ウィリアム・ペティ

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ウィリアム・ペティ

サー・ウィリアム・ペティSir William Petty, 1623年5月27日 - 1687年12月16日[1]は、イギリス医師、測量家、経済学者労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学統計学の始祖ともいわれる。ハンプシャー州生まれ。オックスフォード大学解剖学教授やアイルランドの軍医総監などをつとめた。子孫はホイッグ党自由党の名門ランズダウン侯爵家として現在も続いている。

経歴[編集]

1623年、ハンプシャー州ラムジー市で織元の第3子として生まれ、上の兄姉が早くに亡くなったため、事実上の長男として育つ。1637年、14歳のときイギリス商船の水夫となったが、10ヶ月間の航海の後、フランスカーン市に置き去りにされた。カーンにあるイエズス会のカレッジで学芸(リベラル・アーツ)を学び、1640年頃にイギリスに帰国。1643年にオランダへ渡航するまでイギリス国王海軍で勤務した。

1644年にライデン大学医学部に入学。ライデン大学でフランシス・シルヴィウス教授から、解剖学と医化学を学んだと推測される。[2]アムステルダム大学ジョン・ペル教授に代数学を学ぶと共に、ペルの助手として働き、当時ロンゴモンタヌスとの間でペルが論争をしていた円積法の問題について、ペルの駁論をルネ・デカルトらヨーロッパ各地の学者に送った。1645年11月頃にオランダを離れ、フランスのパリに移る。ペルの紹介状によりトマス・ホッブズの知己を得て、その縁によりマラン・メルセンヌを中心とするサークルに参加。メルセンヌ、ホッブス、デカルト、ジル・ド・ロベルヴァルクロード・ミドルジュらサークルに集った当代フランスにおける著名な科学者・知識人と交流した。ホッブスとは光学や解剖学の分野で協働し、数学的論証を重視する姿勢に大きな影響を受けた。

1646年、ラムジーに戻り織元を継ぐも、発明品(複写器)の販売のためロンドンに居を移す。フランシス・ベーコンの学徒らと交わり、王立協会の前身の一つサミュエル・ハートリッブを中心とするロンドン理学協会(不可視の学院en:Invisible Collegeと同一)に参加。ベーコンの経験論的な実験方法に強い影響を受ける。また、この時期に親友ジョン・グラントと知り合ったと考えられている。やがて共和国軍によるオックスフォード大学の改組で、オックスフォード駐留軍の司令官であったグラントの義弟トーマス・ケルシーらの強い証言もあり、オックスフォード大学に迎えられた。ここで医学博士の学位を得、1651年解剖学講座の教授となった。さらにオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジの副学長となり、グラントの斡旋によりグレシャム・カレッジの音楽教授となった。絞首刑に処せられた少女アン・グリーンの蘇生に成功するなど、ペティの解剖学者・医者としての名声は高く、オックスフォードにおける理学協会の集会も当初ペティの宿舎で行われた。

1652年、共和国によるアイルランド派遣軍の軍医総監に任命され、またアイルランド総督チャールズ・フリートウッド将軍の侍医となり、アイルランドに渡る。測量総監ベンジャミン・ウォースリーの実施方法を批判し、自らの指揮による測量を提案。この提案が採用され、1655年よりペティによる科学的な測量(ダウン・サーヴェイ、Down Survey)が実施された。募集された叛徒の土地は測量結果により派遣軍に出資・参加した各階層に分配され、ペティはその責任者に任命された。ペティは兵士に与えられた給与債務証書を買い集め、ケリー州及びその他地域で広大な土地の領主となる。さらにアイルランド総督ヘンリー・クロムウェル[3]の秘書となり、クロムウェル家の庇護の下、イギリスのウエスト・ルー選出の下院議員となった。しかし、オリバー・クロムウェル死後の共和国末期にアイルランドでの不正行為を告発され、すべての公職から追放されロンドンに戻った。

王政復古以後チャールズ2世の庇護を受け、1661年4月ナイトに叙任。さらに共和国時代に得たアイルランドの領地も再度国王から授与された。社会的地位と領土を回復したこの時期に、ペティの学者としての名声は最も大きなものとなる。自然科学分野では、「不可視の学院」の後身である王立協会のフェローとなり[4]、力学や船舶の建造など幅広い分野での報告を提出。1673年には副会長に選出。1684年のダブリン理学協会(後のダブリン王立協会)の創立に尽力し、会長に選ばれた。

経済学分野における主要な著作は全て王政復古期に書かれている。1662年の初めにペティとの協働とされるグラントの著作『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』が出版され、さらに同年4月頃ペティによって財政論『租税貢納論』が匿名で出版された。1665年に戦時財政論『賢者には一言をもって足る』が執筆され、ペティの死後1692年に 『アイルランドの政治的解剖』の付録として出版された。[5]第3次英蘭戦争によってイギリスが苦しい状況に追い込まれていた1670年代前半には、英・仏・蘭の国力を数量的に比較した『政治算術』、アイルランドの政治構造を分析した『アイルランドの政治的解剖』を執筆。それぞれペティの死後、1690年に『政治算術』、1692年に『アイルランドの政治的解剖』が出版された。1682年、貨幣の改鋳問題を扱った『貨幣小論』が出版。1683年に『ダブリンの死亡表に関する諸観察』、1687年に『アイルランド論』が出版された。

