イヴェット・ギルベール

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イヴェット・ギルベール、1913年
アンドレ・シネ(André Sinet)作のギルベールの肖像画(白黒写真)

イヴェット・ギルベール(Yvette Guilbert、1865年1月20日 - 1944年2月3日)は、ベル・エポック期のフランスで、カフェ・コンセール(Café-concert)などで活躍したキャバレー歌手女優パリに生まれ、エクス=アン=プロヴァンスで没した[1]

生涯[編集]

エマ・ロール・エスター・ギルベール(Emma Laure Esther Guilbert)として、貧しい家庭に生まれ、子どもの時から歌っていたが、16歳のときにパリの百貨店マガザン・デュ・プランタンモデルとして働き、ジャーナリストに注目された。働きながら発声や演技を学び、1886年には、小さな劇場の舞台に立つようになっていた。1888年には、ヴァリエテ劇場(Théâtre des Variétés)でデビューを果たした。やがてギルベールは、人気の高かったエルドラドというクラブで歌うようになり、次いでジャルダン・ドゥ・パリ(Jardin de Paris)を経て、1890年には、モンマルトルムーラン・ルージュヘッドライナーとして出演するまでになった。イギリスの画家ウィリアム・ローゼンステイン(William Rothenstein)は、回顧録の第1巻でギルベールのムーラン・ルージュ初出演について次のように書き留めている。

「ある晩、ロートレックがラヴィニャン通りまでやってきて、レオン・サンロフ(Léon Xanrof)の友人でもある新しい歌手が、初めてムーラン・ルージュに出ると知らせてくれた...僕たちが行ってみると、しとやかな容貌で、痩せて色白の、頬紅も付けていない若い少女が登場した。彼女の歌は、まったく対称的におしとやかなどというものではなかった。しかし、ムーランの常連はそう簡単には驚いたりしない。常連客たちは困惑しながらも、このまったく新しい、無垢さと、サンロフらしい恐ろしく意味深長な歌詞との結合を、見つめていた。見つめ、しばらくはそのままで、やがて歓喜の拍手が沸き起こった。」

ウィリアム・ローゼンステイン, W. Rothenstein, Men and Memories, Vol 1, pp 65–66

同じ1890年に、ギルベールは、知識人や芸術家、ボヘミアンたちが集まる店として知られていたル・ディヴァン・ジャポネにも出演するようになった[2]

舞台上のギルベールは、ふだんは黒の長手袋に明るい黄色の服を着て、ほとんど立ったまま動かず、歌に合わせて長い腕を動かしてジェスチャーをしながら、歌っていた。表現の革新者であったギルベールは、モノローグのような、やがて「パター・ソング (patter songs)」と称されるようになる部類の歌を好み、ポスターなどで「語り手」と紹介されることもよくあった。取り上げる曲の歌詞(その一部は自作したもの)は性的なもので、歌の主題は悲劇や失恋、彼女の出自でもあったパリの貧困などであった。1890年代には、やはり当時スターだったカム=イル(Kam-Hill)と一緒に定期的に舞台に上がり、タリド(Tarride)の曲を歌った[3]

新しいキャバレーのパフォーマンスを契機として、ギルベールは独特の性的にあからさまな歌詞で、それまでのミュージックホールの決まり事を打ち破り、聴衆を魅了した。20世紀初頭において、ギルベールは、その歌と、フランス庶民の姿の表現によって、フランス、イギリス、アメリカ合衆国で広く知られる存在となっていた。

ギルベールは、画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックのお気に入りの画題であり、数多くの肖像画やカリカチュアが描かれ、ロートレックの第2スケッチ集はギルベールに捧げられた。精神分析学の創始者ジークムント・フロイトは、ウィーンにおける公演を含めギルベールの舞台を何度も見ており、ギルベールをお気に入りの歌手だと公言していた[4]劇作家ジョージ・バーナード・ショーは、ギルベールの斬新さに焦点を当てた公演評を書いた。

