ウィリアム・クロッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ウィリアム・クロッチ
William Crotch
1820年}
1820年
基本情報
出生 1775年7月5日
イングランドの旗 イングランド ノリッチ
死没 1847年12月29日(満72歳没)
イングランドの旗 イングランド トーントン
ジャンル クラシック
職業 作曲家オルガニスト

ウィリアム・クロッチWilliam Crotch 1775年7月5日 - 1847年12月29日)は、イングランド作曲家オルガニスト画家

生涯[編集]

クロッチはノーフォークノリッチに生まれた。棟梁の息子だった彼は、神童として非常に早くから音楽の才能を見せていた。3歳半のクロッチは野心家の母にロンドンへと連れられ、セント・ジェームズ宮殿チャペル・ロイヤルオルガン演奏を行うのみならず、国王ジョージ3世にもその腕前を披露している。1779年4月のロンドン・マガジン英語版はこう報じた。

彼は厳粛な音色と教会音楽、特に詩篇104篇英語版を最も好んでいるようだった。普通の楽曲やその一部、もしくは自らの好きな音を少しばかり奏でるや否や、彼は演奏を止めて腕白な少年のいたずらを始めた。すると大体は一緒に居た人の中から彼にケーキ、リンゴ、オレンジなどを与えて、もう一度演奏をさせようとする者が現れた(略)[1]


クロッチは後になり、このように演奏させるために過度の甘やかしが行われたことにより、自分が駄目な子どもにされてしまったと感じていた。彼は一時オックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジのオルガニストを務めており、後にカレッジを卒業して音楽学士を取得した。彼が作曲した『The Captivity of Judah』は、1789年6月4日ケンブリッジ大学トリニティ・ホール・カレッジ英語版で演奏された。クロッチが成人してから最も成功した作品はオラトリオPalestine』(1812年)である。1793年にはウェストミンスターの鐘の音を作曲していた可能性もある。

クロッチは1797年にオックスフォード大学から教授として迎えられ、1799年には音楽博士号を授与された。オックスフォード時代に画家のジョン・マルチェアー英語版と知り合い、クロッチもスケッチに手を出している。彼はマルチェアーのスタイルに倣い、自らの作品に正確な日付と時間を記録した。また1805年にはロンドンでジョン・コンスタブルに出会い、クロッチはより有名な画家に自らの習慣を伝達した。

1834年ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーがオックスフォード大学の学長に就任するのを記念し、クロッチは2作目となるオラトリオ『The Captivity of Judah』を作曲した。この作品は、彼がまだ幼かった1789年に書いたオラトリオとはあまり似ていない。1822年、クロッチは王立音楽アカデミーの初代学長に就任し、辞めるまでの10年間この職を務めた[2]。彼は晩年をサマセット州トーントンの息子の家で暮らし、1847年に突然この世を去った。

クロッチの門下生で著名な人物にはウィリアム・スタンデール・ベネットルーシー・アンダーソン英語版スティーヴン・コッドマンジョージ・ジョブ・エルヴィー英語版チプリアーニ・ポッターチャールズ・ケンジントン・サラマンがいる。

出典[編集]

  1. ^ The London Magazine, April 1779.
  2. ^ Temperley, Nicholas, and Heighes, Simon. "Crotch, William". ニューグローヴ世界音楽大事典 オンライン版 (要購読契約)

参考文献[編集]

  • Snowman, Janet (2010), “The left and right hands of the eighteenth-century British musical prodigies, William Crotch and Samuel Wesley”, Laterality: Asymmetries of Body, Brain and Cognition 15: 209–252, doi:10.1080/13576500903201792 

外部リンク[編集]