イヴェタ・ラジチョヴァー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イヴェタ・ラジチョヴァー
Iveta Radičová
2010年 EPPサミットにて
生年月日 (1956-12-07) 1956年12月7日(67歳)
出生地 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキアブラチスラヴァ市
出身校 コメニウス大学
所属政党 暴力に反対する公衆 (VPN, 1990-1992)
スロバキア民主キリスト教連合・民主党 (SDKÚ-DS, 2006-)
配偶者 スタノ・ラジチ (2005年没)

在任期間 2010年7月8日 - 2012年4月4日
テンプレートを表示

イヴェタ・ラジチョヴァー (Iveta Radičová、旧姓・カラフィアートヴァー : Karafiátová、1956年12月7日 - )は、スロバキア社会学者政治家首相2010年7月8日-2012年4月4日)。中道右派政党スロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS)の副党首。2009年大統領選挙に立候補したが決選投票でイヴァン・ガシュパロヴィチに敗退。2010年国民議会選挙では党の選挙対策本部長を務め、中道右派4党による連立政権の首相に就任した。同国における初の女性首相である。

略歴[編集]

ブラチスラヴァ市旧市街区ネドバルオヴァー通りで生まれる。かつてコシツェ市ジャーナリストを目指していた父親は、校正者としてブラチスラヴァ市内の印刷所に勤めていた。家庭の生活水準は低く、兄は自身の出生前に他界している。

1975年コメンスキー大学社会学部を卒業。1989年までスロバキア科学アカデミー社会学研究所の家族政策研究班コーディネーターを務めたあと、母校コメンスキー大学社会学部の講師となる。この間1990年には英国オックスフォード大学に留学した。

1990年から1992年まで非共産主義政治組織「暴力に反対する公衆」(VPN、Verejnosť proti násiliu)に参加したが特段の活動は行わないまま政治活動から離れ、1993年から1997年まで史跡アカデミアイストロポリターナ副所長、2005年までコメンスキー大学政治学部講師を務めた。同年、社会学部の教授となり、スロバキア科学アカデミー社会学部長に就任したが2007年に退職。以後コメンスキー大学社会学部講師を務めている。

夫は元社会学者で人気コメディ脚本家・司会者でもあったスタノ・ラジチ。2005年に死別した。

政歴[編集]

ヒラリー・クリントンと(2010年11月10日)

スロバキアにおける社会政策研究の第一人者である実績を買われ、任期途中の2005年に辞任したリュドヴィート・カニークの後任として第二次ミクラーシュ・ズリンダ内閣の労働・家庭・社会問題大臣を務めた。のち2006年国民議会選挙に立候補して初当選し、スロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS : Slovenská demokratická a kresťanská únia - Demokratická strana)に入党。党の社会問題・保健担当副代表に就任した。

2009年大統領選挙にSDKÚ-DSのほか右派政党5党の支持を受けて立候補し決選投票に進んだが、得票率44.47%で現職のイヴァン・ガシュパロヴィチに及ばず敗れた。大統領選直後の同年4月には、教育法改正案の議決時に演壇にいた同僚議員の分も投票した行為が明らかになり、議員を辞職した。

2010年国民議会選挙では、自らの政治資金疑惑で立候補しなかったズリンダ党首に代わり、選挙対策本部長として党の顔を務めた。SDKÚ-DSの得票率は15.42%で改選前より3議席少ない28議席にとどまったものの第二党の座を維持。第一党である方向・社会民主主義(SMER-SD : SMER-sociálna demokracia)と連立を組むスロバキア国民党(SNS : Slovenská národná strana)と人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS)が惨敗して与党が過半数割れしたことにともない、SMER-SDのロベルト・フィツォ首相による連立協議の申し入れを拒否した上で、中道右派4党による新連立政権を組閣。スロバキア初の女性首相となった。ラジチョヴァー政権は民主化後初めて閣僚全員が旧チェコスロバキア共産党および旧スロバキア共産党の党員歴のない内閣となった[1]

2011年10月11日にはギリシャの金融危機をめぐり欧州金融安定ファシリティ(EFSF)の機能強化を問う採決の際にラジチョヴァーの内閣信任案も同時に採決され、ともに否決されたため政権は崩壊[2][3]。これを受け野党が求めていた総選挙の2012年3月繰り上げ実施を受け入れ、EFSF機能強化案は10月13日の再投票では可決された[4]

2012年3月10日に繰り上げ実施した国民議会選挙ではSDKÚ-DSは11議席にとどまり敗北、SMER-SDが過半数を制したため首相を退任することとなった[5]。選挙後の5月3日、副党首を辞任すると同時にSDKÚ-DSから離党した。今後は政界を引退し、来年度よりイギリスオックスフォード大学で教鞭を執る予定である[6]

脚注[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代
ロベルト・フィツォ
スロバキアの旗 スロバキア共和国首相
第6代:2010 - 2012
次代
ロベルト・フィツォ