アーロン・プライヤー

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アーロン・プライヤー
基本情報
通称 シンシナティの荒鷲
ビースト(野獣)
階級 ジュニアウェルター級
身長 168cm
リーチ 175cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 1955年10月20日(59歳)
出身地 オハイオ州シンシナティ
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 40
勝ち 39
KO勝ち 35
敗け 1
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アーロン・プライヤーAaron Pryor、男性、1955年10月20日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサーオハイオ州シンシナティ出身。元WBAIBF世界ジュニアウェルター級王者。

歴代中量級ボクサーの中で最強の呼び声が高いボクサーの1人。デビュー以来36連勝のうち世界戦を含め26連続KO勝利の記録を持つ。そのボクシングスタイルは、おおよそ近代ボクシングらしからぬ荒々しいスタイルだが、野生の猛獣のようにしなやかな体と、無類のタフネス、相手が倒れるまでぶん殴る強打、そして無尽蔵のスタミナを生かした嵐のような連打を武器にアレクシス・アルゲリョアントニオ・セルバンテスらボクシング界に名を残す強豪を次々に打ち破っていった。現役時代の異名はシンシナティの荒鷲(The Hawk)、またはビースト(野獣)

また、息子のアーロン・プライヤー・ジュニアもプロボクサーである。 引退後はバプテスト教会助祭となった。

来歴[編集]

アマチュア時代[編集]

1974年、ナショナルゴールデングローブにライト級(60kg)で出場し準決勝で敗退[1]。全米選手権にライト級(60kg)で出場し決勝で敗退[2]

1975年、ナショナルゴールデングローブにライト級(60kg)で出場し優勝[3]

1976年、ナショナルゴールデングローブにライト級(60kg)で出場し決勝で5階級制覇を達成するトーマス・ハーンズに大差の判定勝ちをおさめ優勝[4]。同年モントリオールオリンピックの選考試合でハワード・デービスに2度敗れ[5][6]、モントリオールオリンピックは補欠での参加となった。

204勝16敗の戦績でプロへ転向。

プロ時代[編集]

1976年11月12日、4RKO勝ちでプロデビュー、400ドルのファイトマネーを稼いだ。ラロッサピザの創業者バディ・ラロッサとマネージャー契約を交わす。

ライト級で連勝を重ね1980年8月2日、1階級上のアントニオ・セルバンテスコロンビア)に4RKO勝ちし、無敗でWBA世界ジュニアウェルター級王座を獲得。5万ドルのファイトマネーを稼いだ。

1981年ロベルト・デュランと75万ドルで対戦するオファーがあるが、弁護士にラロッサと新しい契約を交わすまでは試合の契約をするなと指示される内に試合の話が流れてしまう。また、シュガー・レイ・レナードから50万ドルで対戦オファーがあるがプライヤーは断っている。

ファイトマネー75万ドルでシュガー・レイ・レナードと対戦する契約にサインをして試合が決定するする。しかし、1982年5月14日のレナード対ロジャー・スタッフォードを観戦に向かう途中に運転していた車のラジオからレナードが網膜はく離を患ったと聞き試合が中止になる。この時のことをプライヤーは「路肩に車を寄せ。俺は泣いたよ」と語っている。レナードは6ヵ月後に引退した。

1982年7月4日、亀田昭雄日本)と対戦し、1Rにダウンを奪われるも6RTKO勝ち(5度目の防衛)

1982年11月12日、フロリダ州のオレンジボウルアレクシス・アルゲリョニカラグア)と対戦し、いつも通りのインファイトを挑んだが後半は普段はあまり見せないアウトボクシングに徹し14Rにスタミナが切れてきたアルゲリョに連打を叩き込み失神させ14RTKO勝利を収める。プライヤーは160万ドル、アルゲリョは150万ドルのファイトマネーを稼いだ。しかし、トレーナーのパナマ・ルイスが試合中に取った行動が試合後大きな論争を巻き起こす。試合は13Rまでプライヤーの劣勢で進みジャッジのスコアカードでも2者がプライヤーの負けと採点していた。ここからプライヤーは14Rに逆転TKO勝利を収めるが、13Rのインターバル中にパナマ・ルイスが別のセコンドのアーティー・カーリーに「そのボトルじゃない、俺が混ぜたボトルを寄こせ」と指示する姿を中継したカメラに捉えられていた。この発言からパナマ・ルイスが精神刺激薬を混ぜた水を使ったのではないかと疑惑が浮上し、大きな論争が巻き起こる。ルイスとプライヤーは不正があった事を否定し、カーリーはペパーミント酒を混ぜていたと語った。なお、2009年に製作されたドキュメンタリー番組の中で、パナマ・ルイスがトレナーについたことのあるボクサーのルイス・レストは、パナマ・ルイスがスタミナ強化のために抗ヒスタミン薬を砕いて混ぜた水を使っていたと証言している。

