アーガス (空母)

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アーガス
竣工当時の「アーガス」
基本情報
建造所 ビアードモア社
運用者 イギリス海軍
前級 ヴィンディクティヴ
次級 イーグル
艦歴
発注 ロイド・サバウドイタリア王国
起工 1914年
進水 1917年12月2日
就役 1918年9月16日
退役 1944年12月
その後 1946年スクラップとして売却
改名 コンテ・ロッソ (Conte Rosso)(起工時)
要目
常備排水量 14,450トン
満載排水量 15,775トン
全長 172.5 m
水線長 170.68 m
最大幅 20.7 m
飛行甲板
竣工時
143.3 m×25.9 m
1943年
167.0 m×25.9 m
吃水 6.4 m
機関 蒸気タービン
ボイラー 重油専焼円缶12基
主機 パーソンズ直結タービン(高速・低速)2組
推進 4軸
出力 20,000 hp
最大速力 20.3ノット
航続距離 12ノット/5,200海里
乗員 495名
兵装
竣工時
10.2cm(45口径)単装高角砲6基
7.62cm(40口径)単装速射砲3基
1943年
10.2cm(45口径)単装高角砲3基
2cm単装機銃13丁
装甲
  • 舷側:51 mm(水線部)
  • 甲板:51 mm
搭載機 約20機
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アーガス (英語: HMS Argus, I49) は[1]イタリア王国が発注した貨客船改造したイギリス海軍航空母艦[2][注釈 1]。同型艦はない。艦名はギリシャ神話アルゴスに由来する[4]

イギリス海軍が建造した巡洋戦艦改造空母フューリアス」や[5]巡洋艦改造空母ヴィンディクティブ」での使用実績を踏まえて設計された[6]

飛行甲板上に構造物を設けない、全通甲板/平甲板(フラッシュデッキ型[7]、フラットトップ型)を採用した最初の飛行機母艦であり[8]、事実上世界最初の実用的な航空母艦である[9][注釈 2][注釈 3]

本艦は、アメリカ海軍の「ラングレー」(給炭船改造、1922年就役)[13]日本海軍の「鳳翔」(1922年12月就役)[14]など、列強の空母開発に大きな影響を与えた[15]

概要[編集]

アーガスは1914年イタリアロイド・サバウド社が発注した大西洋横断用途の客船コンテ・ロッソ (Conte Rosso) として、グラスゴービアードモア社で起工した[9][注釈 4]。しかし進水前にイギリス海軍に買い取られ、ビアードモア社の協力により航空母艦として建造されることとなった[15]。ビアードモア社は1912年に飛行機母艦を設計して建造を申し出たことがあったがイギリス海軍に却下されており、本艦の空母改造決定にも影響を与えた可能性がある[16]。 本艦は1917年(大正6年)12月2日に進水し、第一次世界大戦終結直前の1918年(大正7年)9月16日に「アーガス」として竣工した。9月22日には日本海軍桑原虎雄大尉が[6]1919年(大正8年)1月24日には日本海軍関係者が本艦を視察している[17]

設計[編集]

第一次世界大戦で列強各国は水上機母艦を実戦投入したが、イギリス海軍は水上機のみならず、陸上機(車輪付航空機)を海上でも本格的に運用することにした[注釈 1]。そのための設備が本艦に備え付けられている。客船としてほぼ完成していた船体の上部構造物を撤去し、船首から艦尾にかけて全長いっぱいに飛行甲板をもうけた[18]。飛行甲板と船体の間に飛行機格納庫があり、船体から延長された側壁で閉鎖されている[18]。設計当初では飛行甲板上に凱旋門のような形状の艦橋を設け、中央部から艦載機を発艦させる設計であったが、途中で飛行甲板をフラットに変更し、艦橋は飛行甲板の下に設けるよう改められた[19]。いわゆる平甲板型[20]、フラッシュデッキ型[7] (Flush Deck Type) である[1]。港湾などの狭い水路を航海する時のために小型の操舵艦橋が甲板上にせり上がるという凝った機構となった。これは水圧式であったという[6]

兵装[編集]

設計年時が古いために旧世代な設計も残っていたが、これらは本艦の設計時期を考えれば致し方の無いものであった。これは航空母艦を軽巡洋艦的な任務にも対応させようとの各国共通の設計思想によるもので、同世代のベアルン級ノルマンディー級戦艦改造空母)[21]にも共通する点が多い。

