ウィリアム1世 (イングランド王)
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ウィリアム1世(William I、1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド王(在位:1066年 - 1087年)。通称・征服王(William the Conqueror)。ノルマンディー公(ギヨーム2世、在位1035年 - 1087年)のままイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて、現イギリス王室の開祖となった。
ウィリアムは英語読みであるが、むしろフランス語読みのギヨーム (Guillaume) と呼ぶ方がふさわしいだろう、という見解もある。彼の墓には GUILLELMUS と綴られている(右下図)。
[編集] 生涯
ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノルマンディー公の系譜の一人として、ロベール1世があり、その庶子として、フランスのファレーズで生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アーレッテ。そのため庶子公ギヨーム (Guillaume le Bâtard) とも呼ばれる。
1035年、ギヨームは、父ロベール1世を継いでフランス王の臣下であるノルマンディー公になり、領内の安定化に尽力して勢力を蓄えると、1050年、アルフレッド大王の子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚してイングランド王家と縁戚を得るに至った。マティルダとの間に、ノルマンディー公ロベール、イングランド王ウィリアム2世、ヘンリー1世、アデラ(スティーブンの母)など。
このころイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けたが、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイングランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので、世嗣のいないエドワードの跡を周辺国の王や諸侯たちは虎視眈々と狙っていた。
1066年1月にエドワードが後継者を定めないまま死去すると、イングランド王家と連なるハロルド2世が名乗りをあげてイングランド王に即位した。その弟トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル3世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。
この機にギヨームもエドワードから王位継承を約束されていたとして、1066年9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸に侵入した。両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティを破ると、反転して10月14日にヘースティングスでギヨーム軍と戦った(ヘースティングスの戦い)。
騎士を主力とするギヨーム軍ははじめ徒歩のハロルド軍に苦戦を強いられたが、敗走と見せかけて後退した。それを追ってハロルド軍が分散するのを見届けると、これを各個撃破して戦況を好転させ、ついにはハロルド2世を討ち果たした。1066年12月25日、ギヨームはウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。
その後ウィリアム1世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うと、それを家臣に与えイングランドに封建制度を確立した。1085年には最初の土地台帳とも言うべきドームズデイ・ブック (Domesday Book) が作成され税制度が定められた。また1072年にカンタベリーとヨークの両大司教の争いに干渉し、カンタベリー側に肩入れしてこれを第1位の大司教と定め、イングランド宗教界を傘下におさめることにも成功した。
1087年、フランス遠征中に落馬して受けた傷が原因でウィリアム1世は亡くなった。次男ウィリアムはウィリアム2世としてイングランド王に即位し、長男ロベールがノルマンディー公に叙位された。のちにロベールはフランス王フィリップ1世と結んで2度に渡ってウィリアム2世と対峙した。
ウィリアム1世のイングランド征服(ノルマン・コンクエスト)の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだ。またウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代とともに現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。
[編集] ウィリアム1世の死
ウィリアム1世は、フランス、ルーアンに近いサン・ジャーヴェにて60歳で崩御した。死因は、マンテの攻城戦の折、落馬したとき鞍頭で受けた胴部の傷が原因だった。ウィリアムはノルマンディのカーンにあるセントピーターズ教会で埋葬された。
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