イージー・イー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
生前のイージー

エリック・リン・ライト(Eric Lynn Wright[1][2]1963年9月7日 -1995年3月26日 )はイージー・E(Eazy-E)の芸名で知られるアメリカ合衆国音楽プロデューサーラッパー実業家であり、ヒップホップ・グループN.W.A.での活動、ソロ活動、レコード・プロデュース、レーベル経営を行った。

ライトは敬愛の念をこめて「ギャングスタ・ラップのゴッドファーザー」と呼ばれている。

カリフォルニア州コンプトンで生まれた。10年生の時に高校を退学し、主に麻薬の売買で生計を立て、その後ルースレス・レコードを設立、ラッパーになった。

ルースレスのアーティストであるアイス・キューブが「ボーイズ・ン・ザ・フッド」を書くと、ドレーとキューブとイージーはN.W.A.を結成した。DJイェラ、MCレン、アラビアン・プリンスがグループ加入後、N.W.A.はアルバム『N.W.A.アンド・ザ・ポッセ』をリリース。

1988年、彼らは最大の問題作『ストレイト・アウタ・コンプトン』を発表。イージーがドクター・ドレーを契約から解放した後、グループはさらに二枚のアルバムを発表し、解散した。

イージーが影響を受けたのは主に1970年代ファンク・グループ、同時代のラッパー、そしてコメディアンたちである。多くの批評家が彼独特の包括的なスタイルについて言及した。All Music Guideのスティーヴ・ヒューイは「彼のラッパーとしてのスキルは最高のものではなかったが、彼固有の語法、大胆なリリック、明らかなカリスマが彼をスターにした」と要約した。


生涯[編集]

Cjと

エリック・ライトは1963年9月7日、ギャングの活動と犯罪で悪名高いカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のコンプトンに生まれた。[3][4] [5]

父親は郵便局員、母親は小学校の理事だった。ライトは高校をドロップアウトしたが、後に高校卒業資格を取得している。


ライトは主にドラッグを売ることで生計を立てた。ライトの友人ジェリー・ヘラーはライトがマリファナを売っていたことは認めたが、コカインは売っていなかったとしている。ヘラーが回想録『ルースレス』で述べているように、ライトが「ドープ・ディーラー」としての仮面を付けたのは防御のためであった。ライトはまた「サグ」としても知られていた。

ヘラーは以下のように語っている。

ストリートでは誰もが仮面をつけなくてはならなかった。丸腰で生き延びた者はいない。役柄が必要である。「サグ(Thug)」か、「ラッパー(Playa)」か「運動選手」「ギャングスタ(Gangsta)」か、「麻薬の売人(Dope Man)」のどれかになることになる。さもなければ残された役目は「犠牲者」だ。

「彼の育った地区は危険な場所だった。彼は身長が低かった。"サグ"というのはストリートでは広く認識された役割だった。それは、人々があなたをファックするのを防いでくれる。同様に、"ドープ・ディーラー"という役割もあなたに一種の特権と尊敬を与える」

1986年、23才の時までに、ライトは25万ドル(4000万円)を麻薬売買で稼いでいたとされる。しかし、当時急速に成長していたロサンゼルスのヒップホップ・シーンでもっとマシな生活ができるはずだと彼は決意した。1980年代中期に彼は親のガレージで歌を録音し始めた。

ルースレス・レコードはライト80%ヘラー20%の取り分で共同設立された。ヘラーによるとライトは最初に25万ドル(4000万円)、最終的には100万ドル(1億6000万円)を会社に投資したという。

 N.W.Aと『Eazy-Duz-It』 (1987–91) [編集]

Eazy-ER.I.P..jpg

N.W.Aはドレーとキューブが"en:Boyz-n-the-Hood"を作った時に結成され、メンバーはライト、ドクター・ドレーアイス・キューブ、後にDJイェラ、MCレン、アラビアン・プリンスも加わった。

コンピレーションである『N.W.A. and the Posse』は1987年11月6日にリリースされゴールド(50万枚)になった。

イージーEのデビュー・アルバム『Eazy-Duz-It』は1988年9月16日にリリースされ、12曲入りだった。当時の宣伝文句は「ウェスト・コースト・ヒップホップ、ギャングスタ・ラップ、ヒップホップの黄金時代」だった。

売れ行きは合衆国内だけで250万枚以上、ビルボード200では41位まで上がった。プロデュースはドクター・ドレーとDJイェラが行い、リリックの多くはMCレン、アイス・キューブ、ザ・D.O.C.が書いた。

