イギリスの軍人、政治家。外務大臣をつとめた初代ウェルズリー侯爵リチャード・ウェルズリーは兄。ナポレオンとの戦いで軍功を重ね、最終的にワーテルローの戦いで打ち破ったことで知られる。通称は「鉄の公爵」(Iron Duke)。後に首相となる。愛馬はコペンハーゲン。
目次 |
[編集] 経歴
初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリーとアン夫妻の四男としてアイルランドのダブリンに生まれる。1781年、父の死に伴いブリュッセルに移住、次いでフランス西部アンジェのピニロール陸軍士官学校に入学する。この時に習得したフランス語はのちに非常に役に立つことになる。
1787年に73連隊に入隊、軍人としてのキャリアを開始する。1790年にアイルランド議会の議員に選出されると、革命フランスとの開戦準備や、カトリック教徒への参政権付与などを主張する。1794年には対仏連合軍傘下の軍人として初の実戦参加を果たし、ベルギー・オランダ戦線でヨーク公フレデリック王子率いる軍勢の退却作戦を支援した。
1797年にはカルカッタに赴任、ベンガル地方の治安警備を担当する。その後1799年の第四次マイソール戦争、1803年のマラータ同盟との戦闘などを経て軍人としての頭角を顕し、1804年には本国よりナイト爵を叙された。しかしこの年フランス第一帝政が成立すると、近い将来に起こりうるナポレオンとの対決を睨んで翌年には依願帰国した。
帰国直後には早くもハノーファー遠征軍に従軍。1806年にはイギリス議会の庶民院(下院)議員に選出され、この同年ラングフォード卿の娘キャサリン・パクナムと結婚した。翌年にはアイルランド担当大臣に就任する。同年コペンハーゲンに遠征し、ナポレオンと提携するデンマーク軍を撃破、その功で翌1808年には陸軍中将に進級した。
同年、イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに反抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、約9000の兵を率いて同地に出兵する。初め半島西北端のア・コルーニャに上陸し、次いでリスボンに進軍してジュノー将軍指揮下のフランスのポルトガル遠征軍を撃破。こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣された。同年7月、イギリス・スペイン混成軍を率いて、タラベラ・デラレイナで大激戦の末フランス軍を撃破。この時ナポレオンはウィーンに駐留していたが、この報に接し初めてウェルズリーの存在を強く意識するようになったといわれている。またこの年、ウェルズリーは一連の武勲で「タラべラおよびウェリントンのウェリントン子爵」および「ウェリントンのドゥロ男爵」に叙され、通称「ウェリントン子爵」となった。
その後もポルトガルを拠点にフランス軍への抵抗を続け、1810年にはリスボンに侵攻してきたフランス軍を撃退し、ポルトガル攻略を断念させた。1812年にはスペインにおけるフランス軍の勢力衰退を見て同国に侵攻し、マドリードを攻略して占領下に置くことに成功。その戦功をもって「ウェリントン伯爵」、同年10月には「ウェリントン侯爵」に叙された。やがてロシア遠征の失敗などを経てナポレオンが四面楚歌の状態に陥ると、イベリア半島におけるウェリントンの勝利は決定的なものとなり、1813年にはピレネー山脈を越えてフランス領内に侵攻する。1814年4月にトゥールーズ郊外でナポレオン退位の報に接し、同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。またこの功で「ウェリントン公爵」に、すなわち王族でない貴族が登りうる最高位に、わずか45歳の若さで叙されている。
同年7月にはフランス駐在イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議でカッスルリー外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日のワーテルローの戦いではブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。
その後は政治家として活躍し、1828年には首相に就任、イギリス最後の公爵位を持つ首相となった。首相としての事績では、国教会成立後さまざまな差別を受けていたカトリック教徒の人権を擁護した1829年の「カトリック解放令」が画期的なものとして知られるが、全般的にはその政策はむしろ保守主義が目立った。彼が旧式の軍隊編成に固執したことがクリミア戦争における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったとして、フローレンス・ナイチンゲールはその政治手腕に否定的な評価を下している。
他にオックスフォード大学の総長も務めており、1971年から1991年にかけて用いられた5ポンド紙幣にその肖像が使用されていた。また、史上初の鉄道の開通式(1825年)に招かれた賓客でもあったが、ロケット号による死亡事故が起きて以後は大の鉄道嫌いになったといわれる。
[編集] 略歴
- 1802年 - 陸軍少将
- 1806年 - 庶民院(下院)議員
- 1807年 - バス勲爵士
- 1807年 - アイルランド相
- 1808年 - 陸軍中将
- 1808年 - イベリア戦争(半島戦争)に従軍
- 1809年 - ウェリントン子爵
- 1812年 - ウェリントン伯爵
- 1812年10月 - ウェリントン侯爵
- 1813年 - 陸軍元帥
- 1813年 - ドイツ・フランス戦役(フランス戦争)に従軍
- 1814年 - ドゥロ侯爵およびウェリントン公爵
- 1814年 - 貴族院(上院)議員
- 1815年 - ウィーン会議主席全権代理
- 1815年 - ワーテルローの戦いで決定的な役割を果たす
- 1827年 - 陸軍総司令官
- 1828年 - 首相(〜1830年)
- 1834年 - 外務大臣(〜1835年)
- 1841年 - 無任所大臣
- 1842年 -陸軍総司令官(〜1852年)
[編集] 爵位
- イギリス
- ウェリントン公
- ウェリントン侯
- ドゥロ侯
- ウェリントン伯
- タラヴェラおよびウェリントンのウェリントン子爵
- ウェルズリーのウェリントン男爵
- オランダ
- ワーテルロー大公
- スペイン
- シウダード・ロドリゴ公
- ポルトガル
- ヴィットリア公
- トレス・ヴェドラス侯
- ヴィミエロ伯(以上、ポルトガルにおける爵位)
- フランス
- ブルノワ公
等。
[編集] 出典
- ^ “Wellesley; Arthur (1769 - 1852); 1st Duke of Wellington” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Sir Arthur Wellesley (英語)
- MEDALLIONS OF THE NAPOLEONIC ERA>Wellington (ナポレオン時代のメダル集の内、ウェリントン公に関するもの)
- Acte du Congrès de Vienne du 9 juin 1815 (ウィーン会議議定書。ウェリントン公の名がその全称号とともに記載)
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