1983年6月16日のビリー・コリンズ・ジュニア対ルイス・レストで、ルイス・レストのトレーナーについたパナマ・ルイスがボクシンググローブの中綿を抜く不正を働いていた事が発覚し、永久資格剥奪処分を受ける。このためプライヤーは別のトレーナーを雇うが、そりが合わなかったため、アルゲリョ再戦の2週間前に新たにエマヌエル・スチュワードをトレーナーとして雇った。

1983年9月9日、アルゲリョと再戦。序盤から主導権を握り1Rと4Rにダウンを奪い10Rにロープ際の連打で追い込み耐え切れなくなったアルゲリョがしゃがみ込んでKO勝ち。試合後にプライヤーとアルゲリョは共にボクシング引退を発表した。

1983年10月、指名挑戦者のジョニー・バンファスとの対戦を拒否したためWBA世界ジュニアウェルター級王座を剥奪される。

1984年3月、引退を撤回し復帰を宣言。USBA国際部(後のIBF)の設立時に初代世界ジュニアウェルター級王者に認定された。(プライアーは左眼に網膜剥離を患っていたが[要出典]当時は身体検査が甘くまた同団体はスター選手を必要としていた)

1984年6月22日、カナダで復帰戦を行い、ニック・フラーノを相手に15回判定で初防衛に成功するが、プライヤーがプロデビューから初めて判定まで行った試合になった。

この頃から麻薬に溺れ、試合を行えなくなった事で1985年12月にIBFに王座を剥奪される[7]

1986年10月、母親の首を絞めたとして逮捕される[7]

1986年12月、アレクシス・アルゲリョがプライヤーと偶然出会う。この時のことをアルゲリョは「彼の風貌にショックを受けたよ。彼は110ポンド(約50キロ)ぐらいまで痩せていた。近づいて『しっかりしろよ。アーロン。しっかりしろ』と呼びかけたけど、彼が理解出来ていたのか、聞こえていたのかさえわからなかった」と語っている。

1987年2月26日、女性を強姦監禁したとして逮捕される[7]

1987年8月8日、麻薬から足を洗ったと宣言し約2年半ぶりの試合を行うが無名のボビー・ジョー・ヤングに7RTKO負け。(唯一の敗戦)

1989年9月、プライヤーの車からコカイン吸引に使用したパイプを警察が見つけ起訴され、1990年4月に2年間の麻薬治療を命じられるが[8]、プライヤーは無罪を主張した。

1990年5月16日、約1年半ぶりの試合。ウィスコンシン州でダレル・ジョーンズと対戦し3RKO勝利。ジョーンズ戦の前にプライヤーは白内障網膜剥離の手術を受け、ネバダ州、カリフォルニア州、ニューヨーク州のアスレチックコミッションからボクシングライセンスの交付を拒否されていた[8]。ネバダ州のコミッションはプライヤーの左眼は医学的に失明状態にあると診断している。そのため、プライヤーは試合の結果どのような事になっても自己責任であると署名してウィスコンシン州からライセンスの交付を受けていた。

1990年12月4日の試合を最後に引退した。

1991年3月、故郷のオハイオ州シンシナティで販売目的でコカインを所持していたとして逮捕され[8]、約半年間刑務所に服役。その後、ドラッグリハビリセンターで出会った白人女性と結婚した。

1993年、麻薬依存を克服。

なお、現役時代、契約したマネージャーであるブディ・サロメに[要出典]デビューから引退まで獲得したファイトマネーの半分を搾取され人気ボクサーでありながら全く華やかな生活を送ることができなかったという。

戦績[編集]

アマチュア戦績:220戦204勝16敗

  • 通算戦績:40戦39勝(35KO)1敗
  • 世界戦戦績:11戦全勝(9KO)無敗

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 47.US National Golden Gloves - Denver - March 24-28 1974”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  2. ^ 84.United States National Championships - Knoxville - June 12-15 1974”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  3. ^ US National Golden Gloves - Knoxville - March 25-29 1975”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  4. ^ “[http://amateur-boxing.strefa.pl/Nationalchamps/USGoldenGloves1976.pdf 49.US National Golden Gloves - Miami - March 24- 27 1976]”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  5. ^ US Olympic Trials - Cincinnati - June 2-5 1976”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  6. ^ US Olympic Box-Offs - Burlington - June 26 - July 5 1976”. Amateur.Boxing.Strefa.pl. 2015年4月24日閲覧。
  7. ^ a b c Pryor Is Arrested on Rape Charge”. Associated Press (1987年2月27日). 2015年4月22日閲覧。
  8. ^ a b c Pryor Arrested on Drug Charges, Held in Cincinnati on $10,000 Bond”. Associated Press (1991年3月15日). 2015年4月22日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
アントニオ・セルバンテス
第24代WBA世界ジュニアウェルター級王者

1980年8月2日 - 1983年(返上)

空位
次タイトル獲得者
ジョニー・バンフス
空位
創設
初代IBF世界ジュニアウェルター級王者

1983年 - 1986年12月(返上)

空位
次タイトル獲得者
ゲーリー・ヒントン