イオアニス・コレティス

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イオアニス・コレティス(ギリシャ語 Ιωάννης Κωλέττης, 1773年 - 1847年)はギリシャ独立戦争とその後のギリシャ政界において活躍した政治家。ロマンス語系言語を用いる少数民族であるアルーマニア民族出身。

[編集] 前半生

コレティスはイピロス地方Syrrakoで生まれ、イタリアピサで医学の教育を受けた。当時イタリアで巻き起こっていたカルボナリなどの民族主義思想の影響を受け、ギリシャオスマン帝国からの独立運動に参加する事になった。

1813年彼はイオアニアで医師を開業した。医業で成功を収め、アリ・パシャの子であるMuctar Pasaの侍医を務めるまでになった。1821年3月にギリシャ独立を目指す秘密組織フィリキ・エテリアに入りアルーマニア人村落でオスマン帝国に対する蜂起を呼びかけたが、トルコ側の弾圧にあい失敗した。

[編集] ギリシャ独立戦争

エピダウロスで開催された第一回ギリシャ国民会議に、彼はイピロス地方の代表として参加した。1822年には内務大臣の職に就いた。アストロスでの第2回国民会議以降ではエヴィア島の地方官に任命され、トルコ軍との戦闘に従事した。

彼は中央ギリシャにおける反乱軍を率いていたルメリ党に属し、クンドゥリオティスを元首とすることに反対するペロポネソス半島の反乱軍指導者と対立した。 第3回国民議会では、トルコ軍の物資が集積されていたペロポネソス半島の町を攻撃するためにテッサリアマケドニア地方から兵士を移送する任務についた。

イオアニス・カポディストリアスが1828年にナフプリオに到着すると彼はサモス島の総督に任命された。翌年には国防大臣となっている。カポディストリアスの暗殺後は1832年まで内戦が続き、彼は再びルメリ党の指導者となった。彼はテオドロス・コロコトロニスアウグスティノス・カポディストリアスとの3人で共同統治を試みたが、対立が深まり失敗に終わった。

[編集] オソン1世統治下での政治活動

西欧列強により国王に推挙されたオソン1世統治下で彼は陸海軍の大臣を歴任した。1835年にはフランス駐在大使に任命され、条約の調印や借款の交渉にあたった。1843年9月アテネで憲法制定を求めクーデターが発生すると彼はギリシャへ帰還した。1844年に行われた第一回総選挙では共に政党"フランス党"を結成し、"イギリス党"の指導者アンドレアス・メタクサスと共に政権を担当した。メタクサスの辞任後首相に任命され、1847年に死ぬまで職を務めた。

ギリシャ王国首相
1834年 - 1835年
先代:
アレクサンドロス・マヴロコルダトス
次代:
アーマンスベルク伯
ギリシャ王国首相
1844年 - 1847年
先代:
アレクサンドロス・マヴロコルダトス
次代:
ゲオルギオス・クンドゥリオティス