アンワル・イブラヒム

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アンワル・ビン・イブラヒム(Anwar bin Ibrahim, 1947年8月10日 - )は、マレーシアの元副首相兼財務相。若年時に、マハティール・ビン・モハマドの被保護者となったが、結果として、最もマハティール批判を展開する政治家となった。1999年懲役6年の有罪判決を受け、翌年には同性愛の罪で、さらに懲役9年の有罪判決を受けたが、2004年には裁判所は後者の罪を取り消し釈放され、2012年には無罪判決を言い渡された。現在でも、マレーシアの政治家の中ではカリスマを誇る。

若年期[編集]

アンワルは、ペナン州で生まれた。マレー大学クアラ・カングサールとマラヤ大学で教育を受けた。

1971年、学生時代に、アンワルは、ムスリムによる学生組織であるABIM (Angkatan Belia Islam Malaysia) を結成し、その代表に就任した。PASの主張する伝統的なイスラームへの回帰へと異なり、「西洋化や世俗化に変わりうるものとして、伝統的なイスラームだけでなく、近代的な宗教・文化としてのイスラーム」に視線を向けたものであった。ABIMは、アンワルのカリスマ的指導の下、35,000人を数えるメンバーを超えるまで、成長を遂げたが、1974年、デモに参加した際に国内治安法に基づき、アンワルは、逮捕され、22ヶ月の間、拘束を受けた。

釈放後、ラザク首相にUMNOへの参加を呼びかけられたが、拒否した。アンワルの名は、「若く、都市型で、高等教育を受けた中産階級のマレー人」の象徴として、急速に高まっていった。

頭角[編集]

1982年、アンワルは、ABIMの代表を辞任した。マハティール首相の要請および懐柔政策に応じた形であった。その後、アンワルは、UMNO内での急進を遂げた。1983年に文化・青年・スポーツ大臣に就任、翌年、彼は、農業大臣、1986年には、マレーシア政治の重要ポストである教育大臣(マレーシア首相への登竜門的な色彩が強い大臣職)に就任した。1991年には、財務大臣に就任、1993年には、副首相も兼任することとなった。

1990年代前半、アンワルがポスト・マハティールの最右翼と目され、マハティールとの関係も親子関係とほぼ同様であったとされている。それは、1997年初頭、マハティールが2月の休暇を取った際にアンワルを首相代行に任命していることからも明らかであった。しかしながら、どのようにしてマレーシアが通貨危機を克服していくかという問題が起きたことによって、マハティールとの蜜月関係にも終止符が打たれることとなった。

アジア通貨危機[編集]

1997年に、タイ・バーツ通貨危機を契機とするアジア通貨危機が起きると財務大臣の職にあったアンワルは、IMFが策定したマレーシア経済復興プランに賛同した。その計画とは、外資へのよりいっそうの開放と協力関係を築く内容であった。アンワルは、18%の政府支出の削減と大規模な公共工事の削減を打ち出した。大規模な公共工事とはマハティールが提唱した「メガ・プロジェクト」という国家発展のためのプロジェクトであった。アンワルの政策は、マハティールの政策と相反するものであった。

多くのマレーシアの企業が倒産の危機に直面した。アンワルは自由主義経済の政策を採用していたが、一方で、マハティールは、ジョージ・ソロスのような投機家を批判し、通貨と外資の投資を自らの統制下におこうと考えていた。

1998年、ニューズウィーク社は、アンワルを「今年のアジア人」に選出した。しかしながら、そのとき、アンワルとマハティールの関係は、険悪となっていた。ABIMのメンバーの一員でもあったアフマド・ザヒド・ハミディ(UMNO青年部)は、「クローニズム、ネポティズム(縁故主義)」に関しての討論を開始した。というのも、インドネシアスハルトが政権失脚をしていたからであり、マハティールにも同様のことが当てはまると考えられたからである。

逮捕[編集]

1998年、1冊の本が出版された。『アンワルが首相になれない50の理由』と題された本は、内容にアンワルの性的疑惑(同性愛)の内容を含んでいた。マレーシアでは、出版制度は、政府の免許制度によって保障されている。そのため、この本の出版はマハティール政権の介入をもたらした。8月には、事実に基づいていない悪意のある出版物であるということで、著者が逮捕された。

1998年9月2日、アンワルは、副首相を罷免され、翌日には、UMNOから追放処分を受けた。14日には、アンワルの支持者であるムナワール・アネス、スクマ・ダルマワン・サスミタートが同性愛の疑惑で逮捕された。5日後には、判決が出て、彼らは、アンワルと同性愛の性行為を持ったとして、6ヶ月の懲役処分が下された。また、アンワルの2人の秘書であるエザム・モハマドとモハンマド・アズミン・アリは、『アンワルが首相になれない50の理由』に関して、身柄が確保された(後に釈放されている)。

