アルジェリー (重巡洋艦)

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Algerie-3.jpg
アメリカ海軍が1942年に撮影した識別用写真。トップの黒い円盤状のものは僚艦に敵艦への射撃データーを視覚的に知らせるレンジ・クロック。
艦歴
発注: ブレスト工廠
起工: 1931年3月19日
進水: 1932年5月21日
就役: 1934年9月15日
退役:
その後: 1942年11月27日に自沈
除籍:
性能諸元
基準排水量: 10,000トン
13,900トン(満載)
全長: 196.2m
水線長: 180.0m
全幅: 20.0m
吃水: 6.15m
機関: アンドレ式重油専焼水管缶6基
+ラトー・ブルターニュ式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力: 84,000hp(公試時:93,230hp)
最大速力: 31ノット(公試時:32.9ノット)
航続性能: 15ノット/8,500海里
乗員: 748名
兵装: 1931年型 20.3cm(55口径)連装砲4基
1930年型 10cm(50口径)連装高角砲6基
55cm三連装水上魚雷発射管2基
(1942年の改装後:
1933年型37mm(50口径)連装機関砲4基
1929年型13.2mm(50口径)機銃20丁追加)
装甲: 舷側:110mm(水線最厚部)
甲板:30mm~80mm
機関室:95mm
主砲塔:110mm(前盾)、70mm(側盾)、70mm(天蓋)
司令塔:100mm(前盾)、70mm(側盾)
航空兵装: 水上機3機
火薬式カタパルト1基

アルジェリー (Croiseur lourd Algérie) は、フランス海軍重巡洋艦第二次世界大戦前に最後に竣工させた艦であり、同型艦は無い。

概要[編集]

本艦はワシントン海軍軍縮条約で定められた一万トンという制約の中で、重量計算と設計により攻撃力・防御力・機動力を高い次元でバランスし、纏め上げた優秀な重巡洋艦と評価される。

艦形[編集]

本級の武装・装甲配置を示した図。

フランス近代巡洋艦で長らく主流であった船首楼型から一転して、水面から乾舷までが高い平甲板型船体に改められた。これは、複雑な加工を要する船首楼型よりも平甲板型のほうが船殻重量が軽減でき、工事も容易であるためである。また、従来は箱型艦橋と前部マストの構造は軽量な三脚檣を採用していたが、本艦は塔型艦橋を採用している。これは、従来は三脚檣型式で航海艦橋と戦闘艦橋に加え、見張り台や探照灯台を各段に分けて配置していたのだが、機能と利便性を考えて各階の床面積を充実させて行った所、大日本帝国海軍の戦艦に多く採用された「パゴダ・マスト」の如き様態を示すようになり、三脚檣の利点である「軽量」が意味を成さなくなったためである。そのため、本艦から塔檣を採用した。また、本艦は後述するが機関のシフト配置を採用しなかったために前級では二本あった煙突は一本に纏められ、二番煙突があった場所は探照灯台となり、基部は艦載艇と水上機を運用する二対のクレーンが付く。また、後檣も本艦から単脚檣から軽量な三脚檣になった。

外観[編集]

右舷からの写真

軽くシアの付いた艦首甲板から本艦より新設計の「1931年型20.3cm(55口径)砲」を連装砲塔に納め、1・2番主砲塔を背負い式で2基、艦橋を組み込んだ軽量な塔型艦橋、直立した1本煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、その背後に水上機射出用カタパルトと探照灯台が配置された。探照灯台の基部は片舷1基ずつ付いたクレーン計2基により艦載艇と水上機が運用された。左右の舷側甲板には新設計の「1930年型10cm(50口径)高角砲」を連装砲型式で左右3基ずつ計6基12門装備した。また、雷装では前級で廃止していた魚雷兵装を復活し、55cm三連装水上魚雷発射管を片舷1基ずつの計2基6門と必要最小限の雷撃能力を持った。

船体後部には簡素な三脚型後部マスト、後ろ向きに3・4番主砲塔を背負い式に2基配置した。舷側には従来艦では上下二列に丸い舷窓が並ぶが、本艦では艦の前後にかけて舷窓が並ぶのは上段のみで、舷側を広範囲に覆う110mm装甲帯のために下段は艦前部の狭い箇所と艦尾側しか舷窓が存在しない。