『Eazy-Duz-It』はN.W.A最大の問題作『Straight Outta Compton』への道を切り開いた。『Straight Outta Compton』の中のライトのソロ曲は『8 Ball』のリミックスのみで、元々は『N.W.A and the Posse』の中の曲だった。『Straight Outta Compton』でライトは8曲でラップし、4曲の作詞を手伝った。

『Straight Outta Compton』のリリース後アイス・キューブは内輪もめでニューヨークに去り、グループは4人組で続くことになった。

N.W.Aは1991年にミニ・アルバム『100 Miles and Runnin'』とアルバム『Niggaz4Life』を発表。シングル『100 Miles and Runnin'』と『Real Niggaz』がリリースされると、グループとアイス・キューブの間でディスり合いが始まった。アイス・キューブは死刑に関する曲『No Vaseline』で応戦している。ライトはアルバム『Niggaz4Life』の12曲のうち7曲でラップしている。

1991年3月、ライトは当時の大統領ジョージ・ブッシュから共和党内の昼食会に招待された。ライトの代理人によると、湾岸戦争においてライトが果たした役割(兵士たちのストレス発散)によってイージーEは大統領を助けたとのことである。

N.W.Aの終焉とドクター・ドレーとのビーフ(1991–94)[編集]

ジェリー・ヘラーがバンドのマネージャーになるとN.W.Aはバラバラになり始めた。

ドクター・ドレーは「ジェリー・ヘラーがかかわるようになって亀裂が入った。彼は分割統治ゲームを支配したんだ。みんなを世話するんじゃなく、一人だけを依怙贔屓して、それはイージーだった。イージーは"俺はいい目を見てるんだから、それでいいや"ってなもんだった」と当時の様子を振り返っている。

ドレーはイージーとヘラーを疑いだしていたので、シュグ・ナイトを送り込み、イージーの経済的状況を調べさせた。ドレーはルースレス・レコードとの契約を解除してくれるようにイージーに頼んだが、イージーは拒絶した。修羅場は『Niggaz4life』レコーディング中のスタジオでシュグ・ナイトとイージーの間で起こった。イージーが頑としてドレーの解放を断ると、シュグ・ナイトはヘラーをヴァンに監禁してあるんだぞとイージーに言った。それでもイージーはドレーを手放すことを拒んだので、ナイトはイージーの家族のことを持ち出した。彼はイージーにイージーの母親の住所の載った紙切れを示して言った。「あんたのママがどこにいるかは分ってるんだぜ」。とうとうイージーは書面にサインし、公式にN.W.Aを終わらせることになった。

ドレーの処女作The Chronic』の中の一曲にイージーを侮辱するリリックが含まれていたため、ドレーとの仲たがいは続いた。イージーはEP『It's On (Dr. Dre) 187um Killa』の中の"Real Muthaphuckkin G's"と"It's On"で応戦した。1993年9月23日に発表されたそのアルバムの中にはドレーが10代のころにメンバーだったエレクトロ・ホップ・バンドWorld Class Wreckin' Cru時代の、レースの衣装を着てメーキャップをほどこしたドレーの写真まで含まれていた。

死去[編集]

Memorial Eazy-E made by streetartist LJvanT @ Leeuwarden the Netherlands.jpg

1995年2月24日、イージーEはぜんそくが悪化してロサンゼルスのシーダース・シナイ病院に入院した。彼はエイズと診断された。3月16日に彼は一般に自分の病気を公表した。イージーの初めての性交渉は12歳の時であり、6人の女性との間に7人の子供を設けていた。1995年3月26日、診断から一か月後、彼はエイズの合併症で亡くなった。西部時間の午後6時35分。彼は31才だった。

ドクター・ドレースヌープ・ドッグと電話で和解した後、3月20日に彼はファンに向けて最後のメッセージを送っていた。(幼馴染であるドレーが病院に駆け付けた時、イージーはすでに意識がなかった。)その一週間後に彼は病に倒れた。彼はカリフォルニア州ウィッティアにあるローズ・ヒル記念公園に埋葬された。1995年11月、イージーEの死のすぐ後に遺作アルバム『Str8 off tha Streetz of Muthaphukkin Compton』がリリースされた。

音楽的影響とスタイル[編集]

