アレクセイ・アントーノフ

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アレクセイ・アントーノフ

アレクセイ・インノケンチエヴィチ・アントーノフАлексей Иннокентьевич Антонов, Aleksei Innokentievich Antonov, 1896年9月15日 - 1962年6月18日)は、ソ連軍司令官。上級大将。タタール人。

経歴[編集]

出自[編集]

モギリョフ県グロドノ市(現ベラルーシ共和国)出身。帝国軍の砲兵士官の息子であるアントーノフは、1916年9月、軍に召集され、第1パヴロフスク軍事学校に送られた。1917年2月、准尉となりエゲルスク連隊に配属。同年6月、スタニスラフの戦いで負傷し、サンクトペテルブルクに後送。治療後、1917年8月、エゲルスク連隊長副官となり、1918年5月、予備役編入。1918年5月~1919年4月、ペトログラードの食料委員会で働きながら、ペトログラード林業大学で学んだ。

両大戦間[編集]

1919年4月、赤軍に召集され、ロシア内戦に従軍。同年4月~6月、南部戦線第1モスクワ労働者師団参謀長補。1919年6月~1928年8月、第15インゼンスク狙撃師団第45旅団参謀長、同師団作戦班長となり、ウランゲリ指揮下のロシア南部軍との戦闘に参加。

1928年8月~1931年3月、M.V.フルンゼ名称労農赤軍軍事アカデミー基本(指揮)学部の聴講生となり、フランス語通訳の特技を得た。1931年3月~1934年10月、第46狙撃師団参謀長。1932年11月~1933年5月、フルンゼ軍事アカデミー作戦学部の聴講生。1934年10月、ウラル軍管区モギリョフ・ヤンポリスク強化地区師団参謀長、1935年8月、ハリコフ軍管区参謀部作戦課長、1936年10月、労農赤軍参謀本部アカデミー聴講生、1937年6月、モスクワ軍管区参謀長。

1938年6月、彼はフルンゼ軍事アカデミーの先任教官、後に共通戦術講座副長となった。1941年3月、キエフ特別軍管区参謀次長。

独ソ戦[編集]

1941年6月、アントーノフは、キエフ軍管区参謀長、南部戦線局編成グループ長となり南部戦線の編成を準備し、同年8月、南部戦線の参謀長となった。そして翌1942年7月、北カフカーズ戦線参謀長、9月に黒海軍集団参謀長、11月にザカフカーズ戦線参謀長、12月に労農赤軍の参謀次長/作戦局長となった。彼の仕事は、他の将校と連携し、軍事状況をスターリンに知らせることであった。1943年5月、参謀第一次長となり、スターリンが発令する命令に副署するようになった。1945年2月から参謀総長となり、スタフカに入った。

1944年までにアントーノフは主席報道官となり、ヤルタポツダムの両会談に出席した。ヤルタ会談において彼は、交通網に対する爆撃ラインを設定し、連合軍がソ連軍を支援する方法について西側同盟に知らせた。このことは、ドレスデン爆撃へと導かれることとなった。

戦後[編集]

1945年6月、司令官職を経ず、参謀職のみのソ連の将官クラスで唯一、勝利勲章を授与された。

戦後アントーノフは、参謀第一次長(1946年3月)、ザカフカーズ軍管区第一副司令官(1948年)、ザカフカーズ軍管区司令官(1950年12月)、参謀第一次長(1954年4月)を歴任し、1955年5月、ワルシャワ条約機構統合軍参謀総長を兼任し、全盛をきわめた。彼はこの職を、1962年に死去するまで続けた。同年5月、ワルシャワ条約機構政治協議委員会書記長にも選出された。

1962年6月18日、モスクワで死去。クレムリンの壁に葬られた。

2003年、ロシア・ソ連邦英雄協会とソ連邦元帥・将官団は、アントーノフにロシア連邦英雄の称号を授与するように陳情したが、却下された。

パーソナル[編集]

ロシア帝国から四等聖アンナ勲章、ソ連からレーニン勲章3個、「勝利」勲章、赤旗勲章4個、一等スヴォーロフ勲章2個、一等クトゥーゾフ勲章、一等祖国戦争勲章を受章。

フルンゼ軍事アカデミーと故郷のグロドノ市には、記念碑が立っている。グロドノ市にはアントーノフ通り、モスクワ市にはアントーノフ将軍通りが存在する。サンクトペテルブルク高等軍事測地指揮学校、グロドノ市の第11中学校には、彼の名前が冠された。

妻のオリガ・レペシンスカヤru:Лепешинская, Ольга Васильевна)(1956年再婚)は、バレリーナで、ソ連人民芸術家。趣味は、観劇、読書、音楽鑑賞、チェス、写真、スキー、ボート、バレー、散歩、観光など。


先代:
А・ヴァシレフスキー
赤軍参謀総長
1945年 - 1946年
次代:
А・ヴァシレフスキー