武装[編集]

1942年に撮られたアルジェリー。

主砲[編集]

主砲は新設計の「1931年型20.3cm(55口径)砲」を採用した。この主砲身の調達方法は一風変っており、実は砲身は準弩級戦艦「ダントン級」の副砲である「1902年型 24cm(50口径)砲」のA筒の流用品である。よって、本艦のみ自緊式砲身ではない。何故にこのような方法を採ったかと言えば一つは砲身製造を安価に行うためであり、短期間で55口径という長砲身を開発する為である。その性能は同世代の20.3cm砲の中でも重い134kgという重量級砲弾を、仰角45度で31,000mも届かせる長射程を得られたことで証明出来る。
(同世代砲では平均して主砲弾は115~125kg、射程は27,250 m~29,400 mである。これを超えるものでは以降に製造されたドイツ海軍の「アドミラル・ヒッパー」級に搭載された「1934年型20.3cm(60口径)砲」の登場を待たねば成らない)
この砲を新設計の連装砲塔に収めた。俯仰能力は仰角45度、俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右150度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分3発である。

高角砲、その他の備砲[編集]

高角砲も新設計の「1930年型10cm(50口径)高角砲」を採用した。この砲は後に同海軍の「リシュリュー級」にも採用された。13.5kgの砲弾を仰角45度で15,900 m、14.2kgの対空榴弾を最大仰角80度で10,000mの高度まで到達できた。旋回と俯仰は電動と人力で行われ、左右方向に80度旋回でき、俯仰は仰角80度、俯角10度であった。発射速度は毎分10発だった。これを連装砲架で6基12門を搭載した。当時の条約型重巡洋艦では12門という、新鋭戦艦並の高角砲門数を持つものは「イタリア海軍」で就役していた「ザラ級」を除いて例が無く、本艦の対空火力の優秀性を示すものである。
(同世代の重巡洋艦では10.2cm~12.7cmの口径の砲を8門積むのが精一杯であった。「ザラ級」も「1927年型10cm連装砲」を8基16門と強装備であるが、この砲はそもそもの設計年次が第一次世界大戦シュコダ社でオーストリア=ハンガリー帝国海軍向けに製造した「K11型10cm(47口径)砲」という旧式砲を模造し、対艦攻撃用の平射砲から対空高角砲へと無理に改造したもので、対空攻撃には無理のある代物でイタリア海軍でも副砲として考えていた)
後に1942年の大改装で、後部三脚檣とカタパルトを撤去した。跡地には高角砲をカバーする為に「1933年型37mm(50口径)機関砲」を連装砲架で4基、「1929年型13.2mm(50口径)機銃」を20丁増備し、それを指揮する対空指揮装置と対空レーダーを追加装備した。 

機関[編集]

フランス近代巡洋艦伝統の機関のシフト配置は本艦では採用していない。従来艦ではボイラー缶・タービン機関・ボイラー缶・タービン機関という風に前後に並べる「シフト配置」から、単純にボイラー缶・タービン機関を前後に並べる「全缶全機配置」に立ち戻ったのは、前者の配置方式では機関室の長さを短くすることが難しく、防御範囲を狭めて防御重量に充てる事ができないためである。また、前級の「シュフラン級」で9基有ったボイラー缶を1/3の3基も減らし6基としたのは、機関が占める重量を減らし防御重量に充てる為である。ボイラーの減少とは逆にタービン数は増やされ、前級で3基3軸であったギヤード・タービンは4軸に増加した。出力は前級の90,000hpから84,000hpと、6,000hp減少したが船体形状の改善により公試において最高出力93,230hp時で速力32.9ノットを発揮し、速力15ノットで8,500海里を航行することが出来た。結果的に速力は前級と変らない常用31ノットを容易に発揮する事ができた。

船体[編集]

船体形状は前述の通り平甲板型船体を採用している。前級よりも艦首が低くなった為に荒天下では凌波性が若干に低下したことが推測できる。だが、前級よりも2m長く、1m幅が広くなり、1m浅くなった船体は安定性はより向上したと伝えられている。また、本艦からは船体における重油タンクが「シュフラン級」の1,800トンから3,180トンと、1.7倍の容量を得たが、これは後述する船体舷側の重油タンク層を増やしたのと、前大戦で猛威を振るった通商破壊艦を追撃するに必要な長大な航続能力を得るためであった。船体形状の改良により前級よりも若干低下した機関出力で同等の速力が容易に発揮できた。