イージーEに影響を与えたのはアイスT、レッド・フォックス、キング・ティー、ブーツィー・コリンズランDMCリチャード・プライアー、エジプシャン・ラヴァー、スクーリーD、Too $hort、プリンスシュガーヒル・ギャング、そしてジョージ・クリントンである。『The Life and Timez of Eric Wright』というドキュメンタリーの中でイージーEは、これらのアイドルたちといつか仕事がしたいと発言していた。

遺作『Str8 off tha Streetz of Muthaphukkin Compton』のレビューにおいて、スティーヴン・トーマス・アールワインは、「イージーEは復活したように聴こえる。しかし、その音楽はあまり想像力に富んではいない。前進して確固たるスタイルを作ったというより慣れ親しんだギャングスタ領域にとどまり、重低音・うなるシンセサイザー・無意味な自慢に埋もれている」と書いた。


Allmusic の『Eazy-Duz-It』のレビューでジェイソン・バーチマイアーは、以下のように語っている。

「プロダクションにおいてドクター・ドレーとDJイェラはPファンクデフ・ジャム・スタイルのヒップホップ、そして80年代ロサンゼルスのエレクトロ・サウンドを融合し、緻密でファンキーな、真に独創的なスタイルを創造した。それは1988年においては本当に革命的に響いたものだった」

N.W.Aのメンバー、アイス・キューブThe D.O.C.、MCレンはアルバム『Eazy-Duz-It』のリリックを書いた。EP『5150: Home 4 tha Sick』の中にはノーティー・バイ・ネイチャーの書いた曲が含まれている。『Merry Muthaphuckkin' Xmas』という曲はMenajahtwa、Buckwheat、Atban Klannをゲスト・ヴォーカリストに迎えており、 『Neighborhood Sniper』ではコケインがゲストだった。『It's On (Dr. Dre) 187um Killa』はGangsta Dresta、B.G. Knocc Out、Kokane、Cold 187um、Rhythum D、Dirty Redをフィーチャーしている。『Str8 off tha Streetz of Muthaphukkin Compton』はB.G. Knocc Out、Gangsta Dresta、Sylk-E. Fyne、Dirty Red、Menajahtwa、ロジャー・トラウトマン、元N.W.AメンバーのMCレン、DJイェラをゲストに迎えている。

イージー Eの才能について、ドレーは「彼はアート・キャラクターだった」と述べている。

遺産[編集]

イージーEは「ギャングスタ・ラップゴッドファーザー」と呼ばれている。MTVのリード・シャヒームはイージーが「ラップのパイオニア」だったと言う。彼は批評家たちにより伝説と見なされる場合もある。Allmusicのスティーヴ・ヒューイは「彼はギャングスタ・ラップにおいて最も議論を呼んだアーティストの一人だ」と述べている。1995年の彼の死のあとにたくさんの本やビデオによる伝記が制作された。中には2002年の『The Day Eazy-E Died and Dead and Gone』もある。

彼のすべてのスタジオ・アルバムとEPはビルボード200にチャート・インした。彼の多くのシングル"Eazy-Duz-It" "We Want Eazy" "Real Muthaphuckkin G's""Just tah Let U Know"なども同様だ。1995年3月30日、イージーEの死の四日後、ミシガン・デイリー誌の芸術編集員トム・エラーワインはイージーの生涯に関する特集記事を掲載した。


ディスコグラフィー[編集]

ソロ作品[編集]

  • 1988 en:Eazy-Duz-It
  • 1992 5150: Home 4 tha SICK
  • 1993 It's On (Dr. Dre) 187um Killa
  • 1995 Str8 off tha Streetz of Muthaphukkin Compton
  • 2002 Impact of a Legend
  • 2007 Featuring...Eazy-E

N.W.A作品[編集]

参照[編集]

  1. ^ Miller, Michael (2008). The Complete Idiot's Guide to Music History. Alpha. p. 219. ISBN 1-59257-751-2. 
  2. ^ "Celebrities We've Lost To AIDS | Lifestyle|BET.com". Bet.com. 2007-11-19
  3. ^ Hochman, Steve (1995-03-28). "Rap Star, Record Company Founder Eazy-E Dies of AIDS Music: Singer, entrepreneur helped popularize 'gangsta' style with the group N.W.A. and later became a top-selling solo artist". Los Angeles Times.
  4. ^ "Hip-Hop News: Remembering Eric 'Eazy-E' Wright". Rap News Network. 2006-03-26
  5. ^ Harris, Carter (June–July 1995). “Eazy Living”. Vibe 3 (5): 62. 

外部リンク[編集]