アンナ・マリア・クレメンテッリ

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アンナ・マリア・クレメンテッリAnna Maria Clementelli、旧姓カンパニーレ Campanile)は、イタリア映画プロデューサーである。夫シルヴィオ・クレメンテッリとともに映画製作会社「クレシ・チネマトグラフィカ」を設立、共同経営した。生年は不明である。

来歴・人物[編集]

アンナ・マリア・カンパニーレは、ローマの映画会社「ティタヌス」に入社、1954年、カミロ・マストロチンクエ監督の映画『ソル・クレメンテの休暇 Le Vacanze del Sor Clemente』(日本未公開)の製作事務[1]として、はじめて名をクレジットされる。のちに夫となるシルヴィオ・クレメンテッリは、同作の製作主任[2]であった。つまりアンナ・マリア・カンパニーレはシルヴィオ・クレメンテッリの助手であった。1959年、ジュリオ・ペトローニ監督の『100キロメートル La cento chilometri』(日本未公開)で製作主任に昇格、同作のプロデューサーであるシルヴィオが製作主任を兼務、アンナ・マリアをサポートした。

1963年、「ジョッリ・フィルム」社に移籍、映画2作の製作主任をつとめた。そのうち1作はシルヴィオのプロデュース作であった(『恋のなぎさ』、1963年)。

1966年[3]、シルヴィオ・クレメンテッリとともに映画製作会社「クレシ・チネマトグラフィカ」をローマに設立する。設立第一作はパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ監督、カトリーヌ・スパーク主演のコメディ映画『彼女のダンナ様は私のもの、私だったらダンナを殺す Il marito è mio e l'ammazzo quando mi pare』(1966年、日本未公開)であった。

「クレシ」社設立以来、長らく裏方に回り、作品にクレジットされなかったが、1977年からは、アンナ・マリア・クレメンテッリ名義で、シルヴィオと連名でプロデューサーとしてクレジットされた。1987年には『インクアイリー 審問』(監督ダミアーノ・ダミアーニ)で、シルヴィオとともにダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞アリタリア賞を受賞した[4]。1980年代にはテレビ映画を手がけた。

1992年の『青い体験2000 Malizia 2000』(日本未公開)のあとは、シルヴィオともどもプロデュース作品としてクレジットされたものはないが、「クレシ」社はジャンニ・ミネルヴィーニフランコ・コミッテリらのプロデュース作を製作した。

2001年12月4日、夫シルヴィオと死別した(75歳没)。アンナ・マリアの現況は不明である。また夫シルヴィオが見出し、「クレシ」社が作品を量産した映画監督のパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレとの血縁関係も不明である。

フィルモグラフィ[編集]

アンナ・マリア・カンパニーレ名義
アンナ・マリア・クレメンテッリ名義(すべてプロデューサー)

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  1. ^ production secretaryは日本でいう「製作事務」的役割である。
  2. ^ production managerは通常「製作主任」と訳される。企画者・製作者である映画プロデューサーの指揮のもと、現場を取り仕切る製作責任者である。
  3. ^ BFI | Film & TV Database | Clesi Cinematograficaには「1968年営業開始(Started trading: 1968)」とあるが、IMDbのClesi Cinematograficaによれば、「1966年」から作品を製作している。設立第一作を記述する都合上、後者「1966年」を採用した。
  4. ^ Awards for Silvio Clementelliを参照した。

外部リンク[編集]