イーゴリ・シコールスキイ

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イーゴリ・シコールスキイ
Игорь Сикорский
Ігор Сікорський
シコールスキイの肖像
生誕 (1889-05-25) 1889年5月25日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国キエフ県キエフ
死没 1972年10月26日(1972-10-26)(83歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
コネチカット州イーストン英語版
配偶者 オーリガ・フョードロヴナ・シームコヴィチ
Elisabeth Semion
子供 タチヤーヤ、セルゲイ、ニコライ、イーゴリ、ゲオルギー
イヴァン・アレクセーエヴィチ
マリーヤ・ステファーノヴナ
業績
専門分野 飛行家、航空機設計
成果 世界初の4発航空機実用化
世界初の実用的なヘリコプターの開発に成功

イーゴリ・イヴァーノヴィチ・シコールスキイロシア語: Игорь Иванович Сикорский イーガリ・イヴァーナヴィチュ・スィコールスキイ[※ 1]英語: Igor Ivanovich Sikorsky イゴー・イヴァノヴィッチ・シコースキー、1889年5月25日 - 1972年10月26日)は、ロシア帝国キエフ(現・ウクライナ)の生まれの航空機のパイオニア。

自身飛行家でもあったイーゴリは、世界初の4発の大型機であるイリヤー・ムーロメツの開発をはじめ、多くの新型機をロシア帝国で生産した。しかしながら、1917年ロシア革命を受けてアメリカ合衆国へ亡命し、以後ロシアへ帰ることはなかった。アメリカにおいて彼はシコースキー・エアクラフトを創立し近代的なヘリコプターの開発をおこない、ベル・エアクラフトと並んで同国のヘリコプターの代名詞となった。

生涯[編集]

キーウにあるシコールスキイの銅像

シュラフタの家系の出身で、正教徒であった。父イヴァン・アレクセーエヴィチ心理学教授、母マリーヤ・ステファーノヴナはロシア人ウクライナ人のハーフで、医師であった。

少年時代から航空機に親しみ、模型飛行機の作成などからはじまり、その面白さにのめり込んでいったという。サンクトペテルブルクの海軍兵学校に入り、その後当時の航空機研究の最先端の地であったフランスに渡り研究を重ねた。

  • 1889年5月25日、ロシア帝国(帝政ロシア、現ウクライナ)のキエフの自宅で出生する。
  • 1909年ロシアに戻ってからヘリコプターの研究を行ったがうまくいかず、航空機の開発において大きな成果をあげることになる。
  • 1910年、シコールスキイ初の独自設計固定翼機となるS-1を制作する。
  • 1913年、世界初の4発機S-21 ルースキイ・ヴィーチャシを初飛行させるとともに世界初の量産4発旅客機S-22 イリヤー・ムーロメツを初飛行させた。これは第一次世界大戦においては爆撃機として使用された。
  • 1919年、学者であった父の死ののち[※ 2]、身の危険を感じ工場の技術者たちとともにフランスに亡命。戦後、アメリカに渡る。この際、妻のオリガは離婚し、娘のタニアとともに故国へ留まった。
  • 1923年、ニューヨークのロングアイランドにシコルスキー・エアクラフトを設立。この年、シコールスキイの妹達が娘のタニアを連れてアメリカへ移住してくる。
  • 1928年、水陸両用の飛行艇S-38を開発。これはアメリカ各地で広く使われ、彼とその会社の名を有名にした。また同年シコールスキイはアメリカに帰化する。
  • 1939年9月14日コネチカット州にて、シングルローターのヘリコプターVS-300をロープでつないだ状態で飛行させた。[1]
  • 1940年5月13日、VS-300の自由飛行に成功。
  • 1942年、ヘリコプターVS-316A(開発名XR-4)が軍用としてアメリカ政府に納入。
  • 第二次世界大戦後には、S-51にはじまるシリーズがベストセラーとなり、ヘリコプターが世界各地に普及してゆくきっかけとなった。
  • 1972年10月26日、亡命後ずっと住んでいた米国コネチカット州イーストンで死去。享年83歳。死因不明。

受賞歴[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 英語: Igor Sikorsky ウクライナ語: Ігор Іванович Сікорський
  2. ^ 病没。革命後の混乱で十分な治療が受けられなかった可能性があるが、一説にはチェキストによって逮捕されたのち病状が悪化したと言われる。シコールスキイの一家には身の危険が迫っていた。

出典[編集]

  1. ^ 吉川康夫 『航空の世紀』 技報堂出版、1996年

外部リンク[編集]