主武装の10.2cm(45口径)単装砲は飛行甲板直下主甲板の艦首から格納庫前端部に左右1基ずつ、前部エレベータ左右に1基ずつ、格納庫後端部左右に1基ずつの計6基である。

船体[編集]

航空艤装[編集]

1920年代に撮られた「アーガス」。飛行甲板上に隠蔽型の艦橋がせり上がっている。煙路を後方に導いたために艦尾から煤煙が上がっている。側面の棒状のものは着艦機の転落防止用のパリセイド

商船型の船体から上一杯を使用し、上方から見ればアイロン型の飛行甲板を張られた本艦の飛行甲板長は縦143 m×幅25.9 m。二基のエレベーター(昇降機)を飛行甲板の前後に一基ずつ設けた[22]。本艦のエレベーターは現代のものと同じく、完全な四角形であった。この後、「フューリアス(第二次近代化改装後)」「イーグル(初代)」「ハーミーズ(初代)」「カレイジャス」級ではエレベータ形状が、前後両方か片方が飛行機の形に合わせた十字架型形状を採用するという、迷走の時代に入る。

「アーガス」の、竣工直後の着艦装置は、鋼索縦張り式の着艦制動装置と既倒式縦棒型制動装置を併用装備していた。鋼索縦張り式は着艦制動能力が絶対的に不足しており、機体が横滑りを起して飛行甲板から転落する事を防ぐことができなかった。さらに、既倒式縦棒型制動装置は、飛行甲板上に蝶番で繋がれた棒を立てておき、着陸してくる機体を激突させて停止させる乱暴な装置で、着艦と引き換えにプロペラや翼を損傷する機が続出した。あまりの被害に英国海軍は1926年に制動装置の全てを撤去し、その後の5年間は飛行甲板全面積を使用し、写真で飛行甲板両脇に見える「パリセイド」と呼ばれる折りたたみ式の転落防止柵を立て、着艦する機体に整備員が飛び掛って停止させる危険極まりない方法を選択せざるを得なかった。その間にフランス海軍アメリカ海軍では安全な鋼線横張り式の着艦制動装置を完成させ、先駆者であったが後塵を拝する事となったイギリス海軍は1931年にようやく横張り方式に改装し、実用的な着艦制動装置を得た。

1942年に撮られた「アーガス」の格納庫の写真。
1942年に撮られた「アーガス」の後部飛行甲板の写真。

「アーガス」の飛行甲板下には高さ6.1mの一層式の格納庫が設けられていた。搭載機数は前級「フューリアス」の10機から進歩して20機を搭載できた。艦橋は、計画時には飛行甲板両脇に前後に長い艦橋を配置し、その間を艦載機が離・着艦する予定であったが、実用性の観点から艦橋は飛行甲板下に設けられて飛行甲板上部に構造物は存在しなかった。しかし、艦橋からの見通しが悪く、そのため湾内ではエレベーター式操舵艦橋(写真で飛行甲板前部に見える四角い構造物)を設け、操艦を容易にする工夫が加えられた。これは必要な時に飛行甲板上に露出し、航空機を運用する際には引っ込めることができた。1936〜38年の改装で艦首をエンクローズ化して全部飛行甲板を拡張して飛行甲板は全て水平となり長さ167mとなった。

しかし飛行甲板から障害物を除去しようというイギリス海軍の意図は、本艦から煙突まで撤去させてしまった[注釈 5]。そのため浮き船渠標的のような外観となっている[6]。 排煙にあたり排煙路を船体左右に分け、写真で見えるように艦尾ダクトから左右に排煙する方式をとった[24]。そのため煙路により格納庫スペースが狭められた上、煙熱で格納庫内の整備員は苦しめられた。後にこの方式は「フューリアス」の第二次近代化改装後にも採用され、同様の苦情が出た。ちなみに、日本の戦艦改造空母「加賀」も当初はこの方式を採用して同様の問題に悩まされ、結局煙突を導入している。

なお就役後の「アーガス」は、飛行甲板の片舷に艦橋と煙突の模型を設置し、気流の実験をおこなった[注釈 6]。結果は良好だったため、その後のイギリス航空母艦の建造に生かされたという[25]

