アーイシャ

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預言者ムハンマドの臨終。右に立つベールの人物がアーイシャか

アーイシャ・ビント=アビー=バクルعائشة بنت أبي بكرʿĀ'isha bint Abī Bakr, 614年頃 - 678年)は、イスラーム教の開祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの3番目の妻で、初代正統カリフアブー=バクル・アル=スィッディークの娘。預言者ムハンマド最愛の妻とされる。

目次

生涯 [編集]

ムスリム(イスラーム教徒)がマディーナ(メディナ)にイスラーム共同体ウンマ)を建設した後、ヒジュラ以前にすでにメッカで最初の妻ハディージャを失っていたムハンマドは、友人でもあったアブー=バクルから再婚を勧められ、寡婦サウダとともに彼の娘アーイシャと婚姻を結んだ。ハディースの伝えるところによれば、アーイシャは6歳で当時53歳だったムハンマドと婚約して9歳で婚姻を完成させ、彼が没するまでの9年間をともに生活したと伝えられる[1]

ムハンマドは、アーイシャ以外にもウンマ内外の有力者との婚姻を繰り返したために最終的な妻の数は10人を越えたが、妻のほとんどは寡婦であり、初婚で結婚時に処女であった妻はアーイシャのみであったという[2]

ムハンマドはクルアーン(コーラン)の教えに従って全員を平等に扱っていたが、危篤から臨終の際は特にアーイシャのもとに留まり、彼女の部屋で亡くなった。このことから、アーイシャはハディージャ以外ではムハンマド最愛の妻と考えられている[3]。アーイシャはムハンマドに近侍したことから彼の言行をよく記憶し、多くのハディースを伝えたとされる。

ムハンマドの死後、アーイシャは預言者最愛の妻としてムスリムの尊敬を集め、初期のイスラーム社会に強い影響力をもった。ムハンマドの死後すぐの段階で、アーイシャはムハンマドが自分の死後アリーを後継者とするよう遺言したアリー派の信者たちの訴えを拒絶したとされる[4]。後年には政治にも関与しており、第3代カリフのウスマーン・イブン=アッファーンの政策を批判し、長年敵対的な関係にあったアリー・イブン=アビー=ターリブがウスマーン暗殺後に第4代カリフとなった時には、公然と反抗した。しかし、656年に彼女も輿に乗って参加したというラクダの戦いにおいてアリーに敗れると政治から退き、ムハンマドの言行を人々に伝えて預言者の教えやムスリムにふさわしい生活の指針を与えることに務め、マディーナで没した。

アーイシャの位置づけ [編集]

アーイシャの名は、ムハンマドの糟糠の妻ハディージャの名と並んでスンナ派のムスリムの女性(ムスリマ)に好んで付けられる名前となっている。ハディースを重んじるスンナ派においては、300を越える真正のハディースを伝えたとされるアーイシャは、尊敬されるべき女性像の典型と捉えられる。

これに対しシーア派は、イマームとしてイスラーム共同体を正しく導くべきアリーを無視して初代カリフに就任したアブー=バクルの娘であり、アリーに対して反抗したアーイシャを嫌って彼女が伝えたとされるハディースも信用していない[5]

なお、アーイシャが「6歳でムハンマドと婚約し、9歳で婚姻を完成させた」という伝承については、非イスラーム諸国を中心にムハンマドとアーイシャとの初期の性行為は児童性的虐待ではないかという意見や、ムハンマドはペドフィリアではないのかという意見が出されている[6]。しかし、これについては異論も多く、結論は出ていない。

2008年8月には、アーイシャを題材にしたシェリー・ジョーンズの小説『メディナの宝石』の英国での出版が一部イスラーム教徒の反対に遭って一時中止になるという事態が発生した。これはアーイシャの結婚や初の性行為が9歳の時であったということが非イスラーム社会に広まることで、ムハンマドへの批判が盛り上がることを警戒した動きである。その後、この小説は同年10月に発売される予定となった[7]

アーイシャの首飾り [編集]

625年ウフドの戦いの後、ムハンマドの治めるマディーナメッカの策略によってたびたび周辺諸族の攻撃を受けるようになっていた。アーイシャはムハンマドが出陣する際には常に付き従っていたが、ムスタリク族との戦いから帰る途中、彼女はムハンマドから贈られた首飾りを失くしてしまい、それを探すために一人砂漠の中ではぐれてしまっていた。そこにちょうど通りかかったイスラム軍の青年兵士がアーイシャをラクダに乗せてマディーナまで送り届けたが、これが事件に発展する。

マディーナの人々はアーイシャの不義を疑い、ムハンマドに詰め寄った。当時のアラブ人の慣習では、砂漠で男と一夜を過ごした妻は離縁不義密通を犯した妻は、石を投げつけられて殺されるのが普通であったからである。アーイシャはムハンマドの側近アブー=バクルの娘でもあったことから、これは大きな政治問題にまで発展したが、最終的にムハンマドが彼女の密通疑惑を否定し、疑ってはならないという天啓を受けたと主張したことで解決した。

この時、側近の誰もがムハンマドとアブー=バクルに遠慮してアーイシャと離縁するように言い出せない中で、唯一それを言ったのがムハンマドの血縁者でもあり、後に4代目カリフとなったアリー・イブン・アビー=ターリブであった。アブー=バクルとアリーの間は、この事件を機に冷えてゆくことになる。また、アリーとアーイシャの確執もこのことに起因すると言われる。この事件以来、ムハンマドも女性の貞節には敏感になった。女性にベールを着用するように義務付ける天啓は、クルアーン学者によればこのすぐ後の時期のものであるとされている。

脚注 [編集]

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  1. ^ ブハーリーハディース集成書『真正集』「婚姻の書」第39節第1項(アーイシャ自身からの伝)、同第40節(アーイシャおよび伝承者ヒシャームからの伝)、同第59節(伝承者ウルワからの伝)その他。ハディース中の「9歳で婚姻を完成させた」という一文が実際に「性行為を行ったという意味とされるのは、集成書の注記による。また、『日訳サヒーフ・ムスリム』第2巻、結婚の書、pp.453-454にも、アーイシャからの伝として同様の文言が収録されている。
  2. ^ ブハーリーの『真正集』「婚姻の書」第9節(イブン=アッバースがアーイシャに語った伝)その他。
  3. ^ 後年アーイシャが門下の伝承者たちに語ったことによると、「ムハンマドは生前のハディージャについての話をたびたび行ったため、当時の自分はその都度に激しく嫉妬を覚えた」という旨の逸話がブハーリーやタバリーなどの記録に存在する。
  4. ^ ブハーリー『真正集』遺言の書第1章4節。
  5. ^ シーア派の場合、理想の妻・女性像として称揚されるのはアリーの妻でムハンマドの娘ファーティマになる。
  6. ^ An Examination of Muhammad’s Marriage to a Prepubescent Girl And Its Moral ImplicationsWas Muhammad a Pedophile?
  7. ^ 預言者ムハンマドの幼妻を描いた小説、英国で来月出版へ

関連項目 [編集]