アレクサンドル・ポクルィシュキン

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アレクサーンドル・イヴァーヌァヴィチ・プァクルゥイーシュキンАлександр Иванович Покрышкин1913年3月6日 - 1985年11月13日)は、ソ連の軍人、飛行士、エース・パイロット。最終階級:航空元帥。ソ連邦英雄(3度)。1942年からソ連共産党員。ロシア人

経歴[編集]

出自[編集]

ノヴォニコラエフスク(現ノヴォシビルスク)市の労働者の家庭に生まれる。1928年、学校卒業後、工場で製作工として勤務。1932年から労農赤軍。1933年に第3ペルミ航空整備士軍事学校、1934年にレニングラード軍事理論航空学校を卒業。クラスノダールの第74狙撃師団の連絡編隊整備員として勤務しながら、クラスノダール航空クラブで学ぶ。師団長、空軍総司令官、国防人民委員等に40回も上申書を提出して、A.F.ミャスニコフ名称第1カチン軍事航空学校に入校し、1939年、優秀で卒業した。オデッサ軍管区第55戦闘機航空連隊に配属。1941年、MiG-3を装備する連隊の副飛行隊長に任命された。

独ソ戦[編集]

独ソ戦勃発後、開戦初日から出撃したが、最初の飛行では、誤って味方のSu-2爆撃機(後のソ連邦英雄、I.プストゥイゴ操縦)を撃墜してしまった。6月23日、プルート川地区において、5機のMe-109と交戦し、1機を撃墜。1941夏、数機の敵機を撃墜したが、公式には記録されていない。

1942年始め、連隊は後方のザカフカースに移動した。ここでは、イラン経由で持ち込まれたP-39「エアラコブラ」の操縦に習熟した。1943年春、北カフカース戦線第4航空軍第216混成航空師団の第16親衛戦闘機航空連隊の飛行隊長となり、4月12日、第4航空軍司令官の目の前で4機のMe-109を撃墜した。同日、更に3機を撃墜した。1943年5月24日、354ソーティー、空中戦54回、撃墜13機、協同撃墜6機の戦功に対して、ポクルィシュキン大尉に最初のソ連邦英雄称号とレーニン勲章が授与された。

1943年8月24日、455ソーティー、撃墜30機の功績に対して、ポクルィシュキン少佐に2つ目のソ連邦英雄称号とレーニン勲章が授与された。その後、黒海、ドニエプル上空での戦闘に参加。

1944年2月、空軍総司令官アレクサンドル・ノヴィコフによりモスクワに召還され、航空学校長職に就くことを勧められたが、これを拒否して前線に戻った。

第16親衛戦闘機航空連隊長代行となり、1944年5月までに550回出撃(うち空中戦137回)、撃墜53機を記録した。同年5月、第9親衛師団長に任命され、P-39N(機体番号100)に乗り込み、プルート、ヤッサム、リヴォスコ・サンドミールの戦闘に参加した。

1944年8月19日、ドイツ・ファシスト占領者との戦いの前線における戦闘任務の模範的な遂行と英雄的貢献」に対して、ポクルィシュキン中佐に3つ目のソ連邦英雄称号とレーニン勲章が授与された。師団を指揮しつつ、ポーランドルーマニアを解放し、ベルリンの戦いに参加した。最後の戦闘は、1945年5月9日のプラハ上空だった。

戦中、計650出撃(空中戦156回)、撃墜59機+非公式75機、協同撃墜6機を記録した。1945年6月24日、モスクワの赤の広場で行われた戦勝記念観閲式時、前線旗を担った。

戦後[編集]

戦後は、防空軍に勤務。1948年にM.V.フルンゼ名称軍事アカデミー、1957年に参謀本部軍事アカデミーを卒業。1968年~1971年、祖国防空軍副総司令官。1969年、軍事科学準博士。1972年、航空元帥の称号が授与された。1972年~1981年、全連邦陸軍・航空隊・艦隊義勇協力協会中央委員会議長。1976年からソ連共産党中央委員会委員。第2期~第10期ソ連最高会議代議員。1979年~1984年、ソ連最高会議幹部会議員。

1985年11月13日、死去。モスクワに埋葬。

著書[編集]

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  • «Крылья истребителя»(『戦闘機の翼』)
  • «Твоя почётная обязанность»(『君の名誉ある義務』)
  • «Небо войны»(『戦争の空』)
  • «Познать себя в бою»(『戦いを知れ』)

顕彰[編集]

全て第二次大戦時。大戦の功で3度授与されたのは3名しかいない。


故郷のノヴォシビルスクには胸像が立てられた。ノヴォシビルスク名誉市民。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]