元が低速な商船であったが、初めての全通形状飛行甲板で、飛行甲板スペースを広く取れたために後の航空機の発達に伴い滑走距離の増加も対応できた。長く一線に留まっていられたのも当時のイギリス海軍の艦載機の主流が軽量な複葉機で、低速でも長い滑走路があれば離着艦可能だった事にも一因している。

船体にはダズル迷彩が施された[24]

搭載機変遷[編集]

年時 内訳 合計
1920年 春 ソッピース キャメル×4, Airco DH.9A×2, フェアリー社製フロートプレーン×2 8機
1921年 春 パーナル パンサー×10, フェアリー III×3 13機
1922年9月 グロスター ナイトジャー×⁇ ⁇機
1940年6月

701海軍飛行隊 (701 Squadon)

スーパーマリン ウォーラス×⁇
⁇機
1940年8月

418戦闘機中隊 (418 Flight RAF)

ホーカー ハリケーン×12, ブラックバーン スクア×2
14機
1940年11月 ハリケーン×12, スクア×2 14機
1940年12月

821海軍飛行隊 (821 Squadon)

フェアリー ソードフィッシュ×6

825海軍飛行隊 (825 Squadon)

ソードフィッシュ×2
8機
1941年3月 ハリケーンMk.II×12, スクア×3 15機
1941年4月

812海軍飛行隊 (812 Squadon)

ソードフィッシュ×6

ソードフィッシュ×6

12機
1941年5月

800海軍飛行隊 (800 Squadon)

フェアリー フルマー×3, ハリケーン×⁇
??機
1941年8月

151航空隊 (151 Wing RAF)

ハリケーン×24
24機
1941年9月

828海軍飛行隊 (828 Squadon)

フェアリー アルバコア×12
12機
1941年11月

818海軍飛行隊 (818 Squadon)

ソードフィッシュ×4

804海軍飛行隊 (804 Squadon)

シーハリケーン×2

ハリケーン×⁇

??機
1942年2月

812海軍飛行隊 (812 Squadon)

ソードフィッシュ×12

スーパーマリン スピットファイア×⁇

??機
1942年3月

804海軍飛行隊 (804 Squadon)

シーハリケーンMk.IIB×12
12機
1942年5月

807海軍飛行隊 (807 Squadon)

フルマー×12
12機
1942年6月

807海軍飛行隊 (807 Squadon)

フルマー×2

813海軍飛行隊 (813 Squadon)

ソードフィッシュ×9

807海軍飛行隊 (807 Squadon)

ソードフィッシュ×4
15機
1942年11月

880海軍飛行隊 (880 Squadon)

シーファイアMk.IIc×18[26]
18機

防御[編集]

防御力は開明期の空母らしく、船体の一部に装甲を持っていた。 舷側防御は水線部で51 mm、甲板部で51 mmと、駆逐艦の砲撃に対してのみ有効な防御を持っていた。

機関[編集]

元が客船であったためにボイラーは旧式の円缶12基とパーソンズ式の高速型直結タービン1基と中速型直結タービン1基と低速型タービン1基で1組とする。タービン配置は高速型と中速型をタンデム配置で外型軸を推進し、低速型タービンは後進用で内側軸を推進した。これで2組4軸推進で最大出力20,000馬力で最大速力20.3ノットを発揮した。飛行甲板を全通型とするためにボイラー室からの煙路が格納庫を挟むように両側に通され、強力なファンにより艦尾に片舷1本ずつ設けられた煙突から強制排煙する。このために高温の煤煙により熱せられた艦内の居住性は最悪であった。

なお、ボイラーは解体されるV級駆逐艦とW級駆逐艦に搭載されていたヤーロー式重油専焼水管缶6基を再利用するために換装された。これにより僅かに出力が改善されて最大出力は21,500馬力で最大速力21.8ノットを発揮した。

艦歴[編集]

就役直後の1918年(大正7年)9月22日、ロサイスに到着した[24]グランドフリート (Grand Fleet) に編入される[注釈 5]。折しも水上機母艦カンパニア (HMS Campania) を退艦したばかりの日本海軍駐在武官桑原虎雄大尉が「アーガス」を訪問し、艦内を視察したほか、アーガス艦長から説明を受けている[6]。10月末には、飛行甲板に艦橋と煙突の模型を設置して実験をおこなう[25]

