ウィリアム・ワート (司法長官)
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ウィリアム・ワート
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第9代 アメリカ合衆国司法長官
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| 任期 1817年11月13日 – 1829年3月4日 |
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| 大統領 | ジェームズ・モンロー ジョン・クィンシー・アダムズ |
| 前任者 | リチャード・ラッシュ |
| 後任者 | ジョン・バーリン |
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| 出生 | 1772年11月8日 メリーランド植民地ブレイデンスバーグ |
| 死亡 | 1834年2月18日(61歳) ワシントンD.C. |
| 政党 | 民主共和党, 反メイソン党 |
| 配偶者 | ミルドレッド・ギルマー(1799年没) エリザベス・ワシントン |
| 専業 | 弁護士, 政治家 |
| 信仰 | 長老派教会 |
| 署名 | |
ウィリアム・ワート(英: William Wirt, 1772年11月8日 - 1834年2月18日)は、アメリカ合衆国の政治家。
ジェームズ・モンロー、ジョン・クィンシー・アダムズ両大統領の下で、1817年から1829年まで約11年半にわたってアメリカ合衆国司法長官を務めた。
生涯 [編集]
1772年11月8日、ワートはメリーランド植民地ブレイデンスバーグにおいて誕生した。ワートは家庭教師の下で教育を受け、法律を学んだ。ワートは1792年にバージニア州で弁護士として認可を受け、同州カルペパー郡裁判所で弁護士業を開業した。ワートは弁護士として数年を過ごした後、バージニア州下院事務官となり、続いてバージニア東地区の地方検察官となった。1807年、ワートはトーマス・ジェファーソン大統領からアーロン・バーの反逆裁判の担当検察官を要請された。1816年、ワートはジェームズ・マディスン大統領からバージニア地区の連邦地方検察官に任ぜられた。
1817年11月、ワートはジェームズ・モンロー大統領から第9代アメリカ合衆国司法長官に指名された。ワートは続くジョン・クィンシー・アダムズ政権下でも司法長官を継続し、アダムズ大統領の任期満了となる1829年3月まで約11年半にわたって司法長官を務めた。司法長官退任後、ワートはボルチモアに居住した。
1830年6月、連邦政府がインディアン強制移住法を制定すると、ジョン・ロスを首長とするアメリカ先住民族チェロキーはジョージア州を相手に訴えを起こした(チェロキー対ジョージア州事件)。チェロキーの代表団は連邦上院議員ダニエル・ウェブスターおよびセオドア・フリーリングハイゼンの勧めを受けて、ワートに弁護を依頼した。ワートはこの要請を受け入れ、「チェロキー国はわれわれの憲法や法律が及ばないという意味で異国であり……」と述べ、ジョージア州の権限はチェロキー国内に及ばないと主張した。ワートは最高裁判所に対して、ジョージア州の法律が合衆国憲法、合衆国とチェロキーとの条約、合衆国の外交諸法律に違反するという理由で、ジョージア州のいかなる法律もチェロキー国内において無効であるとする判決を求めた。その結果、最高裁判所はチェロキーの主張する土地所有権を認め、ジョージア州法はチェロキー国内には及ばないとの判断を示した。
チェロキーの裁判後、ワートはワシントンD.C.を離れメリーランド州ボルチモアに戻った。1832年、ワートは反メイソン党からアメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、敗北した。そして1834年2月18日、ワートはワシントンD.C.において死去した。ワートの遺体は議会墓地に埋葬された。
参考文献 [編集]
- Raphael, Ray. Founding Myths: Stories that Hide our Patriotic Past. New Press, 2004.
外部リンク [編集]
| 司法職 | ||
|---|---|---|
| 先代: リチャード・ラッシュ |
アメリカ合衆国司法長官 Served under: ジェームズ・モンロー, ジョン・クィンシー・アダムズ 1817年11月13日 - 1829年3月4日 |
次代: ジョン・バーリン |
| 党職 | ||
| 先代: 空席 |
反メイソン党大統領候補 1832年(落選) |
次代: 空席 |