イッセン・ハブレ
| イッセン・ハブレ Hissène Habré |
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| 任期: | 1982年6月7日 – 1990年12月1日 |
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| 出生: | 1942年9月13日(70歳) |
イッセン・ハブレ(Hissène Habré、1942年9月13日 - )は、チャドの軍人、政治家。同国元首(大統領)を務めた(在任1982年6月 - 1990年12月)。
内戦と政権掌握 [編集]
ハブレはチャド北部の出身。チャドは1960年の独立後、非イスラム主体の南部を基盤とするフランソワ・トンバルバイ政権が独裁を強化し、イスラム教徒の多い北部を冷遇していた。このため、早くから北部側ではグクーニ・ウェディ率いる反政府組織「チャド民族解放戦線(FROLINAT)」が組織され、ハブレも加わった。
トンバルバイがフェリックス・マルーム将軍のクーデターで殺害される(1975年)と内戦終結が図られ、ハブレは1978年8月に政府の首相に就任した。翌年にはグクーニ大統領、ハブレ国防相による民族統一暫定政府(GUNT)が発足した。
しかし、グクーニとハブレが対立し、ハブレ派の北部軍 (FAN)、グクーニ派の人民軍 (FAP)の間で再び内戦が勃発した(1980年3月)。これにチャド北部アオゾ地域のウラン資源を狙うリビアのカダフィ政権が介入し、カダフィ支援の下でグクーニが首都を制圧した(1980年12月)。リビア軍の撤退後、ハブレは1982年6月首都を奪回して10月に大統領に就任した。
政権運営と失脚 [編集]
1983年6月、グクーニ派はリビア支援の下で南下して再び内戦となり、1984年9月の停戦で北緯16度線でチャドを南北に分割支配することとなる。ハブレはフランスとザイール、アメリカの支援で対抗する一方、反政府勢力への残虐な弾圧が指摘された。チャド政府の調査委員会によると、ハブレ政権下で数万人の反体制派が殺害されたと発表している。
1989年4月、大統領側近によるクーデター未遂事件が発生し、このクーデターで亡命を強いられたイドリス・デビが、リビア支援下で愛国救済運動(MPS)を結成、1990年12月に首都ンジャメナを制圧し、ハブレはセネガルへ亡命した。
ハブレはその後、民族浄化・人道に対する罪と戦争犯罪により、EUやヒューマン・ライツ・ウォッチにより国際法廷への引渡しが要請され、2006年に引渡しが決定した。しかし、ハブレの亡命受け入れ国のセネガル政府は引渡しを拒否しており、国際司法裁判所は、2009年2月、セネガルの対応が「国際法を破っている」として非難した。
2008年にはチャドの裁判所により、欠席裁判で「国民に対する犯罪」の容疑で死刑判決を受けた。
ハブレは現在、ダカールの高級住宅街で亡命生活を送っている。
関連項目 [編集]
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