9月20日、アンワルは、クアラルンプールで10万人近い人々を集めて、その集会の後には、「レフォルマシ(マレー語で改革の意味)」と「マハティールの退陣」を要求する行進を展開した。マレーシアでは珍しいこの種の行進は、混乱と民族間の衝突を危惧するマレーシア政府に大きな関心を抱かせることになった。また、この行進で、アンワルはマレーシア人の中の新しくリベラルな人間としての側面を、マハティールは、マレー人の保護者としての側面をくっきりと浮かび上がらせることとなった。アンワルのマハティールの縁故主義の疑いに向けた批判は、マレーシアにおける人権弾圧という不満の種もあって補強されていく。

その晩、アンワルの自宅は、マレーシア警察によって組織されたSWATによって破壊され、数時間後には、アンワルの逮捕が発表された。

告訴[編集]

1998年9月29日、法廷に現れたアンワルは、汚職と同性愛の罪に対して、無罪であると主張した。その当時のアンワルの顔には、殴打のあとがくっきりと残っており、この片手を上げて連行される写真は、多くのレフォルマシのポスターに後に使われる象徴となった。

アンワルは、警察の調査に関連する汚職、また、同性愛の疑惑に関して告訴を受けた。アンワルの裁判は、マレーシア司法の権威であるオーガスティン・ポールによって審判された。1999年4月14日、アンワルは、汚職の罪で懲役6年の有罪判決を受ける。また、2000年8月8日には、同性愛の罪で懲役9年が言い渡された。

とはいえ、この裁判自体がまったく問題がなかったかというと必ずしもそういうわけではなく、アムネスティ・インターナショナルヒューマン・ライツ・ウォッチは、この裁判の公平性に疑問を示していた。アムネスティ・インターナショナルは、結果的に、アンワルは、良心を持った囚人と形容した。加えて、当時のアメリカ副大統領であるアル・ゴアは、アンワルの同性愛罪に対する審判は、嘲笑に値すると告発したが、マハティールはこれら国際的な批判を内政干渉とはねつけた。

アンワルの妻であるワン・アジサ夫人は、アンワルの釈放とレフォルマシのキャンペーンの支持者を基盤に国民正義党を組織した。国民正義党は、代替戦線に参加することで、国民戦線政府と対峙することとなる。

釈放[編集]

2004年9月2日、マレーシアの最高裁判所の3人の裁判官は、2対1の評決で、アンワルに下されていた同性愛の罪状を覆す判決を出した。

アンワルは、すでに、汚職罪の刑期を終えていたとはいえ、マレーシアの法律では、刑期が終わった後5年間は、政治活動を行うことが禁止されている。そのため、アンワルは、2008年4月14日までは、マレーシアにおいて政治活動ができない。アンワルに残された唯一の方法は、国王に誓願することだけであった。

釈放された時点で、アンワルは、背中に痛みを抱えていた。アンワルの家族が言うには、警察によって傷つけられたことが原因だということである。しかし、UMNOがオーナーであるニュー・ストレーツ・タイムスは、9月6日付の記事で、アンワルが副首相を務めていた1993年に落馬したことが原因であると発表した。だが、この記事内では、10年経って背中に痛みが生じてきたという因果関係については十分な説明がなされていない。アンワルの服役中、妻ワン・アジサは、ドイツの病院での治療が必要であると主張してきた。政府は、背中の痛み程度の治療であれば、マレーシアでも十分可能であるという見解であったので、ワン・アジサの主張を退けてきたが、2004年9月、同性愛の罪状の撤回により釈放されると、治療のために、ミュンヘンへ旅行した。

釈放以来、アンワルは、イギリスオックスフォード大学セント・アントニーズ・カレッジワシントンD.C.にあるジョーンズ・ホプキンス・スクールの客員フェローであると同時に、ジョージタウン大学外国語学科の客員教授でもある。

2006年3月には、彼は、ロンドンに本部を置くアカウント・アビリティーの名誉総裁にも任命されている。

2008年4月15日からアンワルはマレーシア国内での政治活動が可能となったが、7月16日、同性愛容疑で逮捕された。マレーシアはイスラム教の国だという文化的背景も影響していると見られている。前回と違い、翌日には、保釈が認められ、釈放された。野党の指導者である自分を亡きものにしようとする現政権の陰謀であり、バッシング(いやがらせ)だと、本人は主張した。8月26日にペナンのプルマタン・パウ選挙区で行われた補選でアンワルが当選し、予想どおり、政界に復帰した。できるだけ早い時期での野党連合・人民同盟(PR)による政権奪取をめざし、活動中である。

2012年1月9日、マレーシア高等裁判所は、同性愛容疑について、無罪を言い渡した[1]

2014年1月19日、個人的な訪問のため成田国際空港に到着したが、入国拒否された[2]。日本の当局は、ビザが無いことが理由としている。マレーシア人が短期滞在を目的に日本に入国する場合、犯罪歴のあるものはビザが必要であり、アンワルは1998年には権力乱用の罪で有罪となっている[3]

2014年3月7日、マレーシアの上訴裁判所は同性愛容疑について、一審の無罪判決を覆し、有罪判決を下した[4]

脚注[編集]

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