アンゴラ民族解放戦線

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アンゴラの旗 アンゴラの政党
アンゴラ民族解放戦線
Frente Nacional de Libertação de Angola
Bandeira da FNLA.svg
党旗
成立年月日 1962年3月
国民議会議席数
3[1] / 220
2008年9月5日[1]
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アンゴラ民族解放戦線(アンゴラみんぞくかいほうせんせん、:Frente Nacional de Libertação de Angola, :National Liberation Front of Angola, 略称:FNLA)は、アンゴラの武装組織、政党1962年4月、ポルトガルからのアンゴラ独立を目指して創設された組織のひとつである。創設者はホールデン・ロベルト1992年政党として再編・改組された。1992年総選挙では、得票率2.4パーセントで人民議会に5議席を獲得した。

歴史[編集]

アンゴラ民族解放戦線の前身は、1956年にコンゴ族を中心に、コンゴ王国の復興を目的に結成されたアンゴラ北部人民同盟(UPNA)である[2]。UPNAはアンゴラ人民同盟(UPA)と改名した後、1961年2月4日にアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダの刑務所を襲撃してアンゴラ独立戦争が始まると、翌3月にアンゴラ北部で武装蜂起し、白人や混血者(ムラート)、読み書きのできる黒人を無差別に虐殺した[3]

蜂起の結果、UPAはアンゴラから逃れ、モブツアメリカ合衆国の支持を得てコンゴ民主共和国のレオポルドヴィル(現キンシャサ)に拠点を移した[4]。UPAはレオポルドヴィルで他の組織と合併し、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)として再編され、同地に亡命アンゴラ政府を樹立した[5]。一方、1961年2月の蜂起失敗後、MPLAもレオポルドヴィルに逃れていたが[6]、レオポルドヴィルで両組織の統一を訴えたMPLAはFNLAによって壊滅させられそうになったため、MPLAは1963年中にレオポルドヴィルを退去してコンゴ民主共和国のブラザヴィルに本部を移転した[7]

FNLAはコンゴ族部族主義的な体質が強かったため、1964年7月に部族主義に反対していたFNLA外相のジョナス・サヴィンビが離反した[8][9]。サヴィンビは1966年3月に出身部族のオヴィンブンドゥ族を中心にアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を結成した[10]

1974年4月25日に宗主国のポルトガルカーネーション革命が勃発し、独立戦争の行方が変わると、当初FNLAはMPLA、UNITAと共に1975年1月にポルトガルの新政権とアルヴォール協定を結び、三組織による暫定政権の設立で合意した[11][12]。しかし、同年3月にFNLAとMPLAは首都ルアンダで衝突し、これをきっかけにUNITAと同盟したFNLAは後見を務めていたザイールと共にMPLAと敵対した[13]。しかし、ザイール軍の直接介入を得たFNLA軍と南アフリカ軍の直接介入を得たUNITA軍は、キューバ軍の介入を得たMPLA軍によって破られ、1975年11月11日にMPLAはルアンダアンゴラ人民共和国の独立を、FNLA=UNITA連合はウアンボアンゴラ人民民主主義共和国の独立を宣言した[14][15]

アンゴラの独立後もMPLAとFNLA=UNITA連合の間の内戦は続いたが、MPLA政権は北部に地盤を持つFNLA及びカビンダ飛び地解放戦線(FLEC)を積極的に攻撃する一方で、FNLAとFLECの後見だったザイールのモブツ政権と1978年に、同じくFNLAとFLECを支援していたフランスとは1979年に国交を正常化し、後ろ盾を失ったFNLAとFLECの勢力は著しく減少した[16]

外国の支援[編集]

FNLAの地盤はコンゴ族の多いアンゴラ北部であり、アンゴラ独立戦争中は北隣のザイール(現在のコンゴ民主共和国)やアメリカの他、アルジェリアガーナイスラエルフランスルーマニア中国(中華人民共和国)、南アフリカなどの支援を受けた。このうち、アメリカ政府は、ジョン・F・ケネディ大統領時代の1961年からFNLAを支援し始めた。

アメリカは、本来、ザイールに供与されるべき支援のうち、その3分の1にあたる金額をFNLAとアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)に供与した。フランス政府は、軍事顧問1名を送ったほか、資金面では無利子による100万ポンドを貸与している。中国は1964年からFNLAに武器供与を開始し、112名の軍事顧問を派遣している。

脚註[編集]

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  1. ^ a b IFES Election Guide - Election Profile for Angola2010年9月6日閲覧
  2. ^ 神戸(1987:218-219)
  3. ^ 神戸(1987:218-219)
  4. ^ 神戸(1987:219-220)
  5. ^ 神戸(1987:220)
  6. ^ 星、林(1978:262)
  7. ^ 星、林(1978:263)
  8. ^ 星、林(1978:263)
  9. ^ 神戸(1987:222)
  10. ^ 神戸(1987:222)
  11. ^ 星、林(1978:263-264)
  12. ^ 神戸(1987:223-225)
  13. ^ 神戸(1987:226)
  14. ^ 星、林(1978:264)
  15. ^ 神戸(1987:226-227)
  16. ^ 青木(1984:119-120)

参考文献[編集]

関連項目[編集]