1666年から領地経営にあたるためアイルランドに赴いている。ペティは著作に述べられているアイルランド開発計画を自らの領土で実践し、清教徒のイギリス人をアイルランドに入植させ、製鉄業や製材業といった産業を創設し、橋梁の建設や私鋳貨幣の鋳造など植民地運営に必要な政策をとった。その経験によって得られた諸観察によって、研究を発展させていったのである。1685年ロンドンに戻り、1687年12月死去。

死後の1688年に妻のペティ夫人がシェルバーン男爵夫人に叙せられ、長男のチャールズ・ペティがシェルバーン男爵となる。1696年にチャールズは早死にするが、1699年に末弟のヘンリー・ペティが爵位を継ぎ、1719年にウィリアム・ペティの業績によりダンケロン子爵とシェルバーン伯爵の爵位に叙せられた。1751年にヘンリーが死去すると、領地は甥のジョン・フィッツモーリス、ウィリアム・ペティの娘アン・ペティと初代ケリー伯トーマス・フィッツモーリスの間に生まれた第2子、に引き継がれ、ジョンはダンケロン男爵とフィッツモーリス子爵に叙せられた。1753年にシェルバーン伯爵となった。1761年にウィリアム・ペティと同姓同名の第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティがシェルバーン伯の爵位を継ぎ、1784年にランズダウン侯爵に叙せられ、以降はランズダウン侯として家名を現在まで残している。ランズダウンの爵位はウィリアム・ペティがアイルランドで実施した測量(Down Survey)に由来し、土地(Lands)を地図に書き記した(Laid Down)ことから名づけられた。

主な著作[編集]

  • 『租税貢納論』1662年
    邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1952年
  • 『政治算術』1671年-1676年頃執筆(1690年初版)
    邦訳版 大内兵衛 松川七郎訳、岩波書店、1955年
  • 『アイルランドの政治的解剖』1671年-1676年頃執筆(1692年初版)
    邦訳版『アイァランドの政治的解剖』 松川七郎訳、岩波書店、1951年 
  • 『貨幣小論』1682年初版
    邦訳「ペティの『貨幣小論』(1695年)」 松川七郎訳(久留間鮫造教授還暦記念論文集『経済学の諸問題』、1957年)
  • 『ダブリンの死亡表に関する諸観察』1683年初版
  • 『アイルランド論』1687年初版

ペティの法則[編集]

ペティの法則についてはペティ=クラークの法則を参照のこと。

公共事業[編集]

ペティは貧民救助や病院経営など社会政策経費と福祉費の増額を提唱し、貧民対策として公共土木事業に労働者を投入すべきことを提言した。租税貢納論では著名なピラミッドの寓喩を用い「かりにソールズベリ高原に無用なピラミッドを建設しようが、ストーンヘンジの石をタワーヒルにもってこようが、その他これに類することをしても」公共事業に労働力を投入することは有用であるとして公共事業の経済的・社会的効果を提唱した。労働価値説を唱えた最初期の人物であり、のちのマルクス経済学の雛形をうかがうことが出来る[6]

注釈[編集]

  1. ^ 松川七郎著『ウィリアム・ペティ』には、生年月日が1623年5月26日とある。没年月日は本記事と一致。
  2. ^ 松川七郎著『ウィリアム・ペティ』p.107
  3. ^ 1657年に就任
  4. ^ Petty; Sir; William (1623 - 1687)” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
  5. ^ 岩波文庫版では、その財政論的な内容から『アイァランドの政治的解剖』ではなく、『租税貢納論』に附して収録されている。
  6. ^ 「「経費膨張の法則」に関する研究について」吉田義宏(広島経済大学創立二十周年記念論文集、広島県大学共同リポジトリ)[1]

参考文献[編集]

  • 松川七郎著『ウィリアム・ペティ 増補版』岩波書店、1967年
  • 大内兵衛・松川七郎訳『政治算術』岩波書店、1955年
  • 大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』岩波書店、1952年
  • 鈴木勇著『経済学前史と価値論的要素』学文社、1991年
  • 廣田司郎・斉藤博・重森暁編『財政学講義』有斐閣、1986年
  • 堀経夫編『原典経済学史 上』創元社、1961年
  • コリン・クラーク著『経済進歩の諸條件 下巻』大川一司・小原敬士・高橋長太郎・山田雄三訳編、勁草書房、1980年
  • 「「経費膨張の法則」に関する研究について」吉田義宏(広島経済大学創立二十周年記念論文集、広島県大学共同リポジトリ)[2]