アレクサンドリーネ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
デンマークおよびアイスランド王妃アレクサンドリーネ
アレクサンドリーネ王妃

アレクサンドリーネ・アウグステ・ツー・メクレンブルクAlexandrine Auguste Herzogin zu Mecklenburg[-Schwerin], 1879年12月24日 シュヴェリーン - 1952年12月28日 コペンハーゲン)は、ドイツの諸侯家門メクレンブルク家の公女で、デンマーククリスチャン10世の王妃。

生涯[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世と、ロシア大公ミハイル・ニコラエヴィチの娘であるアナスタシヤ・ミハイロヴナの間の第1子、長女として生まれた。弟にはメクレンブルク家最後の大公フリードリヒ・フランツ4世、妹にはドイツ皇太子妃・プロイセン王太子妃ツェツィーリエがいる。1898年4月26日にフランスカンヌにおいて、デンマーク王子クリスチャンと結婚、夫妻は1902年よりオーフスマーセリスボー城Marselisborg Slot)に住んだ。アレクサンドリーネは1906年に王太子妃となり、1912年には王妃となった。

アレクサンドリーネは音楽に関心を持ち、コペンハーゲン音楽協会(Musikforeningen)やデンマーク・ワーグナー協会(Den danske Richard Wagnerforening)の後援者となった。針仕事も好きで、王妃の編み物は慈善目的で売り出されたりした。1926年に姑のロヴィーサ王太后が死去すると、王太后が創設した数多くの慈善団体の総裁職を引き継いだ。第1次世界大戦中の1914年には、貧困家庭の支援を目的とした王妃立中央協議会(Dronningens Centralkomité)を創設した。

王妃は夫クリスチャン10世とともに、第2次世界大戦中の母国ドイツによるデンマーク占領期間中は、国民の抵抗のシンボルとして高い人気と尊敬を集めた。ヴェーザー演習作戦に伴って1940年4月9日にデンマーク政府が降伏した後、王妃は占領軍の代表として国王夫妻と謁見したレオンハルト・カウピッシュ空軍大将(Leonhard Kaupisch)に対して歓迎の意を表するのを拒み、デンマークに対する忠誠の強さを印象付けた。抵抗運動の指導者で劇作家のカイ・ムンクKaj Munk)も、「我々が愛すべき唯一のドイツ人である王妃を守らねばならない」と王妃に対する敬愛の念を表している。1952年に亡くなり、ロスキレ大聖堂に葬られた。

子女[編集]

参考文献[編集]

  • Börge Outze & Aage Svendstorp: 5 år i bojor. Danmark under ockupationen 1940–1945 Aktiebolaget boktryck. (1945) Hälsingborg.

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、Alexandrine zu Mecklenburgに関するカテゴリがあります。