防御[編集]

本艦は仮想敵として、先に「イタリア海軍」で建造されていた重巡洋艦「ザラ級」への対抗から、直接防御・間接防御ともに最初の重巡洋艦であるデュケーヌ級の防御様式とは比べ物にならない重防御を施された。基準排水量を条約内の一万トンに収める為に船殻重量と機関部重量を抑え、綿密な重量計算により捻出されたのは排水量の四分の一にあたる約2,600トンの防御重量であった。これにより装甲をふんだんに使う事ができ、舷側水線部防御は110mmに達し、最上甲板に張られた水平防御も最厚部で80mmから最薄部の30mm、機関区装甲は別個に95mm、主砲塔防御は前盾装甲が110mm、側面装甲と天蓋装甲が共に70mm、司令塔が最厚部で100mmが奢られ、実質共に条約型重巡洋艦随一の重防御艦となった。更に、機関区の両舷の側壁は甲板から艦低部まで縦に貫く縦隔壁が張られ、これと水線部装甲の間に重油タンクを配置し、対魚雷用の間接防御として機能させるインナーバルジ方式としての工夫であった。
(本級を超える重防御艦として1931年に竣工した「ザラ級」の舷側防御・主砲塔防御150mm装甲防御が挙げられるが、こちらは条約で定められた排水量を超過させて実現した代物である。また、イタリア海軍は地中海での行動を重視した設計の為に燃料重量や船殻重量を低く設定することが出来るため、本国から遠く離れた植民地からの通商路を護る必要のあるイギリス海軍やフランス海軍よりも設計において有利であった事も付け加えておく)

艦歴[編集]

アルジェリーは1931年3月19日にブレスト工廠で起工する。イタリア海軍ザラ級重巡洋艦に対抗して建造されたアルジェリーは、1934年9月15日に就役、第二次世界大戦の勃発時には第1巡洋戦隊の旗艦であった。部隊は重巡洋艦デュプレ (Dupleix)、フォッシュ (Foch)、デュケーヌ (Duquesne)、トゥールヴィル (Tourville)、コルベール (Colbert)、および第5、第7、第9駆逐艦隊からの駆逐艦から構成された。アルジェリーは戦艦ストラスブール (Strasbourg)、イギリス海軍航空母艦ハーミーズ (HMS Hermes) と共にダカールを拠点として、ドイツポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Admiral Graf Spee) の追撃戦に参加した。

1940年3月にトゥーロンで整備を受けた後、アルジェリーはフランス政府の金塊3,000ケースを積み、戦艦ブルターニュ (Bretagne) と共にカナダに向かった。4月に地中海に戻ると、イタリアのフランスに対する宣戦布告後の6月14日に重巡洋艦フォッシュなどとともにヴァード・リーグレに対して砲撃を行った。列強の本土へ海軍艦艇が艦砲射撃を行った初めての事例である。フランス降伏前のアルジェリーの最後の任務は海軍の本職である船団護衛であった。

1940年にフランスが降伏すると、アルジェリーはヴィシー政権の下トゥーロンを拠点として活動する。ヴィシー政権での唯一の任務は、オランを脱出した戦艦プロヴァンス (Provence) をトゥーロンまで護衛することであった。1941年には高角砲と対空兵装が強化され、1942年にはレーダーが取り付けられた。

1942年11月27日にドイツ軍が侵攻すると、アルジェリーはトゥーロンの他の艦艇と共に自沈処分が行われた。アルジェリーは爆薬によって爆破され、20日間燃え続けた[1]

1943年3月18日にイタリア軍がアルジェリーを浮揚したが、破損が激しく修理不能だったため、その後スクラップとして解体された。

脚注[編集]

  1. ^ Enrico Cernuschi, Vincent P. O'Hara, Toulon: The Self-Destruction and Salvage of the French Fleet, Warship 2013, Conway, 2013, ISBN 9781844862269

関連項目[編集]

参考図書[編集]

  • 「世界の艦船増刊 フランス巡洋艦史」(海人社)