大艦隊司令長官ビューティー提督など、一部のイギリス海軍高級指揮官はソッピース クックー (Sopwith Cuckoo) 複葉雷撃機により、現存艦隊主義を奉じて艦隊決戦を避けるドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) の大洋艦隊 (Hochseeflotte) を攻撃しようと企図した。第185飛行隊がアーガスに配備されて訓練をおこなったが、実戦に参加する前に第一次世界大戦が終わった。 戦争終結により大艦隊が解散すると、大西洋艦隊に配備された。1922年9月に発生したチャナク危機ではグロスター ナイトジャー英語版戦闘機を搭載してダーダネルス海峡に展開し、水上機母艦アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal) の輸送してきたブリストル ファイター戦闘機を、飛行甲板を持たない水上機母艦の代わりに発艦させた[27][注釈 7]

1920年代中盤にバルジの装着工事を行っている[28]。1936年にはクイーンビー無線操縦標的機を運用するための母艦となり、1938年7月30日に近代化改装を終えた[29][30]後は着艦訓練のための練習艦として使用された。

1939年9月、第二次世界大戦が勃発する。1940年4月には撤去されていた主砲や機銃が再度取付けられ、6月の中旬に巡洋戦艦フッド (HMS Hood) と駆逐艦6隻と共にUS3船団を護衛した[31]。その後もハリー作戦ホワイト作戦パーペテュアル作戦などで、しばしばH部隊と行動を共にしてマルタ攻囲戦にともなうマルタ島への航空機輸送任務マルタ補給作戦に従事した[32]。空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) がU-81に撃沈されると、地中海戦域で唯一運用可能な空母として、H部隊の支援のためにジブラルタルに留まり、地中海で行動した[32]。翌年に行われたハープーン作戦ではイーグル (HMS Eagle) と共に輸送船団の間接護衛部隊(W部隊)に加わり、対潜哨戒を行った。この際にはイタリア空軍機により、直衛のフルマー戦闘機を撃墜されている。

ペデスタル作戦では事前に行われた訓練に参加したが、乗艦していた804海軍飛行隊の実力が疑問視されたため、804飛行隊と共に作戦への参加は見送られている。トーチ作戦では英米の上陸部隊に対して、航空支援を行っていた中の11月10日に空爆を受けて小破し4人の戦死者を出した。11月14日には護衛空母アヴェンジャー (HMS Avenger, D14) と共に地中海からイギリスへ戻る船団を護衛するためジブラルタルを出航するが、翌日にアヴェンジャーはU155_(潜水艦)に撃沈された。

地中海以外での特筆するエピソードとしては1940年の12月25日にWS5A船団に所属してフューリアスと共に航空機を輸送している途中、大西洋上でドイツ海軍重巡洋艦アドミラル・ヒッパー (DKM Admiral Hipper) と遭遇した(ノルトゼートゥーア作戦)。この時アーガスは輸送用の他に自己防衛用のソードフィッシュを2機搭載していたが、魚雷はアーガスではなくフューリアスの方に積み込まれていた[33]。後にヒッパー捜索のためにスクア爆撃機が発進したのと入れ替わる形でフューリアスに着艦したソードフィッシュに魚雷が積み込まれ、ようやく反撃の態勢が整った[33]。その頃には、船団護衛部隊の英連邦巡洋艦(ベリックボナヴェンチャーダニディン)と交戦したヒッパーは立ち去っていた。1941年の9月には空母ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38) に護衛されながらイギリス空軍151航空団英語版のパイロットと24機のハリケーンをソ連のムルマンスクへ輸送している[34][35]

