イワン・モジューヒン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
Ivan Mozzhukhin / Ivan Mosjoukine
イワン・モジューヒン
イワン・モジューヒン
クレショフ効果」実験で右側にいちいち引き合いに出されるモジューヒン。
本名 イヴァン・イリイチ・モジューヒン
Иван Ильич Мозжухин
別名 イヴァン・モジュキーヌ
(Ivan Mosjoukine)
ジョン・モスキン
(John Moskin)
生年月日 1889年9月26日
没年月日 1939年1月18日(満49歳没)
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サラトフ州(現ロシアの旗 ロシア ペンザ州)コンドル
死没地 フランスの旗 フランス オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
フランスの旗 フランス
職業 俳優脚本家映画監督撮影監督
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1908年 - 1936年
活動内容 1908年 映画に出演
1920年 フランスに移住
1921年 同地で映画を監督
1926年 アメリカに進出
1928年 ヨーロッパに帰る
配偶者 ナタリー・リセンコ
主な作品
スペードの女王
ペェター・セルギー

イワン・イリイチ・モジューヒンИван Ильич Мозжухин, 1889年9月26日 - 1939年1月18日)は、ロシア帝国(現ロシア)・フランス俳優脚本家であり、フランスの映画監督撮影監督である。フランスではイヴァン・モジュキーヌIvan Mosjoukine)、アメリカ合衆国ではジョン・モスキンJohn Moskin)と名乗った。

人物・来歴[編集]

1889年(明治22年)9月26日、ロシア帝国のサラトフ州(現在のロシアペンザ州)、ペンザ近くの小村コンドルに生まれる。

モスクワに出て、モスクワ大学で法学を学ぶ。1908年(明治41年)、映画に出演をしたのをきっかけに、友人と演劇を始める。1911年(明治44年)、ハンジョンコフ商会を率いるアレクサンドル・ハンジョンコフが製作したワーシリー・ゴンチャロフ監督の映画『セヴァストポリの防衛』に出演する。

ペェター・セルギー』(1917年)。

1917年(大正6年)の二月革命勃発を受けて、ハンジョンコフとともにクリミア半島ヤルタに移住、白軍に守られて映画出演をつづける。

1920年(大正9年)、監督のアレクサンドル・ヴォルコフらとともにフランスに移住した。ロシア帝国の時代に、すでに80本以上の商業映画に出演したが、ソビエト連邦成立後は、過去に出演した作品のすべてが没収されて国有化され、検閲された。翌1921年(大正10年)、同地で映画『謝肉祭の夜』を監督、監督としてもデビューした。マルセル・レルビエアベル・ガンスの映画に出演し、ルドルフ・ヴァレンティノに比され「ロシアのヴァレンティノ」と称された。

1926年(大正15年)、ユナイテッド・アーティスツに接触してアメリカに進出、エドワード・スローマン監督の『降伏』に出演するが、翌1928年(昭和3年)にはヨーロッパに帰り、ドイツを中心に映画に出演した。

1936年(昭和11年)、ジャック・ド・バロンセリ監督のフランス映画『地中海』に脇役で出演したのが最後の映画出演となり、同作は日本でも公開された。1939年(昭和14年)1月18日、フランスのオー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。満49歳没。

クレショフ効果[編集]

すでにモジューヒンがフランスに去ったのち、ソビエト連邦が成立した1922年(大正11年)、映画作家映画理論家レフ・クレショフが、全ロシア映画大学学内で行った、映画の「編集」と映像がもつ「意味」の関係についての実験に、モジューヒンの出演作品のアーカイヴ・フッテージが使用された。

おもなフィルモグラフィ[編集]

その他[編集]

小説『ロリータ』で知られるウラジーミル・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』の中では、モジューヒンのファンだったナボコフ少年が、ヤルタでロケ中だったモジューヒン本人に遭遇するエピソードがある。

[編集]

外部リンク[編集]