イフラヴァ

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イフラヴァ
Jihlava legionaru.jpg
イフラヴァ中心部
Jihlava prapor.gif Jihlava (CZE) - coat of arms.gif
位置
イフラヴァの位置の位置図
イフラヴァの位置
座標 : 北緯49度24分01秒 東経15度35分26秒 / 北緯49.40028度 東経15.59056度 / 49.40028; 15.59056
歴史
建設 1233年頃
市長 Jaroslav Vymazal
地理
面積  
  域 78.85 km2
標高 525 m
人口
人口 (2006年現在)
  域 50,676人
    人口密度   643人/km2
公式ウェブサイト : www.jihlava.cz

イフラヴァチェコ語Jihlavaドイツ語:Iglau)は、チェコヴィソチナ州の都市。イフラヴァ川沿いに位置する、モラヴィアボヘミアの間にまたがる古代の開拓地であった。チェコ最古の鉱業の町であり、クトナー・ホラより50年古い。

歴史[編集]

古いスラヴ人定住地が川の浅瀬上にあり(1233年に記載あり)、のち丘の近くにこの場所が移った。1240年頃、ヴァーツラフ1世によって鉱業の町となった。中世は住民のほとんどをドイツ人が占めていた(北バイエルンや上ザクセンからの移民)。中世の鉱田を労働者の定住地が取り囲み、その外側を中世の町の城壁が守っていた(中世の名はStare Horyだった)。伝承によると、銀鉱は799年頃には稼働していたという。しかしこれを立証する証拠はない。

フス戦争時代、イフラヴァはカトリックの本拠地で、包囲においても抵抗を支持した。イフラヴァでのちに、1436年7月5日フス派との和議を神聖ローマ皇帝ジギスムントが結んだ。町近郊の大理石製レリーフは、1527年フェルディナント1世がボヘミア領土への忠誠を誓った場所を示す。

三十年戦争中、イフラヴァは2度のスウェーデン軍占領を受けた。1742年プロイセン王国の手中に陥落した。1805年12月にはカール・フィリップ・フォン・ヴレーデ中将指揮下のバイエルン (Bayerische Armeeに、町近郊でプロイセン軍が打ち負かされた。作曲家グスタフ・マーラーはイフラヴァ近郊で生まれ、幼年時代を過ごしている。

1945年以前、イフラヴァはチェコスロバキア国内で2番目に大きなドイツ語話者の飛び地であった。第二次世界大戦後、ドイツ人住民が追放された。

その他[編集]

初期ゴシック様式の聖ヤーコプ教会、聖母教会、ドミニコ会派の聖十字架教会、バロック様式の聖イグナティウス・ロヨラ教会、ゴシックやルネサンス様式の細部を持つ市営ホールがある。ユダヤ人墓地にはグスタフ・マーラーの両親が眠る。

姉妹都市[編集]

外部リンク[編集]

 この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed (1911). Encyclopædia Britannica (11 ed.). Cambridge University Press.