アルバロ・レコバ

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アルバロ・レコバ
名前
本名 アルバロ・アレハンドロ・レコバ・リベロ
愛称 エル・チーノ
ラテン文字 Álvaro Alejandro Recoba Rivero
基本情報
国籍 ウルグアイ
生年月日 1976年3月17日(33歳)
出身地 モンテビデオ
身長 179cm
体重 79kg
選手情報
在籍チーム ギリシャの旗 パニオニオスFC
ポジション FW/MF
背番号 9
利き足 左足
代表歴
1995-2007 ウルグアイ 69 (12)
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

アルバロ・レコバÁlvaro Alexandro Recoba Rivero1976年3月17日 - )は、ウルグアイモンテビデオ出身同国代表パニオニオスFC所属のサッカー選手

東アジア人のような顔立ちをしていることから、チーノ(el chino = 中国人)の愛称で呼ばれている。背番号20が気に入っているようでクラブでもウルグアイ代表でも好んで着けている。

1990年代後半から2000年代初頭を代表するファンタジスタの一人。絶好調時は「ジダンすら凌ぐ」とも言われたほどで、完全に1人で試合を決めてしまうほどの活躍をみせた。しかし、好不調の波が極めて激しく、不調時は試合から完全に消えている状態となり、「絶好調か、絶不調か」でその中間が存在しなかった。

目次

[編集] 経歴

[編集] クラブ

ダヌービオでプロキャリアをスタートさせると、1996年には名門ナシオナル・モンテビデオへ移籍。ここでの活躍が評価され、欧州ビッグクラブからも注目される存在となる。

1997年インテルへ移籍。8月31日、ホームのブレシア戦でデビューを飾ると試合終了間際10分間で2得点を挙げる活躍をみせた。その後は暫くは出番に恵まれずヴェネツィアレンタル移籍するが、ここで本領を発揮する。19試合で10ゴールを決め、セリエA残留に大きく貢献した。

インテル時代のユニフォーム

1999年にインテルに復帰し、2001年1月には2006年までの5年契約を結んだ。この間、ロナウドロベルト・バッジョイバン・サモラーノクリスティアン・ビエリら多くのFWが加入しては去っていったが、激しいポジション争いを潜り抜け、インテルの中心選手の一人として活躍した。しかし2000年代半ばに差し掛かると、年齢的な衰えから、ズラタン・イブラヒモビッチアドリアーノエルナン・クレスポらといった新加入の選手の台頭により出場機会は減っていった。レコバは出場機会の少ない事を理由に2006-07シーズン終了後にはクラブを去る意向を持つ様になった。

そして2007-2008シーズン開幕直後に出場機会を求めてトリノへレンタル移籍。加入直後のレッジーナとの最初の試合では得点こそ無かったものの好パフォーマンスを見せ、12月19日のコッパ・イタリアASローマ戦では2得点を記録し3-1の勝利に貢献した。しかし幸先の良いスタートにも関わらず怪我の影響などもあって期待された活躍をする事は出来なかった。シーズン終了後にインテルとの契約が切れ、フリーの状態となっていたが、9月にギリシャパニオニスFCに移籍した。

[編集] 代表

レコバは1995年にウルグアイ代表に選出されて以来、2007年までに69試合出場12得点を記録した。2002 FIFAワールドカップ予選ではプレーオフでオーストラリアを下し同国を3大会ぶりのワールドカップ出場に導いた。本大会では1次リーグ最終戦のセネガル戦で1得点を記録したが、試合は3-3で引き分け、決勝トーナメントに進出する事は出来なかった。

2006 FIFAワールドカップ南米予選では5位となり、2005年9月に行われたプレーオフでは再びオーストラリアと対戦する事となった。しかし、今度はオーストラリアにPK戦の末に破れ本大会出場を逃した。

所属するインテルでは出場機会に恵まれず不遇の日々を送ったが、ウルグアイ代表には度々招集された。2007年にベネズエラで開催されたコパ・アメリカ2007にも出場している。

[編集] エピソード

  • 試合前には母親からもらったキリスト像に必ず祈りを捧げてからピッチに向う。
  • レコバの全盛時代にインテルで監督を務めたマルチェロ・リッピは、レコバについて、「その凄絶な個人技が、チームのためでなく、あくまで彼個人のショーとして披露されることを、許容できない」として、ベンチに置くことも少なくなかった。
  • 全盛時でも乱調のシーズンが多かったが、神懸かった時のプレーの印象は鮮烈で、多くのインテルファンに愛されてきた。特にインテルでのデビュー戦での40m級のロングシュートと、同じく30m級の直接FKは今日でも語り草となっている。同試合でデビューした怪物ロナウドの存在が霞むほどであった。
  • 長年クラブの会長を務め、インテルのパトロンであるマッシモ・モラッティ氏はレコバの大ファンとして知られており、全盛期に数多くあった他クラブからのオファーをことごとく断っていたというエピソードは有名。
  • 戦術に全くとらわれない自由奔放なスタイルで知られる。理想的な監督について聞かれ、「自分に自由を与えて試合で使ってくれれば、誰でもいい」と戦術論やチームビルディングには一切興味を示さなかった。
  • 好調時には、左足一本で1人で試合を決めてしまうプレーぶりから「左足の独奏者(ソリスト)」とも称えられたが、不調時には「夢遊病者のようにグラウンドをうろついてるだけ」と批判された。
  • レコバがインテルでの晩年に、監督を務めたロベルト・マンチーニからは出番を与えられず、不仲が続いた。マンチーニはレコバがチームを去る際、「驚異的な才能を備えた選手だと常々思っていた。特に若い頃は素晴らしかった。私のキャリアの中でもあれ程の有り余る才能を目にする機会は無かった」としながらも「観戦する側としては楽しめるが、監督の身分としてマネジメントするには困難な選手だった」と述べている。

[編集] 所属クラブ

[編集] 獲得タイトル

[編集] 個人タイトル

ウルグアイリーグ 最優秀選手

ウルグアイリーグ 得点王

ウルグアイリーグ 最優秀新人

[編集] 外部リンク