1943年の5月にトーチ作戦で負った損傷の修理を終えると護衛空母への転用が検討されたが取り消され練習空母に戻された。44年の9月27日までパイロットの着艦訓練を務めた[36]後、同年の12月にチャタムに係留され[37]宿泊艦となった。46年に除籍され解体。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 二、航空母艦の誕生[3](中略)世界大戰のとき、獨逸の飛行機や飛行船はしばしば英佛兩國を脅かしたので、はじめは飛行機何するものぞと輕侮してゐた英人も、漸く被害が大きくなるにつれてその認識を改めた。かくて英海軍では、飛行機の性能が、艦隊にとつて最も重要な通信と偵察とに適してゐることを覺つて飛行機を艦隊に従属させ、艦隊の手となり眼となるやうに使用することが企てられた。
     大戰中に數臺の飛行機を運搬するやうに設計された船が数隻造られたが、いづれも水上飛行機を扱つたもので、いまの『水上機母艦』の始りである。その頃、海軍では水上機だけを専ら使つてゐたから、水上機母艦が先づ作られたのは當然だつたが、それらを實戰に参加させ、その性能を實驗した結果、英海軍は、いよいよ陸上機を離著させ得る飛行甲板をもつ航空母艦の建造に着手した。と云つたところで、これは當時英國で新造中の伊國汽船を改装した『アーガス』(一五七七五噸)といふ今日からみれば極めて貧弱なものであつた。が、その目的とするところは、當時の海軍飛行機の行動半徑は頗る貧弱で洋上を横斷して敵地に飛行し敵艦隊を襲撃する任務を遂行する力が不足だつたので、これを補ふことであった。そして今日といへどもこの根本任務に異るところはないが、たゞ、その規模や構造などにおいては、殆ど比較にならないほど發達して、現在のごとく有力な航空母艦となるに至つたのである。かくて、大戰後一九二一年(大正十年)ワシントンに開かれた軍備縮小會議では、主力艦とともに主要な艦種として航空母艦も種々論議され數々の制限がこの新型艦についても定められた。
  2. ^ 九、各國航空母艦の歴史[10] 列國の航空母艦發達の状況をみると、いづれもはじめは水上飛行機を搭載し、これを作戰上必要とする地點まで輸送する目的で、艦船に特定の装備を施したものであつた。艦上から飛行機を飛立たせ、また艦に着還させることは、英米兩國で前世界大戰の約十年前にそれぞれ實驗され研究されたのだが、それがいよ〱實際に使用されたのは、大戰と同時に英海軍が水上飛行機運搬―すなはち現在の水上機母艦を造つたのに始まるのである。今日では航空母艦と水上機母艦とは、前に定義したやうにその性能は全く異るものだが、その發達史の上からみれば、水上機母艦の方が先に出現し、純然たる航空母艦は水上機母艦の經驗を多く参考にとり入れてこれに續いて建造されたもので、大正七年(一九一八年)九月竣工した英のアーガスがその最初のものである。
  3. ^ 世界最初の航空母艦と表現されるフューリアスだが、艦前部のみ発艦用飛行甲板を設置、艦中央部に艦橋と煙突とマストがそびえ、艦後部に18インチ単装砲を設置した状態で1917年に竣工した[11]。第一次改装で艦後部にも着艦用飛行甲板を設置(艦中央の艦橋と煙突は残置)、1921年から1925年にかけての第二次大改装で本格的な空母(多段式空母)となった[12]
  4. ^ この船名は、赤毛のためConte Rossoの異名を持つサヴォワ君主だったアメデーオ7世・ディ・サヴォイアに由来する。初代が空母に改造されたあと2代目が建造されたが、1941年5月24日に地中海でイギリス潜水艦アプホルダー (HMS Upholder, N99) に撃沈された。
  5. ^ a b 第十六.母艦「アーガス」[23] 「アーガス」ハ大正七年九月廿二日「ロサイス」来着、大艦隊ニ編入セラレタルモノニシテ艦上全部滑走台ニテ覆ハレ無烟突ナリ但シ艦尾ノ両舷ニ廃烟口ヲ有ス/英海軍カ飛行機ノ発著ニ安易ナル母艦ヲ得ントシテ苦心セル情畧スヘキナリ/本艦ハ排水量約一万六千噸速力二十一節ニシテ二十有余隻ノ飛行機(中ニハ魚雷発射用ノモノアリトノコト)ヲ格納シ居ルト謂フ/操舵室ハ糶上式、無線電信柱ハ「テレスコピック」ナリ。
  6. ^ ◎飛行機母艦ARGUS[25](中略)十月ノ末ニ煙突及艦橋ノ模型ヲ上甲板滑走台ノ一舷ニ取付ケ由テ生ズル気流ノ変化ヲ試験シツヽアリタルガ試験ノ結果ニ由テFURIOUSノ煙突艦橋ヲ片寄セ又目下建造中ノ飛行機母艦艤装ノ参考ニスルナリト云フ。聞ク処ニヨレバ結果良好ナルガ如シ最新飛行機母艦VINDICTIVEハFURIOUSト仝式ナリ 
  7. ^ アーク・ロイヤルからアーガスへの航空機の移譲はクレーンを用いて行われた[27]