ギルベールは、1895年から1896年にかけて、イングランドドイツアメリカ合衆国を回る巡業を行ない成功を収めた。その後も欧米各地での巡業を行ない、1906年には、ニューヨーク市ではカーネギー・ホールで公演している[5]1915年から1922年にかけての時期には、米国に滞在していた[5]。50代、60代になってもギルベールの名声は高く、数本のサイレント映画作品にも出演した。その中にはF・W・ムルナウ監督の『ファウスト (Faust)』における準主役級の役も含まれていた。その後はトーキーにも出演し、友人でもあったサシャ・ギトリ(Sacha Guitry)との共演作もあった。ギルベールが Le Voix de Son Maitre(フランスにおけるグラモフォンのレーベル)に吹き込んだ録音には、有名な「辻馬車 (Le Fiacre)」や、自ら作曲した「マダム・アルチュール (Madame Arthur)」などが含まれていた。ギルベールは、一部の曲では、ピアノの弾き語りを披露している。

ギルベールは、後の英国王エドワード7世王太子だったときに、コート・ダジュール(フレンチ・リヴィエラ)で開かれた私的なパーティーに呼ばれて演奏したことがある。当時、こうしたパーティーの接待役の女性たちは、競ってギルベールをパーティーに呼ぶようになっていた。

後に、ギルベールはベル・エポック期について本を書くことに注力し、1902年には小説2作品が出版された。1920年代には『L'art de chanter une chanson』(「シャンソンを歌う技術」の意)という指導書が出版された。ギルベールは、幼い少女たちのための学校をニューヨークとパリに開設した。

ギルベールは、母国フランスの中世民謡に関する権威としても尊敬を集めるようになり、1932年7月9日には「フランス楽曲の大使」としてレジオンドヌール勲章を授与された。

イヴェット・ギルベールは、1944年に79歳で没し、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた[6]

ギルベールの死から20年後、ベティナ・ナップ(Bettina Knapp)とマイラ・チップマン(Myra Chipman)による伝記『That Was Yvette: The Biography of a Great Diseuse』(New York: Holt, Rinehart & Winston, 1964)が出版された。

ギャラリー[編集]

フィルモグラフィ[編集]

出典・脚注[編集]

  1. ^ Yvette Guilbert”. Du temps des cerises aux feuilles mortes. 2011年11月3日閲覧。
  2. ^ Yvette Guilbert, la diseuse fin de siècle”. L'Histoire par l'image. 2011年11月5日閲覧。
  3. ^ Du Temps des cerises aux Feuilles mortes (French chanson from the end of the 2nd Empire to the 1950s website
  4. ^ フロイトがギルベールの舞台を最初に見たのは、ジャン=マルタン・シャルコーの夫人から勧められてエルドラドを訪れた1889年8月で、このときギルベールはまだデビューして間もなかった。その後、1897年にギルベールが結婚した医師マックス・シラー(Max Schiller)の姪エヴァ・ローゼンフェルト(Eva Rosenfeld)がアンナ・フロイトの友人であったことから、フロイトがギルベールのファンであることがギルベールに伝わり、ギルベールは自分の写真をフロイトに贈った。1926年、エヴァの計らいでフロイトとギルベールはウィーンで面会を果たした。その後、交流はフロイトの死の直前まで続き、ギルベールは1939年5月6日にも、献辞を添えた写真を贈っている。フロイトの死は9月23日のことであった。Yvette et Sigmund: Un peu d'histoire (PDF)”. Théâtre du Rond Point (2006年). 2011年11月4日閲覧。
  5. ^ a b Guilbert, Yvette”. The Androom Archives. 2011年11月4日閲覧。
  6. ^ “Yyette Guilbert, Singer, Dies at 79. Paris Shopgirl Won Success On Stage with Folksongs. Visited U. S. in 1895–96.”. New York Times. (1944年2月4日). http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70915FD34581B7B93C6A91789D85F408485F9 2009年7月24日閲覧。 

参考記事[編集]

  • Helena, Montana Daily Independent, Chit Chat Of Affairs Mundane In Land Of Gaul, Wednesday Morning, 10 November 1928, Page 11.
  • New York Times, Yvette Guilbert, Singer, Dies At 79, 4 February 1944, Page 16.

外部リンク[編集]