ジャン=バティスト・デュマ

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Jean Baptiste André Dumas

ジャン=バティスト・アンドレ・デュマ(Jean Baptiste André Dumas 、1800年7月14日 - 1884年4月10日)は、フランス化学者で、有機化学、有機合成や蒸気密度を使って原子量を決定したこと、型の説を提唱したことで知られている。

生涯[編集]

ガール県アレス(Alès)に生まれた。1816年にジュネーブで、物理学のM. A. Pictet、化学の C. G. de la Rive 、植物学のオーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドールの講義を受け、成人に達する前に 生理化学、発生学の分野でPierre Prévostと共同研究をした。1822年にアレクサンダー・フォン・フンボルトの助言に従ってリセの化学の教授となり、1835年にエコール・ポリテクニークの教授となった。1829年にエコール・サントラル・パリ(パリ中央工芸学校)になる Ecole Centrale des arts et Manufatctures の創設者の一人となった。

腎臓が血中の尿素を取り除くことを示し、1826年には、分子からなる弾性流体が同じ条件のもとで、分子間の距離は同じであることを明らかにした。有機化学の分野でベルセリウスの仕事を発展させた。1833年に有機化合物中の窒素の量を測定する方法を開発し、近代的な分析法を確立した。13の元素について、水素を1とした時の原子量の値を確立した。1838年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。

1848年から、ナポレオン3世のもとで政治の仕事につき、下院議員となり、1850年から1851年の間の数ヶ月農業商業大臣を務め、その後パリの市長、造幣局の局長を務めた。1884年にカンヌで没した。

デュマは長年にわたってフランスの化学界に君臨したが、自身のエテリン説に批判的だったベルセリウスには遠慮がちだった一方で、弟子のオーギュスト・ローランや、シャルル・ジェラールなどの電気化学的二元論に異を唱える若手の学者を迫害したことで、今日では非難の対象となっている。


前任
フランソワ・ギゾー
アカデミー・フランセーズ
席次40

第11代:1875年 - 1884年
後任
ジョゼフ・ベルトラン