出典[編集]

  1. ^ a b 航空母艦の話 1938, pp. 55–56(原本88-90頁)附録(三)航空母艦關係術語英和對照
  2. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, p. 18aイギリス/アーガス ARGUS
  3. ^ 朝日、航空母艦 1942, pp. 7–8(原本5-7頁)
  4. ^ 航空母艦の話 1938, pp. 49–51(原本76-80頁)十三、航空母艦の艦名の由来
  5. ^ 中島武、航空母艦 1930, pp. 6–7(原本3-4頁)
  6. ^ a b c d e #在英大使館附武官情報(10) pp.47-49
  7. ^ a b 航空母艦の話 1938, pp. 15, 16–20.
  8. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, p. 218(アーガス写真の欄外解説)
  9. ^ a b 大内、護衛空母入門 2005, p. 51.
  10. ^ 朝日、航空母艦 1942, pp. 37–38(原本65-66頁)
  11. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, pp. 16a-17イギリス/フューリアス FURIOUS
  12. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, pp. 217–218初期の航空母艦
  13. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, pp. 20–21アメリカ/ラングレー LANGLEY
  14. ^ 世界の艦船、航空母艦全史 2008, pp. 22–24日本/鳳翔 HOSHO
  15. ^ a b 世界の艦船、航空母艦全史 2008, p. 18b.
  16. ^ 航空母艦の話 1938, pp. 46–47(原本73-74頁)
  17. ^ #アルガス見学 p.1〔 一.見學日時及場所 大正八年一月二十四日英國プリマス軍港停泊中 〕
  18. ^ a b 大内、護衛空母入門 2005, p. 52.
  19. ^ 航空母艦の話 1938, p. 36(原本54-55頁)(アーガス解説)
  20. ^ 朝日、航空母艦 1942, pp. 31–32(原本52-54頁)(ロ)飛行甲板による型式
  21. ^ 朝日、航空母艦 1942, p. 44(原本78-79頁)(5)佛國の航空母艦
  22. ^ 大内、護衛空母入門 2005, pp. 54–55第6図 航空母艦アーガスの外形図
  23. ^ #報告書の件 pp.36-37
  24. ^ a b c #ハイシーフリート降伏 pp.51-52(アーガス側面写真)〔 飛行機母艦「アーガス」(九月廿二日「ロサイス」着) 〕
  25. ^ a b c #インドミタブル及タイガー(3) p.64
  26. ^ Brown 2009, p. 62
  27. ^ a b Halley, p. 38
  28. ^ 朝日、航空母艦 1942, pp. 40–43(原本71-77頁)(3)英國の航空母艦
  29. ^ McBride, p. 79
  30. ^ Friedman, pp. 69, 71
  31. ^ Rohwer, p. 22
  32. ^ a b Nailer, pp. 159–60
  33. ^ a b Nailer, p. 154
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  35. ^ McBride, pp. 80–81
  36. ^ McBride, p. 86
  37. ^ Friedman, p. 71

参考文献[編集]

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    • 『8年3月10日 報告書の件 英国大艦隊の航空施設説明付写真帳1冊提出の件、大正6年 外国駐在員報告 巻6(防衛省防衛研究所)』。Ref.C10100829700。 
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    • 『在英大使館附武官情報(10)、大公使館附武官駐在員情報電報(1)大正7年(防衛省防衛研究所)』。Ref.C11080308000。 
  • 大内建二『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 世界の艦船増刊第71集 イギリス航空母艦史(海人社)
  • 世界の艦船増刊第80集 航空母艦全史(海人社)
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門「第1部 揺籃期の空母 AIRCRAFT CARRIERS THE CRADLE」『世界の艦船 2008.No.685 航空母艦全史 HISTORY OF AIRCRAFT CARRIERS』株式会社海人社〈2008年1月号増刊(通算第685号)〉、2008年1月。 
  • BRITISH AND EMPIRE WARSHIPS OF THE SECOND WORLD WAR(Naval Institute Press)
  • Brown, J. D. (2009). Carrier Operations in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 978-1-59114-108-2.
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  • Halley, Jim (June–August 1992). "Early Days on Argus". Air Enthusiast. No. Forty-six. pp. 36–39. ISSN 0143-5450.
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]