イブン・ナディーム

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イブン・アン=ナディームAbu’l-Faraj Moḥammad b. Abī Yaʿqūb Esḥāq al-Warrāq al-Nadīm, : ابو الفرج محمد بن إسحاق النديم‎)は、10世紀シーア派ムスリムの学者・伝記作家。本来なら「アン=ナディーム」のシュフラだけで呼ばれるところ、ナサブがついて呼ばれている[1]。ヒジュラ暦320(西暦932)年頃バグダードで生まれ、995年又は998年9月17日に死去。『目録の書』( الفهرست,Kitāb al-Fihrist, フィフリスト)の著者として有名。フィフリスト(pehrest/fehrest/fehres/fahrasat)という珍しいペルシア語を著作の題名として用いたことから、多くの学者にペルシア人だと考えられている[2]が、確証はない[1]

生涯[編集]

イブン・アン=ナディームその人について知られていることは極めて少ない。少なくとも父の代から大きな書店を経営しており、アラビア語写本を作成して販売していた。父子共に著名で社会的地位の高い人物であった[1]バグダードに住んでいたが、時々モスルの有力者ナーセル・アッ=ダウラNāṣer-al-Dawla (ヒジュラ暦358/西暦968年没)の邸宅に呼ばれて滞在している。なお、『目録の書』が編集された年である988年に、字義通り訳すと「ローマ人の地 "Dar al-Rum" にいる」と書いており、この記述をコンスタンティノープル(当時中東イスラーム世界からその名で呼ばれていた)にいるという意味に解釈する説[2]があったが、単にバグダード在住のキリスト教徒の隣人の家にいるという意味であろう[3]

イブン・アン=ナディーム父子の書店は、多くの学者、詩人、文化人の出合いの場所だったようである[1]。のちの『目録の書』に結実する深い教養は、高い文化度を誇ったバグダード社会を背景にしていた[1]。イブン・アン=ナディームが実家の書店で交流し、直接知っていることを教わった人の名前としては、次のような名前を挙げている。文法学者のアブー・サイード・アル=シーラーフィー(978-9年没)、詩人のアリー・ブン・ハールーン・ムナッジン(963年没)[注釈 1]シリア正教会のキリスト教徒哲学者ヤフヤー・ブン・アディー、文学史家アブー・ウバイドゥッラー・マルズバーニーなど[1]。とりわけ、哲学者のアブー・スライマーン・ムハンマド・ブン・バフラーム・マンティーキー・シジスターニーAbū Solaymān Moḥammad b. Ṭāher b. Bahrām Manṭeqī Sejestānī)とも親しく交わり、「先生」と呼んだ[1]。また、イブン・アル=ハンマールの別名でも知られるハッサン・ブン・ソワールは、シリア語の哲学書をアラビア語に翻訳した翻訳者・論理学者であるが、キリスト教徒であった[1]。さらに、アッ=ジャッラ一族のアリー・ブン・イーサーという「善良なる高官(: "Good Vizier")」という通り名で知られるギリシア、ペルシア、インドの学問に深く通じた学者の家にも出入りしていた。このように、イブン・アン=ナディームの交流関係は、主流派であるスンニ派ではない人々をとの交流を多く含み、彼はイスラーム以前のギリシアインドの科学を、その深い洞察と寛容な気風から尊重するようになった。特にアリストテレスの哲学を尊んだ。

なお、「アン=ナディーム(the companion,友達)」というあだ名は、Esḥāq b. Ebrāhīm Nadīm Mawṣelīというアッバース朝の宮廷音楽家との家族的なつながりがあることを示すという説もあるが[2]、疑わしく、アッ=ジャッラ一族のアリー・ブン・イーサーの息子、イーサーと仲が良かったことに由来するか、モスルの有力者ナーセル・アッ=ダウラNāṣer-al-Dawla (ヒジュラ暦358/西暦968年没)と仲が良かったことに由来すると考えられている[1]

イブン・アン=ナディームはまた、強いシーア派の信仰を持っていた。著作の中で、彼は「シーア」と呼ばず khassi と呼んだ。また、「スンニ」の代わりに 'ammi と呼んだ。原義通り訳せば「伝統の民」となる「アハル・ル=スンニ(スンニ派)」について言及するときは、「ハディースの民」と言った。また、普通は預言者ムハンマドに対してだけ、名前の後ろに付加して用いる「彼の上に平安あれ」というユーロジーを、シーア派イマームとムハンマドの直系子孫の名前の後ろにも付加した。さらに、第8代シーア派イマームのアリー・ムーサー・アッ=リダーマウラーナー英語版と呼んだ。

彼によると、ハールーン・アッラシードマアムーンカーディーとして仕えた歴史家アル=ワーキディー英語版もシーア派であったが、この事実はタキーヤ英語版により隠蔽されたという。また、正統派と呼んでよいのはザイド派であるとし、ムウタジラ派英語版は「正義の民(Ahl al-'Adl)」、アシュアリー派英語版は、al-mujbiraとした。サービア教徒の教義とは遠い考えを持っていたことと、彼らの歴史への関与に対して批判的であったことから、彼は特に、十二イマーム派に属していたと考えられる。また、あるシャーフィイー派法学者が隠れ十二イマーム派であったと言ったり、自分の知り合いの中にもシーア派がいると言ったりしたりしている。

フィフリスト[編集]

フィフリスト(Fehrest またはFihrist)はイスラーム以前のペルシアと古典イスラーム期のアラビア語文学に関する知識を残している点で重要な資料となっている。しかしナディームが記載しているペルシア語の著作はほとんど現存していない。著作の序文において、それはペルシア人やアラブ人やその他の人々により、アラビア語で書かれた著作の全ての索引であるとされている。フィスリストは938年に出版され、2つの写本が現存している。より完全な写本の方は10章に別れ、最初の6章は、イスラーム的な主題で書籍の詳細な目録となっている。

  1. ムスリムとユダヤ、キリスト教の聖典とクルアーンとハディース
  2. 文法と文献学
  3. 歴史、伝記、地理学
  4. 詩学
  5. 弁証法的神学
  6. 法律とハディース
  7. 哲学と科学
  8. 伝説、魔術、寓話
  9. 多神教の教義(マニ教、ヒンドゥー教、仏教、中国人の宗教)
  10. 化学

※後半の4章は非宗教的な内容となっている。

ナディームは、彼が目にしたか、または信頼できる人により存在が認められている著作のみ題名を伝えている。ナディームはしばし書籍のサイズとページ数も記載しているが、このことは、短い枚数でごまかそうとする筆写者に騙されなかった、ということだと思われる。

2つ目の短い写本の方は、一つ目の写本の序文と1章目の最初の節、及び最後の4章を伝えている。

フィフリストには、プラトンアリストテレスの著作、哲学の起源、千一夜物語の起源などが記載され、言及されている人物は3500人以上で、全員が著作家であるわけではないが、約6600点の著作(題名だけのものも含めて)が言及されている[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ムナッジン家(バヌー・ムナッジン英語版)はサーサーン朝の末裔で9,10世紀、アッバース朝に婚姻を通じて深く関与した名門である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i Sellheim & Mohsen 1999
  2. ^ a b c Nicholson 1907
  3. ^ Nallino 1911
  4. ^ 清水和裕「イブン・ナディームの『目録』」『イスラーム書物の歴史』p84,2014,名古屋大学出版会

参考文献[編集]